2022-11-03 | あほらしきこと


みやこわすれという花を戴いた時のことだ。
「綺麗な江戸紫ですね」っと声を掛けると、
「好きならあげるよ」といって、さっさと花を引き抜いて渡してきた。
「頂いていいのですか?」
「好きなんだろ」
「えっ!ハイ好きです、ありがとう」
本当は、みやこわすれの花が好きなわけではなく、
縦縞模様という江戸の粋さが好きと言うのと同じで…
「江戸紫」と言う言葉と色が好きで、

「みやこわすれ」の名の由来が好きで…と、いうだけのことだ。

些細なことだが私は嘘をついた分けだ。

人間は生まれながらにして、嘘をつく才能を持ち合わせている。 
適度な嘘は平和に生きるために必要な場合があるっていいながらね^^


ドストエフスキー曰く、

  本当の真実というものは
  いつでも真実らしくないものだ。
  真実をより真実らしく見せるためには、
  どうしてもそれに嘘を混ぜる必要がある。
  だから人間はつねにそうしてきたものだ。

らしい。
そう、そんな嘘もあるってことだ。
思えば父にも母にも嘘をついたかな、そう彼にもね。
「みやこわすれ」のような単純ことではなく、
重い嘘をおもいだす。
そんな重い嘘は大切な人との関係ばかりだ…
しかも切なく思い出す。
きっと嘘にはそんな側面があるのかも知れない。

そう、なんとなく大切にしたい嘘ってあると思う… 
「嘘のない歴史ほど面白くないものはない」と 
誰かが言っていたけど、
こころの潤滑油みたいな笑ってしまう嘘もあるしね。

そして、辛くてもつき通さなきゃならない嘘。
映画「ライフ イズ ビューティフル」かな、
主人公は笑いながら、子どものために嘘をついた。 
悲しいけれど、強い父の愛がついた、
私のレベルじゃ到底吐けない大きな嘘だ。 

そして、
独りよがりで、なんだか切ない片思いのような、
ほんとうは嘘だと分かってほしい嘘もある。

そして嘘を吐かれた側から言えば、
嘘と分かっていても信じたい、信じてあげたい嘘。

ほんと、
いろいろな嘘がいっぱいの人間社会だけど、
それでもきっと、ついちゃいけない嘘も…、あるのだろうな

 

 

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おんなともだち

2022-10-01 | あほらしきこと

 

きみはまだ覚えているだろうか
やがて巡りくる春は匂をちらつかせ
6m道路を隔てるだけなのに


 

なんと遠い夢かと思っていた頃を

三人三様の時間は足早に過ぎ
それぞれが選んだ道から
少し距離を置いた互いのプライドが
古い窓ガラスに歪んで映る
道を隔てた遠い夢は 
みごとな嘘をついた

 

 

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言語と魂

2022-09-28 | あほらしきこと

誰だかが言っていた。

「一つの言語は一つの魂を持っている」ってね。
大人になるとそんなことなどどうでもよくて、
心惹かれる事もなくなった。

きっとそのころから言葉のすれ違いというか、
周囲と不要な接触を避け、無関心を選択するようになっていった。
こころに、砂漠化が添い寝をはじめたってことかも知れないね。

偉い人たちがこぞって言い。
言語は、その言語を使う人たちの文化(価値観)に影響して、
社会が構築されるってね。
私たちは、実際に存在しないモノについて、話ができ。
実際に存在しないモノについて、認識することができる。
つまり、存在しないものについての情報を伝達する能力、
五感では感じたことのないありとあらゆる種類の存在について
話すことが出来るってこと。
そしてそれはサピエンスだけの能力なのだそう。
こうしたサピエンスが持ち得た能力を、
「認知革命」だと、ハラリ氏は云っている。

「現実」は言語により認識されるものだから、
言語が違えば現実の認識も違うってことを意味する。
簡単に例えると「オレンジ色」という単語がない社会には
当たり前だけど「オレンジ色」は伝わらない。


最近驚いたことがあって、
それは世界にとてもたくさんの言語があると言うことだ。
その数はかなり消滅し、今も消滅し続けているようだけど、
それでも今でも7,000言語は下らないらしい。
言語の定義にもよるだろうけれどね。

でも、一つの言語が一つの魂(文化)を持つなら、
言語が消滅したということは魂(文化)が消滅したということで、
やがて世界は一つまた一つ文化が消えていけば、
単一化される時代が来るとしたハラリ氏の結論にピッタシだ。

でも単一化とはどんな状態なのだろう…?
言語が一つ一つなくなり、魂も一つ一つなくなるから、
けれど国際共通語が闊歩しても、魂が共有されることは無いような気がする。
原語は翻訳機が活躍するかもだけど、魂の翻訳は難しい。

なんだか一握りの選ばれた集団とその他(十派一絡げ)の檻の中の大衆、
という単一化なだとしたら寂しくあるし…。
その世界は無機質で悲しい共存の時代だろうな。

「多様性を受け入れる文化が大切」だなんて
物わかりの良い大人に説得されグローバル化が進み、
社会的・経済的に国を超え、
世界規模で結びつきを深めようとしたけれど…
人種や性差別をはじめに、
民族や宗教は侵食したり浸食されたり、
厳しく牽制し合うという出来事を経過して、
歴史は憎しみを増幅させた罅割れ状態だ。


そうして辿り着く近未来の世界。
いくつかの言語が消滅し、
伴ってささやかに存在した魂(価値観)が消滅していく…。
いつか一握りのホモデウスに統治され、
人種
諍いの種だった魂は姿を消し、揉め事もなくなるかも。
ああっ!本当にそうなるのかな。

思えば、同じ言語を使っていても、
『伝わってななぁ~~…』と思うことばかりだし。
そう、言葉が伝わらないことのなんて多いことかと、
あきらめ顔で暮らす日々なんだから。

人道的正義か何だか分からないけれど、
物わかりのよさそうな大人と、したたかな商人と、
トーテム・ポールの最上階に住む学者たちが描く夢には、
人間のジレンマなど問題ではないのだ。
すれば、揉め事の種、価値観の相違である魂が消滅して、
共有された言語でコミュニケーションが可能になっても、
魂は無いのですから、きっとそこはカラカラの砂漠なのだしね。


プラスして統一され創作された言語は、そもそも魂が無いから
伝わると伝わらないということの意味など問題にならないし。
そう、言葉は交わされても、それは必要最低限の情報交換。
やがてやって来る大きい転換点の先にあるのは
魂の無い孤独な人間社会ではないかとも思う。
けれど人間は慣れるんだね。
既にインターネットの世界で生きていくことにも、
どっぷりつかって、お付き合いのほとんどは仮想空間だし。
何れにしても、わたしは生きていないから安心しているけれど…

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いろはにほへと

2022-07-04 | あほらしきこと

 

小町の歴史に触れたのは銀座で仕事をしていた時だ。
企画のイメージに使えるだろうかと伝説を調べ始めると、

誕生と終焉の地で260を優に超える小野小町にであった。

当時、若過ぎた私には
小町の壮絶な人生を正面から捉えることが出来ず
途中で調べる事をやめてしまった。

一つひとつ諦めを積み重ねる人生のタイミングに、
開発の手に見事寂れた鄙の地で、小町伝説にであった。

その日、

「門前にあるでんがくのお店に行きましょ」友人からのメールが入る。
場所をネット検索すると、今のねぐら、鐘楼の生活圏に
260余りの物語に漏れることなく、小町伝説が眠るのを見つけた。
目的が「花よりだんご」であってもなぜか懐かしい。

弘法大師により創建されたと云われるお寺の本坊と東院は500m程離れていて
その東院に小野小町の分身が祀られているらしい。

皮膚病(かさ:今の天然痘)になった小野小町が
お寺に篭もり治癒を祈願したところ
夢のお告げで薬水(美濃の国にある霊泉)を授かり完治。
その後、薬水の出るほとりに分身を祀り
東院は「かさ神薬師」と呼ばれるようになった。
傍らには小町の歌が刻まれた碑がある。

  人ごとに汲めば薬と岩清水湧きて恵みを松の下蔭

小町は平安時代に活躍した女流歌人で絶世の美女
しかしその一生はけして平安なものではなかったのだ。

  花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに


美女つながりにもう一人のゆかりの女性。
大正三美人の1人とされる柳原白蓮が1952年
かさ神薬師を訪れ歌を詠んでいた事を知った。

碑に刻まれていた白蓮が読んだ歌。

   やまかげの清水にとへばいにしえの女のおもひかたりいずらく

白蓮がどの様な契機でこの地を訪れたのかはしらない。
歌われている『いにしえの女のおもい』は小野小町の思いだろう…(?
その「おもい」を鑑みるに、衰えていく容姿を受け入れて行く切なさを
共有するもののように思えてもくる。

白蓮がこの歌を詠んだのは60歳代らしい
男の視線を一身に集め、一世風靡した身であれば
小町の病の悲しみは察して余りあるものだっただろう。
移りゆく花の色に白蓮自身も同じ切なさを重ねたかもしれない。

ここに残る小町伝説は治癒を語るけれのだが、
他の伝説では治癒の結末を伝えてはいない。
小町の辞世の句との説。
   我死なば 焼くな埋ずむな 野にさらせ 痩せたる犬の腹を肥やせよ
   あはれなり わが身の果てや あさみどり つひには野べの 霞と思へば

霊泉が語り伝えるのは、切ないいにしえの女(小町)の思いであり
白蓮の、そして男のこころを捉えた女たちの
「いろはにほへと」かもしれない。

花の色は切ない…、そう思う。

 

 

 

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人物:オクタビオ・パス

2022-05-08 | インポート


(1914年3月31日 - 1998年4月19日)メキシコの詩人・批評家・外交官。
林屋永吉とともに松尾芭蕉『おくのほそ道』のスペイン語訳



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