海に泳ぐあのクジラ、さかななのかそうでないのかと言われれば、
あれはさかなです。
クジラはさかなじゃないと胸を張って言える人がいたら、
それは思慮が浅いか、論理的思考ができないかのどちらかでしょう。
なぜか、と簡単に言うならば
「クジラはさかなじゃない、哺乳類だ」という言葉に
含まれるおかしさを考えてみればわかります。
位相を変えて、「たこ焼きは動物じゃない、きつね色だ」と
いう言葉と置き換えてみても構いません。
ここにあるおかしさがわかるでしょうか?
文章前半では「たこ焼きが動物が否か」ということを
話題にしています。
でも後半では「たこ焼きの色」を話題にしています。
前半と後半は脈絡なく別のカテゴリの言葉が並べられるので
それぞれで語られるものが比較対象にはなりません。
なのに、「~~じゃない」と、文章の前と後を論理接合
させようとしているため、文章に軋みが生じるのです。
「クジラはさかなじゃない、哺乳類だ」
という文も根本的にはこれと同じ。
文章前半では「クジラはさかなか否か」ということを
話題にしているのに、後半では「くじらは哺乳類」ということを
話題にしています。
「さかな」という単語と「哺乳類」という単語は
同じカテゴリには属さない単語です。
そもそもさかなとは何であるかと言えば、「酒菜」です。
酒のアテになるもの、酒のツマミになるもの、
酒を飲むときにたのしみになるものをさかなと称します。
酒を飲むときに塩をなめれば、塩だってさかなです。
酒を飲むときに月をながめれば、月だってさかなです。
酒を飲むときに刺身をたべるなら、その刺身はすべてさかなです。
その刺身がクジラであっても、もちろんさかなと呼びます。
そういう言葉が長い歴史の中で、
とりあえず海に泳いでいて、おかずとして食べるためにとるものを
「魚」としようということにされていきました。
クジラは海に泳いでいるし、食べるためにとるものでした。
その点でも、間違いなくクジラは魚なわけです。
それを否定することになんの意味があるかわかりません。
「お前が食べているのは哺乳類だ」と敢えて言うことで
クジラの食の定義が変わるわけではありません。
理解できないなら、
「お好み焼きは主食か副食か」という話に置き換えてもいいです。
お好み焼きを食べるとき、メインをお好み焼きとして
お好み焼きだけ食べて食事を終わりにできるものなのか
それともお好み焼きはご飯などのメインにそえて
おかずとして食べるものなのかという話です。
お好み焼きを主食として食べる人は、
「お好み焼きはおかずでなく主食である」
と言うでしょう。
でも、お好み焼きを副食として食べる人は
「お好み焼きは主食でなく副食である」
と言うでしょう。
これら二つの主張のうち、どちらが正しいのでしょうか?
……もちろん、両方とも正しいです。
違うのは、立脚点のみ。
クジラの話もそれと同じ。
さかなを、『酒のつまみに食べられるもの』という定義で語る人にとっては
クジラはさかなです。
さかなを、『海に泳いでいておかずとして
食べるためにとるもの』という定義で語る人にとっては
クジラはさかなです。
さかなを、動物としてのDNAや形態の差で語る人にとっては
さかなは『魚類』のことをさし、クジラは魚類ではなくなります。
でもそんなごくごく新しく、狭い範囲のものを語りたいのなら、
『クジラはさかなでなく哺乳類だ』と言うのではなく、
『クジラは魚類ではなく哺乳類だ』というべきです。
さて、まとめです。
世の中には耳にすると一瞬おかしいと思えること、
またはおかしささえごまかされてしまう言葉が多々ありますが、
その言葉についてすぐに受け入れたり反論したりするまえに、
その言葉はどういう文脈で使われたのか、
その言葉を出した人は、
『どの立場から』、『どの観点から』、『どの定義から』、
その言葉を出したのか、というところを考えなくてはなりません。
特に、世のマスコミは発言者の立場を意図的に消し、
文章を途中で切って抜き出し、
自分たちの都合のいいところだけをほじくりだして
つなぎ合わせて他人を洗脳し、煽動しようとします。
たとえば、誰か有名人が、
「いつも帰りにはコンビニに寄って肉まん買って食べながら帰ってるけど、
今日みたいにおごりで高級フランス料理を腹いっぱい食べた後じゃ
さすがに自分でコンビニの肉まんなんて買って食べる気にならないな」
という発言をしたとしましょう。
マスコミはその人を貶めたいと思ったら、
その発言の一部を抜き出し、その人が
「コンビニの肉まんなんて買って食べる気にならない」
と発言したと報道しはじめます。
これは裁判で弁護士が証人の発言をゆがめるテクニックでも同じです。
真の文脈をたどらなければ真の意味を見出すことはできないのに、
その言葉を『言った』『言わない』の二択にされたら
『言った』とするしかならなくなってしまうのです。
言葉とはとても恐ろしいし、大事にしなくてはならないもの。
なのにこうして日常からゆがめられて使われていることは
とても悲しいことだと、言霊信仰を持つわたしは感じます。
……正直、他人の嘘とほんとがほとんど見分けられないわたしは、
「近くに来たら寄ってくださいね」とか
「その服似合ってますね」とかの
社交辞令やほめ殺し、すなわち外身と中身が異なる言葉を
使うこと自体をやめて欲しいとすら思うのですけれど。