最近アニメやら小説やらを見ていて、
ストーリーについていけないことがあります。
おもしろいと評判のものを見ても、
あまりのつまらなさにびっくりすることもたびたびです。
しばらくそれを繰り返して見えてきたのは、
設定や筋のとっぴさでした。
たとえば、適当に言うならこんな感じでしょうか。
世の中から馬というものがほぼ絶滅した時代、
『ぼく』は街なかをあるいていたら、
ふと出くわした暴れ馬に蹴飛ばされました。
馬に蹴飛ばされると菓子職人として成功できると
言われていたため、そのうわさを聞いた美少女から
自分の店を救うために菓子職人になってくれと
つきまとわれるのでした。
……とか。
わたしと同じくらいの世代なら、
こんなものを見たら、『なぜ?』と
思うのではないでしょうか。
なぜ馬に蹴飛ばされると菓子職人として成功できるのか、
なぜ街なかを歩いていたら都合よく暴れ馬が出てくるのか、
なぜ本人に実力があるかもわからないのに、
馬に蹴飛ばされただけで自分の店を救うために
助力を求めるのか、などなどです。
でも、今日びのアニメや漫画やライトノベルは、
そういった一切合財をすべて置き去りにして、
そのまま話をすすめます。
そのため、わたしと友達は
話についていくことができなかったようです。
それを考えて、思い出した話があります。
とある漫画ですが、漫画家さんが、
自分の犬に『こむぎ』と名前をつけたそうです。
すると、だいたい一定以上の人は『なぜ?』と訊いてきて、
それ以下の人はただ『かわいい』といったとか。
そのときは、わたしも見ていて
語感だけをとってかわいいと思いましたが、
なぜと訊いた人は、
『犬という動物なのに、なぜ食物であるこむぎとつけたのか』
という疑問を持ったのではないかと今は思います。
そこに、ジェネレーションギャップを生み出す
一端が見えているような気がします。
つまり、新しさ、若さとは、
『「何か」と「何か」を何も考えずに直結させられること』
だと思うのです。
たとえば、
なんの変哲もない『ぼく』が
突然現れたなぞの女の子に好意を持たれます。
女の子は世界を救える戦闘機載りの唯一の生き残りです。
女の子は戦闘機に乗るのを嫌がるので、
ぼくが女の子を乗るように仕向ければ世界も救われます。
だからぼくは特別な『ぼく』になるのです。
というようなお話。
ある程度の世代の人は、こんな文を読んだだけで、
『なぜ?』と思うでしょう。
それがあるジェネレーション(世代)。
そのジェネレーション以下の世代は、
その内容を、『なぜ』をはさまずに、
「とっぴで(目新しくて)おもしろい」
と直結させてしまえるのです。
だから、わたしは
『太陽がまぶしかったから人を殺した』
と聞けば、『なぜ』太陽がまぶしかったら
人を殺さなければいけないんだろうと思いますが、
下の世代であれば、『太陽がまぶしい』と
『人を殺す』の間に『なぜ』をはさまずに、
直結して納得できるのかもしれません。
「ああ、太陽がまぶしかったんだもん、
人を殺しちゃうのもアリかもね」
みたいに。
そう思うと、違う世代間同士が納得できないのも
理解できました。
だって、上の世代なら持っている『なぜ』を
下の世代は持っていないんですから、
相手の考えることなんてわかれません。
たとえば、
道端に猫が歩いていて、
こどもがそれを捕まえて地面にたたきつけ、
足で頭を踏みつけ、首をひきちぎり、
血まみれにした上で周りの家に投げ込みます。
わたしたちは、訊くでしょう。
『なぜ?』と。
なぜ生きているものを殺し、
その死体をもてあそび、
さらに他人にまで迷惑をかけるのかと。
でも、こどもは答えません。
答えられません。
そこに『なぜ』はなく、理由なんてないからです。
猫が道にいた。
つかまえようとしたら捕まえられた。
自分には殺すことができたので殺した。
殺すだけじゃあきたらなかったので踏みつけ、
ひきちぎった。
血まみれになったしじゃまになったので、
そこらに放り投げた。
家があったし、中にいれられたので
そこに投げてみた。
それだけです。
とりえもない男の子が一回あっただけで
UFO載りの美少女に愛されようが、
なんの変哲もない男の子が
自分のわがままだけで世界を変える女の子に
好かれようが、そこに『なぜ』はありません。
それはそういうものだからです。
何が受け入れられて、何が受け入れられないのか、
どこまで『なぜ』が顔を出してくるのか、
とあるジェネレーションの形をつかむには
そんな指標がありそうです。
……でもなぜ、そんな溝ができるのでしょうね。