歯を磨きながらぼんやりと考えていたら、
ふと、手先の器用と不器用の差とはなんだろうと思いつきました。
わたしは手先は器用なほうですが、
機械式時計をばらして組み立てられるかと言われたら、
間違いなく無理です。
組み立て手順書を見てもいいと言われても、おそらくできないでしょう。
それはわたしが不器用だからでなく、組み立てる技術を持っていないからです。
この、器用不器用と、技術を持っている、持っていないは違うのでしょうか?
たとえば米の一粒に筆で般若心経を書く人に、
着物の作り方と材料を渡したら、正しく縫い上げることはできるのでしょうか。
たとえばトゥールビオンを組み立てられるような人に
筆を渡したら、米の一粒に般若心経をかけるのでしょうか?
たとえばわたしが機械式時計の組み立てを練習したら、
いつかばらして組み立てられるようになるのでしょうか。
もし練習すればできるようになるとしたら、
器用不器用に差などなくて、本当は、
練習すればできる、練習すればできない、の
差でしかないのではないでしょうか?
昔、実習でいろいろ作ることになったときなど、
周りの人から、『手先が器用でいいね』と言われたこともありましたが、
わたしは『練習したんだから当然だ』というような気持ちを持ちました。
手先が器用だからうまく作れるのではなく、
練習したから練習したことをうまくやれる、に過ぎなかったのです。
同時に、『わたしと同じだけ練習したら、
同じくらいにはうまく作れるんじゃないの?』とも思いました。
それを手先の器用さの問題にするのは、
なんだかごまかしのように感じました。
そう考えると、『手先が器用でうらやましい』と他人に言うのは
ほめ言葉でも何でもないのではないかと思えます。
『器用か器用でないか』は、『技術を持っているか持っていないか』のことで、
それは『練習したか練習していないか』の差でしかないからです。
『手先が器用でうらやましい』という言葉は、置き換えれば
『たくさん練習したんだね、うらやましい』というようなものにできます。
それを聞いて、練習した人がどう思うかといえば、
『うらやましいなら自分も練習すればいいじゃない』くらいの気がします。
『手先が器用でうらやましい』というのを褒め言葉に置き換えるなら、
『いい鍛錬を積んだね』か、『功夫が足りてるね』ではないのかと、
歯磨きをしながら考えました。
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自分が不器用だと思う人へ。
1ミリマスの方眼紙と縫い針、数十個のビー玉を買ってください。
利き手に針を持ち、反対の手に方眼紙を持ち、
3ミリごとに上から針を刺し、下に通すのと、
下から針を刺し、上に通すのを繰り返しましょう。
おそらく下から上に通すときにつめの間に針を刺したり
指に針を刺して血が出たりしますが、
器用な人でも普通にやることです。
これを毎日30センチでもいいので繰り返していれば
器用さなどは簡単にあがります。
ビー玉は何かお椀に入れて、お箸でつまんでお椀から出していきましょう。
ビー玉は丸いので中心を意識しないとすべる上、
適度な力も入れなければ持ち上げられません。
これを毎日繰り返していれば、器用さなどは簡単にあがります。
手先の器用さとは、指先にこれくらい動けとイメージしたら、
自分の指先はこれくらい動く、
指先にこれくらい力を入れろとイメージしたら、
自分の指先はこれくらいの力を出す、という、
自分の体と意識の一体感でしかありません。
自分がだいたいイメージしたとおりに指先が動かせるようになれば、
それが一般的に『器用だ』ということになると、わたしは思います。