亡きホーキング博士によれば
『完全なAIの開発は人類の終焉を意味するかもしれない…』
やがてやって来るシンギュラリティの時代、
その後を人類はどの様に生きるのかは予想もつかない。
神を頼りに良くも悪くも歴史を編んできた人類にとって、
次世代の人類が頼る神は一握りのホモ・デウスだと
イスラエルの歴史学者(ユヴァル・ノア・ハラリ)が言う。
そしていつの日か、ホモ・デウスもAIに
その全てを任せるようになれば、
それは地球が一つの単一文化になる時かもしれない…。
次々失われてゆく言語や文化の現状は簡単に止められなくて、
となると、デウスじゃなくてデビルだ。
いや、デウスだって好き勝手なことをしてきたのだから、
デウスだろうがデビルだろうがサタンであろうが同じだ。
このままじゃなくても、ホーキング氏の予測は的中するだろうな。
男と女
魅力的な男と女の関係というのがある。
そこに一つの哲理を思う。
拾い読みの、ページをめくる手が止まった。
女性の死に際し、おくる言葉が綴られていた。
そこからヘルダーリンの三篇の詩をピックアップ、
たった三編の詩だけれど…。
しばらく、何も考えないで綴るから、
傍で聞いていてください。
●
遠くからわたくしの姿が
あのお別れのおりに まだあなたにわかるとき
過去が
おお わたくしの悩みにかかわりをもつものよ
●
いくたびも探しもとめ
そしていくたびも諦めました
それでもせめて
その面影を大切にもっていたいと思っていました
●
林のなかで精霊たちがざわめくとき
月のあかりをほのかにあびて
静かな池に皺ひとつふるえぬとき
わたしは あなたの姿を見て会釈する
枕辺をたずねてこいとあきしぐれ あきのの
久し振りにリストを聴いた。
ショパンは我々の中で常に異邦人だったと言ったリストは
ショパンの作品を愛し、ショパンに対し最高の賛辞を惜しまなかった。
「ショパンは魔術的な天才でした。誰とて彼に比肩するものはない」
(リストの手紙)
ショパンは肩を怒らせることなく聴ける。
リストは構えて聴いてしまうことがある。
平面アート(絵画など)や立体(彫刻など)と
音楽一般の鑑賞の仕方が私の中では異なる。
イルミネーションなどや3Dアートの世界も異なる。
これらの好みのレベルでの価値観は
特に日本の評価とはかなり乖離することが多いように思う…?
夜想曲(愛の夢)は詩から入って聴くようになった作品だ。
詩への思い入れの方が強い。
そう言えば『千の風』という詩が重なる。
"O lieb so lang du lieben kannst"
フェルディナント・フライリヒラート/詩人・ドイツ
愛しうるかぎり愛せよ
愛したいとおもうかぎり愛せよ
墓場にたたずみ なげきかなしむ
ときがくる ときがくる
なんびとか 愛のまごころを
あたたかくおまえのためにそそぐとき
おまえは 胸に愛をいだいてあたため
ひたぶるにその炎をもやすがいい
胸を おまえのためにひらくひとを
できるかぎり愛せよ
いかなるときもそのひとを悦ばし
いかなるときも そのひとを嘆かすな
わが舌をよくつつしめよ
あしざまの言葉をふと口にしたら
ああ それは けっして悪意からではなかったのに
けれど そのひとは去り そして悲しむ
愛しうるかぎり愛せよ
愛したいとおもうかぎり愛せよ
墓場にたたずみ なげきかなしむ
ときがくる ときがくる
その時おまえは墓のほとりにひざまづき
うれいに濡れた まなざしを おとす
もはやそのひとの影もない
ほそい しめった 墓場の草ばかり
「あなたの墓に涙をながしている
このわたくしをごらんください
わたくしが あなたをののしったのも
ああ それはけっして悪意からではなかったのです」
が そういってもその人は聞きもしないし見もしない
喜んでおまえをいだきにもこない
しばしばおまえに接吻したその人のくちびるは
ふたたび「とうに許しているよ」とも語らない
あの人は 許したのだ とうにおまえをゆるしているのだ
おまえのおかげで おまえのきたない言葉のために
あつい涙をとめどなく流していたけれど
今は しずかに眠っている もうふたたび目をさましはしない
愛しうるかぎり愛せよ
愛したいとおもうかぎり愛せよ
墓場にたたずみ なげきかなしむ
ときがくる ときがくる
年末だから増える記事でもないだろうが、
毎年、刑務所での惨事が耳に入ってくる。
中でも昨年2022年11月末頃のニュースには少し驚いた。
「大罪を犯した死刑囚3人が
絞首刑による死刑執行は憲法や国際人権規約に違反するとして
国に対し刑の執行の差し止めや、死刑が執行される日を待ち続けることの
苦痛に対する慰謝料などを求め訴えを起こした。…」
欧米っぽい思考の死刑囚だ、一瞬そう思った。
ではなく、名声を得たい弁護士や
話題を作りたい週刊誌が仕掛けたかもしれない。
どちらにせよとても考えさせられた。
そう言えば5~6年前だ。
差し込む朝の光を手の甲に受け、豆をカリカリ、珈琲を淹れる。
色々あっても、この時間帯にホッとする私がいる。
「時に人生はカップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題だ」
どこかで読んだコピーの一文に癒し心をくすぐられた気分で時を過ごす。
TVのスイッチを入れると、海外のニュース番組が放映されていた。
フランスのTV局が日本の刑務所をレポしたドキュメンタリーだ。
特に目新しい題材ではなく、
どこの局でもよくある、ニュースが無い時の埋め草なのだろう…
くらいに思っていた。フランス人記者の中途半端なレポだった。
ドキュメントの趣旨を要約すると、
世界有数な安全な国である日本。
囚人の人数は約5万、フランスは7万だ。
しかし、囚人の高齢者の比率は日本が高い。
しかもその9割が万引きとか些細な犯罪で入所している高齢者だ。
そして、彼らの再犯率は高いというのだ。
老女たちは生活の困窮の末に起こした軽犯罪で刑務所に入所するのだが、
出所してからの再犯率が高い。
彼女たちの刑務所での暮らしは、病気がちだった日々から解放であり、
三度の食事や寝る場所を心配する必要がないことが要因らしい。
刑務所側も監視員を置くのではなく、
介護員を増やしているとドキュメンタリーは結んでいた。
アカデミー賞で日本の『万引き家族』がノミネートされていたから
話題として過去に取材したのを放映したのかもしれない。
囚人たちの服装は夏だった。
もう何年も前だった、刑務所の老人ホーム化が問題になっていたことがある。
国の社会制度や法制度の問題、そして希薄になった家族関係が絡む。
背中をまあるく屈ませて、食堂を出ていく老女の背丈と横幅が3対1だ。
曲がった足が身体を右左に傾かせ、ドアの向こうに消えて行く。
出所を許された老婆はどんな時間を待ったのだろうか。
達観したような彼女たちが見つけた安堵は切ない選択だったのだろう。
高齢受刑者に嫌悪する納税者が嘯く声が聞こえてきた。
「私たちは貴方達を養ったけれど、あなたたちは何をしてくれたというの」
高齢受刑者たち自身、社会から疎まれている事を充分知っている。
それは彼女たちが、例え認知症であってもだ。
あの時の老婆の時間は、既にどこにもないのだろう。
うふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや /犀星
あの時、扉の向こうに消えた老婆の残像が揺らぐ。
三人の死刑囚の基本的人権と慰謝料を求めた結末はどうなるだろう。
あらゆることを待って、彼らの帰る場所は今の日本にあるといえるだろうか…。
あるまじやなのだ。