小学生の頃、尊敬する人物かそこらに
ジャンヌダルクと書いていたような気がします。
どういう人物かなど詳しくは知りませんが、
信念を持って戦う人は好きです。
最後は残念ながら火あぶりで殺されましたが……
あれは、個人的にはただ苦しめて殺しただけなのかと
思っていたところ、どうやら違うようです。
現代日本人にとっては、火葬はもう一般的です。
日本人の死生観では、人間は魂のみリサイクルされて別の生を送るので、
重要なのは魂であって肉のほうではありません。
でも、すこし古いキリスト教圏では、まったく違うらしいのです。
人は死後、そのままの状態でいつづけて、
最後の審判の日、いいものとわるものとを判別した後、
いいものは元の体を修復した上で、元の魂を入れて、
作り変えられた神の国で暮らす事になるらしく、
その復活に体は絶対必要なものなのだそうです。
この点、いつかの復活を願ってミイラをつくった、
エジプトの人に近いものだと考えるとわかりやすいでしょう。
それから火あぶり。
わたしは、人が恣意的にできる死に方、殺し方の中で
最もつらいものの一つとして、焼死をあげます。
生きたまま自分の体が燃えていく苦痛、
それと止められない精神の蝕み、
火にのどを焼かれ、息で火を吐き、
そのうち呼吸も止まり、もだえ苦しむ死です。
だからこそ、わたしはジャンヌダルクは
逆恨みなどでもっとも苦しい死を与えられたのだと
思っていたのですが――そこで考えなければいけなかったのが、
キリスト教圏の死生観でした。
キリスト教圏の人が体を燃やされて殺されるというのは、
最後の審判の日を終えても復活できないということを意味します。
つまり、今生で体を殺された上、未来でも殺され続けるということで、
肉体的、精神的に、一切の救いを絶ってとことん殺しつくす、という
ことだったようです。
さすがかつてのヨーロッパ。
免罪符を売ったりするところはやることがえげつないです。
一方、瀬戸内のジャンヌダルクといわれる大祝鶴姫は
敵を倒したあと自殺したのでまだ救いがあります。