名古屋千年ゼミ

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第3回名古屋千年ゼミ 議事録3

2011年11月29日 | 名古屋千年ゼミ
さて、最後に住職さんからのコメントをまとめます。まとまっていない部分もありますがお許しを。

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●「ボランティア」について

ボランティアに行って、モヤモヤ感、つまり乖離現象のようなものを感じた。それはどういうことだろうか?

それは向こうに行って活動した、働いたことが、対価が支払われないようなものだったからか?
だが、対価が支払われると思う、その基準は何か?

「ボランティア」という言葉に対しては皆、それぞれの「ボランティアの概念」を持っている。それが各自のボランティアに参加するという行動を触発している。

「自分の活動が他者の求めていることである必要がある」という認識がある。自分のことよりも、他者を優先するという姿勢、それがボランティアだと。

また、賃金があるなら労働で、賃金が無いならボランティアという線引き?もある。

「ボランティア」は確かに衝動を伴う言葉だが、「奉仕活動」という言葉もかつて使われていた。
時代によって言葉は使い分けられている。そして言葉によって、方向性が変わる。特に震災後、この「ボランティア」という言葉の持つ方向性は大きく変わったのではないか。

結局、この新しくなった「ボランティア」という言語が自分の中でしっかり落としこめてない(言語化できていない)ために、モヤモヤ感、乖離現象を感じたのではないか。


「ボランティア」という言葉のもつ意味は、限定されてしまっている場合がある。
自分が利益(おカネ、楽しみなど)を受け取ってはならず、徹底して与える側にならなければならないという考え方。

また、ボランティア団体から受けた良い待遇に対して申し訳ないという思いがあるようだが、それはおカネを払えば当然のこととして受けとめるのだろうか。


「自分が払ったもの」と「自分が受け取ったもの」を、天秤にかける必要はあるのだろうか。
それが釣り合っていないと、いけないのだろうか。
社会では「おカネ」と「モノ・サービス」の天秤がこれにあたる。しかし…おカネは実のところ、自分が所有しているもののようで、それはどこから来たのか分からない。たまたま縁があって持っているだけだとも言える。
本当に「自分がおカネを払った」ことになるのか、果たして分からないのではないだろうか。
また、おカネは実際、紙切れである。それが価値を成しているのは貨幣経済の社会があるから。
結局、自分が何に価値を置いて生きているのか、考えてみるべき。

人間は、他者との関係で自分の利益・不利益を測っているところがある。
他者の喜びにつながるものには価値を置く。憎しみの無い時間の共有というのは、とても価値があるもの。
しかし、自分と、他者の喜びとの間に介在したものに、価値があるといえるか?
自分にとって価値の無いものを与えたけれど、相手は喜んだ。このとき、自分が与えたものの価値と、受け取った相手の喜びは、天秤で釣り合うのか?

自分の中の価値観、というが、これは大きく社会に影響を受けている。主に貨幣、貨幣経済。
自分にとっての、他者にとっての利益、不利益、喜び、悲しみとは何なのか、考えてみると面白い。そしてこれを他者と共有することで、世界が広がっていく。



すぐに天秤にかけず、価値を決めず、それぞれを純粋に見つめてみることも大事。
例えば絵画を見たとき、誰が描いた絵であるか知った状態で見ると、知らない状態のときと違って見える。それはすでに、天秤にかけてしまっている。
自分のした行為、与えたものを、得たものをすぐに天秤にかけて釣り合いを見ようとしてしまうと、それぞれの良さ、ありがたみが消えてしまうことになりかねない。
天秤にかけようとしている、それぞれについての自分なりの評価は大事だが、価値の重さを決めることと、事象を純粋に見ることを切り離して考えるとまた違った風景が見えてくるのではないか。

物事を天秤にかけることは価値を考える上で楽な方法だし、それが当たり前になっている。しかし、それが全てではないのではないか。まず物事それぞれを純粋に見つめ、評価してみよう。

自分が喜びを感じ、そして他者も喜んでくれたことがわかったら、それでいいじゃない。十分に価値がある。

●こぼれ話
・住職さんは阪神淡路大震災のとき水を配って回るボランティアをしたことがあった。今回の震災でもボランティアの人をねぎらうイベントをしに現地に赴いた。ボランティアの人には最初拒絶されたが、それはボランティアの人々が疲弊していたことによるものだと分かった。
・「ボランティア」と「奉仕」の方向性が違うと感じるように、「プリティー」と「かわいい」の方向性も違う。言語によっても方向性が変わっている。フランスの人々は「カワイイ」を使っているらしい。
・言語が持つイメージは、言語を受け取る人の言語力、国籍、経歴などによって千差万別。社会では一つの言語のイメージを共有できているようで、共有できていない節がある。だから「言語の一人歩き」が生じる。例えば「正義」なんていう言葉が代表例。
・言語の持つイメージは自分の中で育てていくもの。
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・・・と、今回はかなり熱く語っていただきました。
林が思ったのは、やはり個々のもつ一つの言語に対するイメージを対話によって共有することが重要だということです。
こうして書いている議事録の一つ一つの言語も、人によって捕らえ方が違うわけですから、言葉の重みというものをすごく感じます。

結論としては、もっとたくさんの人と話してみたいということですね!


さて最後に、今回の議事録(スケッチブックに速記したもののスキャン画像)を以下に載せます。
参考程度にお願いします。

第3回名古屋千年ゼミ議事録



次回は12月16日まで住職さんが不在のため、19日(月)とか、20日(火)とかになります。決まり次第書きます。
ではこの辺で。

第3回名古屋千年ゼミ 議事録2

2011年11月29日 | 名古屋千年ゼミ
さて議事録の続きです。この議事録2では、皆で話した内容などを簡単に書いていきます。
でも結構、林が話した内容が多いです笑


●なぜ「ボランティアは活動すること自体ではなく、かえってから周りの人に伝えることが真に重要だ」と思ったのか?
当然、ゼミの参加者から質問が出ました。
林が答えた理由としては以下のような感じです。

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…参加したボランティア団体は、ものすごく親切でした。

・最寄り駅から、ボランティア本部までの送迎
・長靴、革手袋など、物資の貸し出し
・ボランティアの活動場所までの送迎

などを、すべて無料で提供してくださったのです。

そして、自分でボランティアの活動場所、活動内容を選択でき、またできるだけその希望が尊重されるようになっていました。

しかし。
ボランティアの活動場所を選んでいるとき、妙な気持ちになったのです。
例えば「唐桑地区」のボランティア内容は「漁師さんの養殖業の仕事である、ホタテやカキの耳釣りの手伝いをする」
というものでした。

希望者多数。調整。

反対に21,22日に参加した「小泉地区」のボランティアの希望者は23日は6人と少数でした。


そもそも希望するっていうのはどういうことなのか?
希望して、その場所に行って活動するというのはボランティアになるのか?
ただの○○体験とかいう観光ツアーみたいになるのではないか?

そのようなよくわからないモヤモヤ感が浮かんできました。
これではただの「お客さん」みたいです。


十分な対価(おカネ)を払っていないのに、現地で自分の地元ではできない体験をする。貴重な体験をさせてもらう。
ボランティアとしてそれほど働けているわけでもない。。

だからこそ、帰ってきてから周りの人にしっかり伝えることを、対価の代わりにしようと思ったのです。
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まあ結局、ボランティアとはどういうことなのか?とモヤモヤして帰ってきたわけですね。


●学校って何だろう
※ボランティアの話で、被災地の子どもたちが学校に行けているのかという話から、派生した話題です。

・学校で生活力は付くのだろうか?
・学校では学ぶ内容よりも学ぶ姿勢を身につけるのが重要ではないか?
・上の意見は優等生の意見ではないか?
・あんなにたくさんの同世代と一緒に毎日生活する場は貴重である。
・人との競争によって自信喪失してしまう場合もあるのでは。
・学校が無くても生きていけるか?本、私塾、家で勉強するのか?
・実際学校が好きだという人は少ないのではないか?
・宮沢賢治は学校の教師という立場が嫌で、辞めてしまった。


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ボランティアの活動報告が中心でしたが、大体このようなことを、雑談も交えつつ話しました。
おいしい甘納豆の差し入れもありました。


さてなんだか、議事録1の最後のほうの焼き直しみたいになってしまいましたが、次の議事録3に、住職さんからのコメントをまとめます。
住職さんは今回かなり熱く語ってくれましたよ!