美しきは立ち姿?

2024-05-14 | あほらしきこと

筋トレをはじめ、今年の秋で三年になる?

昨年夏、怪我をして手術をした足は、

健康な足の2/3ほどに細くなって、涙がポロポロ。

 

まして、1~2か月ほど前まで、健康な足に頼る癖から抜け切れず、

傍から見れば、不自然な歩き方だった。

そう、歩き方でその人の年齢も分かるけれど、

足の履歴が分かると言うことに気が付いた。

術後の傷、完治しても痛みは残るもので、

辛くてもちゃんと歩こうという意思がないと、

「この人、足を怪我したことあるな…」ってね、

妙な歩き癖が残るものだ。

 

そんなこの頃、筋トレサポーターを個人的に頼まれた。

スポーツに才能ありの記憶は無いし、

それどころか資格の「しの字」もないのだけれど…。

講習を受けた市のサポータはちょっと問題も抱えていて、

ネットや動画などの情報は大洪水の被害を受けているし…。

専門家を名乗る方たちのどれが真実なのかもわからなくなる。

ここにも表現の自由があるようだ・・・?

 

人に何を選択して筋トレをサポートしてよいのか迷った。

「ちょっと待ってよ」と

WHOのレポートや厚労省のレポートをチェックしたり、

情報提供団体や大学の研究室に電話したりと、

本をチョイス、DVDを購入等々、かなり(…?)勉強した。

 

けれど、サポーターをしていて一番困るのは

TV(バラエティー番組)の中途半端な情報発信かな。

おばさまたちはTV情報で、俄か知識人になるのね。

 

まあ、その話は脇に置いて、わたしのタンパク摂取は大豆中心なので、

シックスパックではないけれど腹筋は縦割りだ。

この縦割りはドローインやインナーマッスルのトレーニングを始めて直ぐ効果が出た。

今じゃ腰を立て臍下丹田に注力して、「姿勢を正す」の日々を送る。

 

そう言えば、とある会に参加したときだ。

会も終了してエントランスを出るとき、「綺麗ですね」と声を掛けられた。

久々のほめことばに嬉しく振り返ると、

「奇麗な姿勢をされていて驚きました」とのこと。

えっ!ああ~、姿勢の事なんだ…⤵

「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は・・・」じゃないけれど、

せめて姿勢は…、立ち居振る舞いもかな…?

美しくありたいと、ちょっぴりため息交じりの帰宅だった。

 

 

 

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てふてふ

2023-10-02 | あほらしきこと

「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」

 

なんだか心に沁みたから、調べてみた。

なるほどと思った。

*韃靼海峡(だったんかいきょう)

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母の背中

2023-10-01 | あほらしきこと

ぬくもりの手も絶えた廃屋の北側、

壊れかけた庇の格子窓の下、小さな焚口がついていた。

そこに繰り返されただろう日常は足早に去り

そうしてゆっくり滅んでいったに違いない。

 

昨日までの時がどのようであったのか

私に思い入れはなく

こころに積み上がるものなどない。

 

廃屋の木戸に、

幼子に手を差し伸べるように枝を伸ばしていた松の木が

気付かれることなく朽ち、姿を消していた。

 

思い出せば松風の音と一緒に

ここを吹き抜けただろう風は、故郷のようになつかしいものだ。

松の葉を拾い集め焚口にくべる母の背中が思い出される。

赤い火の粉が、パチパチ纏わりつきながら母の背に遊ぶ。

その背に手を伸ばそうとしたのだけれど

 

何事もなく。

 

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一日千秋

2023-08-25 | あほらしきこと

 

いつの間にか憤りを抱きはじめていたんだね。

押しつぶされそうな圧迫感に慣れっこになったつもり…。

これも年の所為かな。

そうだね、昔見た世界は色あせて、

あんなに感動した言葉も意味を持たず、

翅をつけて軽く軽く飛んで行くから。

 

入院して四日目、私の精神状態は爆発寸前。

入院がこんなに苦痛なものとは思わなくて、

「通常、約一か月の入院です」と言い渡され途方にくれた。

それでも強引に主治医を説き伏せ、退院を要求した。

「明々後日、出張から帰ってきます。検査の結果でOK出しましょう」

と言う言葉を何とか取り付けた。

主治医を待つ二日間が、永遠に続くように感じられたものだ。

 

感じられる時間とは体験された出来事の数ではなく、

出来事を「体験した」と認識するために

必要な認知的負荷が大きいほど長くなることが示された。

このような認知的要因が感じられる時間の長さに及ぼす影響は、

従来考えられていたよりも強いことがわかった(千葉大 人文科学研究院)。

 

ふむふむ、そういう事か。

そうだ、楽しいときは短く、退屈なときは長く感じる時間の流れ。

人が感じる時間の長さの違いは脳の認知的負荷で変化するんだね。

ああ、あと二日、あと二日我慢したら退院できる。

わたしは一日千秋の思いで、主治医の戻るのを待っていた。

 

 

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雨にも負けず

2023-07-26 | あほらしきこと

そう、ちっぽけな私の悩みと同じだ。
だからだね、人類の悩みは数千年のときを経ても変わらない。

どちらにせよ、人格は個人的のようにも思えるけれど、
人間は社会的動物だから、
その環境を切り離しては考えられないものだし、


バーチャル社会は複雑でお手上げではあるけれど、
そもそもリアル社会だってお手上げなのだから。
80億を超える心は80億を超える心の勝手を生きているんだね。

地球は真っ赤に塗られているのに
予報士は「明日も線状降水帯が発生します」と言うから、

 

 


この橋を渡って、雨にも負けず。

 

 

 

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実在の本性について

2023-07-04 | あほらしきこと

タゴールとアインシュタインの対談

「あなたは神を、この世界から遊離した・超越したものとして信じていますか?」
と、問いかけるアインシュタインに、タゴールは答えた。
「私は神を信じています。けれど神は世界から遊離・超越してはいません。
人間の無限のパーソナリティーは宇宙を包含しているのです」

 

つまり物理学者であるアインシュタインは
この地上に人間が一人もいなくても、宇宙は存在すると主張するのに対し
タゴールは、神も含めあらゆる真理は人間が存在してこそ成り立つという。
なぜなら、宇宙の存在を感じているのは人間に他ならないのだから…

それでも宇宙の実在がなければ
科学というものも成り立たないとアインシュタインは反論。
対しタゴールは、科学も人間が生んだもの、実在を感じるのも人間。
人間というものがこの世の中に存在しなければ
この世界そのものが無だ、という。


アインシュタインは子供のころ好きだった。

多分、思いもかけず異端で人間臭いところ...
タゴールは大人になってから興味を持つことになった。
縁あって手にしたキューブラー=ロスの著書『死ぬ瞬間』のなかで
各章の扉に使用されていたのが、タゴールの詩だ。

 

『タゴール詩選/迷える小鳥』
 176
瓶の水は光っている、海の水は暗い、
小さい真理は明らかな言葉を持ち、
偉大な真理は偉大な沈黙をもつ。

 

 

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不確定という世界

2023-06-08 | あほらしきこと
 
裏木戸を開けると、
細長く伸びた土間の奥、
二つ並んで、ひび割れた釜戸が目に飛び込んできた。
時間の痕跡に四角四面の思い入れはなく、
こころに積み上げた無意味な閑さが胸を衝く。

拾い集めた小枝を焚口にくべると、
パチパチ赤い火の粉が纏わりつくようで
払おうと伸ばした左手が空をつかんだ。
 
 
 
 
 
自己に依存した主観的世界に、私は確かに存在している。
私が認識していた故郷の現実は誰も知らないだろう…
きっとね。
現実は観察者の数だけ存在するのだから。
 
それでも、どこかの偉い人が言うみたいに、
複数の認識回路が複雑に影響し合い様々な現実が存在するというのは、
納得しても、許容範囲をオーバーしてしまい、
本当に理解してるのかと問われたら、首が斜めに振られてしまう。
それでも、世界は本質的に不確定性をもっているってことは何となく分かる。
 
けれども、私は私に過ぎないのだから、
 
 あんなに愛しい家族が暮らした細長く伸びた土間の奥、
二つ並んだひび割れた釜戸が目に痛く沁みても、
そう、だから、つまり、そういうことなんだ。
仏教用語では『不可知性』っ言うやつだね。
 
ふるさとは遠きにありて思ふもの
 
 
 
 
 
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ポグロム

2023-04-21 | あほらしきこと

ポグロム(погром、パグローム):Wikipediaより


ロシア語で「破滅」、「破壊」を意味する言葉。
特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、
ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。
歴史的にこの語は、ユダヤ人に対して、
自発的計画的に広範囲に渡って行われる暴力行為と、
同様な出来事について使われる。

ポグロムは標的とされた人々に対する物理的な暴力と殺戮を伴っている。

 

人類が辿った愚かな歴史を学んだ。

ボキャブラリーは少し増えたけれど、

大切なものがボロボロにすり減ってしまった。

 

 

 

 

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真っ赤なバラ

2023-04-19 | あほらしきこと

 

勿体なくも大切な時間を使ってしまった。
でもね経験と知識をプラスして、裏切りにも強くなったし、
紛いもの(者)への対処にも賢くもなった。
ほんとうに色々学んだ。
「事実は小説より奇なり」
フムフム、なんだか異常で奇妙な人間社会の中でね。
バイロンの名言が大当たりだ。

 

話には羽が生えていて…(?
近頃疲れっぱなしのわたしだけど、
とてもぬくいお裾分けに心がほころんだ。
つい最近のこと、花屋の前を通過すると、
真っ赤なバラの花束を抱えた男の人が出て来た。
数十本は抱えていた…。
恋人へバラの花束をプレゼント(プロポーズ?)だね。
こんな田舎町には似合わないくらいのカッコよさだけど、
お相手の女性に幸せが届くのだ。なんて素敵なことだろう。
もちろんね、君の愛、もしかしたら寄り道もするだろうな…、
けれどね、ちょっと見たドキュメンタリーに思う。
これが大人の愛だってね。


ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”」BSドキュメンタリー
ミハイル・ゴルバチョフ氏の最晩年を取材したドキュメンタリー。
モスクワ郊外で静かに暮らした旧ソ連最後の最高指導者が、
ソ連崩壊後の人生とプーチンのロシアを語っていた。
*世界最大のドキュメンタリー映画祭IDFAで最優秀監督賞。
*原題:Gorbacherv.Heaven(ラトビア/チェコ 2020年)


ドキュメンタリーの最後に、90歳を過ぎた彼が、
共に生きた妻を恋しく語る心は切なかった。
時が過ぎ、バラの花を抱え花屋から出て来た君が、
長年連れ添った妻に再びバラの花をプレゼントできたら…。
それは、もっと、素敵なことに違いない。

 

 

 

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2023-04-16 | あほらしきこと


本当の真実というものは
いつでも真実らしくないものだ。
真実をより真実らしく見せるためには、
どうしてもそれに嘘を混ぜる必要がある。
だから人間はつねにそうしてきたものだ。
―― ドストエフスキー ――

 

人は生まれながらにして
嘘をつく才能を持ち合わせているらしい^^

私が生まれる前、祖父母は他界。
よくある出来事が暮らしを一変
それからというものずるずると斜陽の一途
(これ以上どのように下がるのと聞かれたら困るのですが(´0⊂ヽ)だった。

そんな、あがきの終止符に
お手伝いのAが暇を取った。
「もう歳なので引き取りたい」
ご子息から申し出があったのよ、と母から聞かされた。


お別れの挨拶もなくいなくなったのだから
人間だし、それはいろいろあったのだろう。
聞かせたくないことを選別するより
何も言わない判断をした母の嘘をそれなりに理解した。
そして、それはそれで何事もなければ忘れてしまう事だった。

しかし、さほど月日も経たないある日
知らない家の前を掃除しているAを見かけることになる。
何もこんな近くで働かなくても…と、なにやら悲しかった。
家族のように思っていたAとの距離は無限に遠のいた。

嘘を吐く手段は言葉だけではなく、映像も嘘を吐くことができる。
とっさの判断に私の脳は、Aが存在しない映像を記憶した。
中枢に記憶された映像は、訳の分からないものへの憤りと
嘘が嘘ではなくなるというレトリックだったのだろう。

言葉にはならないのだけれど守りたい何かがあった。
それは九つの年を数えた秋のことだった。

 

 

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ピカピカの誇り

2023-04-09 | あほらしきこと

横断歩道をランドセルを背負う少年が渡っていく。
身体からはみ出す真新しいランドセルが今にも肩から落ちそうだ。
二つの小さな手がランドセルのたすき(?)をしっかり掴んで、
少年の足取りは身体が傾く方向へと弧を描く。
小さいながらも懸命さに、ピカピカの誇りがある



そう言えば美濃和紙の産地に出かけたときだ。
やはり大きなランドセルが肩からズレるのを気にしながら、
お店から出てくる少年に出会ったことがある。
その仕草があまりにあどけなくて、思わずカメラを向けた。
少年はずり落ちるランドセルに体を傾かせ、
踵を返えした。
驚かせちゃったね^^
 
そうだね、君もまた、
ちいさな誇りを知った、ピカピカの一年生だったね。
 
 
 
 
 
 
 
 
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白い鳥と黒い鳥

2023-04-05 | あほらしきこと

コートジボアール人から聞いた寓話です。

 


「もしも騙されたら、騙した人が悪いのではなく
 騙された自分にも原因があるって、
 僕は子供のころ、そう教えられたんだ。
 僕の生まれた国のお話なのだけど…」

そう言って彼は話し始めた。
褐色の闇の中で、キラキラと二つの目が輝いた。




人の心には小さな白い巣と黒い巣があってね
白い巣には白い鳥が棲んでいて
もう一つの黒い巣には黒い鳥が棲んでいるんだ。

例えば僕が、相手を騙してやろうとしたら
僕の心のなかの黒い巣から黒い鳥が飛び立っていく。
もしも相手の黒い巣が空いていたら
僕の黒い鳥は相手の心の中の黒い巣を占領する。
だけど、相手が誰も騙そうと思っていなければ
相手の心の黒い巣は塞がっているから
僕の黒い鳥は僕の心の黒い巣に帰ってくるしかないんだ。
だから僕の相手を騙してやろうとする心(黒い鳥)は
相手に何の弊害も与えることができないということなんだ。

反対にね、僕が人にやさしくしてあげようとする時は
僕の白い巣から白い鳥が飛んで行く。
もしもその人が、誰かにやさしくしていたらその人の白い巣の白い鳥は
誰かの白い巣へ飛んで行っているわけだから白い巣は空になっている。

だからね、僕のやさしさがその人の空いている白い巣を埋めてあげられる。
そうしたら、僕の空いた白い巣にも
どこからかやさしい白い鳥が飛んできてくれる。

つまりさ、騙されるということは
自分の心の黒い巣が空だということだから
誰かを騙そうとしている自分がそこにいるってことなんだ。

 

 

ふむふむ、一理あるかも…。

 
 
 
 
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月光を蝕む地球と少しずつ離れゆく月の時間

2023-04-02 | あほらしきこと

太陽や月が欠ける現象を 蝕甚 :月蝕 (食)、日蝕(食) と書く。

蝕はむしばむと言う意味をもつのだけれど、

月が影に隠れてゆく現象を「むしばむ」と表現するのは何故だろう?

それは「欠ける」でもなく「虫が食べる」のだ。

月が欠ければ修復が大変だが、

そりゃ子供の頃は、月を「誰が食べるのか」って、不思議だった。

食べられたら月がなくなるのだと思ったものだ。

 

食べたら、ちゃんと返してくれなければいけない…!

 

それからは良いのか悪いのか、

私も少し賢くなって望遠鏡も買った。

夜な夜な三脚も立てたものだ。

いつだか「皆既月食」の日、厚い雲が出張ってきたから、

もう気力もないからNAOJの中継を見ていた。

時々他の中継に浮気しながら^^

落胆のため息が聞こえそうなチャットが駆け足で流れる。

 

私としては、雲の向こうを透かして見せてくれるかなと、期待もしたけれど…

 

そういえば、スーパームーンでもあったんだね。

今追いかけたら月の下に行くことが出来るかも知れないと錯覚するほど大きくて。

でも、月はつれないもので、近づけないどころじゃなくて遠ざかっていく。

科学者たちはそれを「月の後退」と呼んでいる。

 

月光を蝕む地球(月食)と少しずつ離れゆく月の時間、

なんだか不思議なドラマだ。

50億年後、太陽系の存在そのものも確かなものじゃないのに、

そうした不確かにつながる時間をいつまでわたしは生きているのだろう…。

 

時間の存在って何なのだろうとこの頃思う。

 

 

 

 

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花も団子も

2023-04-01 | あほらしきこと
 
 
 
 
暦の上ではまだ春だというのに25℃を超えた。
ちょっぴりどころか、花を追いかけ動き回ったら、
かなりジトジト模様。
涼を求め(…❓)、飛び込んだうどん屋さん。。
少し遅いお昼を注文。
「冷たいおうどんくださ~ぃ」
「ころうどんですね」
「いいえ、冷たいおうどんです」
「ころうどんが冷たいうどんです」
「あっ? じゃあ、それ一つ^^」

と言うことで『ころうどん』と言うのを食した。

”ころ”ってなんの意味だろうと思い
「”ころ”って何の意味ですか?」「語源は何ですか?」
と、お店の方に矢継ぎ早の質問をした。
しかし誰一人答えてくれなくて、お客さん達も???だ。
地域の暮らしのなかで、
いつの間にか固有名詞は定着していたらしい。
普段、気にしないのだろうね。。。
それでも、私の名前だって由来はそれなりにあるようだし…
きっと”ころうどん”にもなにがしの謂れがあるに違いない…、
で、帰宅後、さっそく”ころ”を調べた。
 
”ころ”は香露と漢字で書くと言うことが分かった。
日常の中で”こうろ”から”ころ”に変化したのかな?
冷たいうどんのつゆがかおる(?)、多分なのだ^^
その昔、田舎町の庶民の『香露うどん』
きっとそのころ、漢字は暮らしになかったのだろう。
それにしても「ころ」だなんて、
呼び名の音から来るイメージは、かわいいけれど、
漢字で表現するとちょっとイイ女に変身する。
 
花より団子じゃなくて、
今日は花も団子もゲットだ...
 
 
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僥倖

2023-03-31 | あほらしきこと
悲しいから泣くんじゃない。
何らかの刺激に涙が流れ、身体に起きる変化が情動を起こす。
その情動が脳に伝わると、悲しいという感情がイメージされる。
 
例えば味覚の種類は「甘」「旨」「酸」「塩」「苦」(渋もあるし…^^)。
「お味はいかが‥」と聞かれて「おいしい‥」と答えるとき、
それは味のバランスだけでなく、香りや食感などの感覚、
そして一番大事なことは、どのような空間で誰とその時を過ごしているかとか、
そんな記憶も含めて全ての刺激に心地よい心が生じ、その情動が脳に伝わると、
「おいしい(ここちよい)」という表現になるってこと…^^

つまり美味しいって「料理の味」だけを表わすものでもなさそうだ。
「ここちよい」という自分の気持ち、
今のこころの情景も表わしている言葉ということになるのだろうな…

そうだったね。
あれは山の頂で一緒にお茶とおにぎりをほおばり、
「おいしいね~」と言った君との出会いこそ僥倖だったってこと。
けれども、人の心は古今東西老若男女関係なく、哀しいほどにひ弱で、
この頃は少しばかり物事を斜めにのぞき込んではふさぎ込むことも増えた。
僅かにこころが滲むと、
今は遠くなった「おいしい」という感情が愛おしいと、脳が言う。
これは、悲しくもありここちよくもあるという二つの感情がダブる「泣き笑い」なのだ!
ああ、なんて人生は忙しいのだろう。



 
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