最近いろいろ巻き込まれるところがあって、
こんなに書くのは久しぶりというくらい
集中して文章を書いていました。
会社でショートショートを書いたとしても、
長くて細切れで4時間くらい。
なのに今回はひとつ6時間くらいぶっとおしで、
日にちをずらしてですが みっつほど書きました。
書いたものといえばメール文のようなものです。
それでわたしの評判なり心証なりが
よくなればがんばれるのに、
ただ自分の首を絞めるような文章なのです。
基本的に、わたしは嫌だと思っても
それを他人には言いません。
もともと嫌なものに対して、
それを文章化するにはさらにその嫌なものを
見つめなければならないからです。
しかもそれを考えるのは心に苦痛だし、
出したところで建設的なものにもなりません。
あとは、そうやって言っても相手に受け入れられないなら、
『言ってもわからない』よりも
『言わないからわからない』のほうが
心情的に楽だというのもあります。
そうやって身を引いてきたのがわたしの人生。
でも書かなければいけないような状況になり、
しかたなく書きました。
考える間にも、書いている間にも、
ここのところなかったひどい鬱っぽさに襲われて
いろいろやりかけたり、それを止めてみたりと
自分の衝動と戦うほうがつらかったです。
そんな文ができたあと、メールを送ってみたり
掲示板に書き込んでみたり。
でも書き込んだ後も
自分のそんなばかな跡を見るたび
傷跡を見るのと同じような嫌な気分にさせられます。
たぶん、はじめての汚れ役は、
やっぱりろくなものではありませんでした。
でも、いいこともありました。
わたしはどちらかと言うと
自分の思考には注意を払っても
あまり感情は気にしない人間です。
というよりも、気にならない人間です。
それ自体も意識していないのですが、
いつぞやDSM-IVかなにかを読んでいたら、
そんな症状自体があることに気づきました。
自分の感情に無頓着と言うか、
感情と意識が乖離していると言うか。
なので、別にわたしだけの
特異な症状ではないのがすこし安心です。
たとえばわたしは自分が嫌だと思う人や事も、
『自分が嫌だと思っている』ことすら
気づいていないことがありました。
他人に言われて、自分が誰かを嫌だと
思っていたことを知るくらいです。
でも今回、自分が相手のなにを
どう嫌だと思っているのかを
しっかり見つめて、しっかり言葉にしました。
すると、今までただ嫌だとしか思わなかったものが、
ちゃんとわたしの嫌がる意味があって、
わたしは嫌がっていたのだと知ることができたのです。
……それはとても苦痛でしたけど。
言語化できて客観的に見たからどうかと思うと、
見ないですませられるならすましたかった、
という気持ちのほうが、すごく……おおきいです……。
でも、書いたあと、予想外のことがありました。
それを読んだという、別の人からメールが来たのです。
その文はとても凛とした、すてきなものでした。
そんなこんなを大学の恩師にメールしたところ、
返事をいただきました。
わたしの文章は授業でもずっと読んでいたけど、
わたしの人と なりが出ていたと。
それがその人に伝わったのではないかと言われました。
とても久しぶりだったこともあって、
わたしのことなんて覚えていないかもしれないと
すこしびくびくしていたのですごくほっとしました。
それどころか、百人ほどもいた学生の中で、
わたしの書いたものを見て知っていたという、
その言葉が嬉しくてなりませんでした。
それを思って、書いたものを見直してみたら。
結局わたしが書いたことで、状況は
わたしが思うよりもひどくめちゃくちゃになりました。
内容もがんばったものの、
結構きついまま完了してしまっていました。
他の人も見るようなもの、わたしの書いたもの。
書いたものは自分自身であることを意識して、
もっと気を配るべきだったんだなあと
感じた春のごたごたした何か日でした。