直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
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器用不器用の差

2016年03月15日 | ちょこのひとかけ


歯を磨きながらぼんやりと考えていたら、
ふと、手先の器用と不器用の差とはなんだろうと思いつきました。

わたしは手先は器用なほうですが、
機械式時計をばらして組み立てられるかと言われたら、
間違いなく無理です。
組み立て手順書を見てもいいと言われても、おそらくできないでしょう。
それはわたしが不器用だからでなく、組み立てる技術を持っていないからです。

この、器用不器用と、技術を持っている、持っていないは違うのでしょうか?

たとえば米の一粒に筆で般若心経を書く人に、
着物の作り方と材料を渡したら、正しく縫い上げることはできるのでしょうか。
たとえばトゥールビオンを組み立てられるような人に
筆を渡したら、米の一粒に般若心経をかけるのでしょうか?
たとえばわたしが機械式時計の組み立てを練習したら、
いつかばらして組み立てられるようになるのでしょうか。

もし練習すればできるようになるとしたら、
器用不器用に差などなくて、本当は、
練習すればできる、練習すればできない、の
差でしかないのではないでしょうか?

昔、実習でいろいろ作ることになったときなど、
周りの人から、『手先が器用でいいね』と言われたこともありましたが、
わたしは『練習したんだから当然だ』というような気持ちを持ちました。
手先が器用だからうまく作れるのではなく、
練習したから練習したことをうまくやれる、に過ぎなかったのです。
同時に、『わたしと同じだけ練習したら、
同じくらいにはうまく作れるんじゃないの?』とも思いました。
それを手先の器用さの問題にするのは、
なんだかごまかしのように感じました。

そう考えると、『手先が器用でうらやましい』と他人に言うのは
ほめ言葉でも何でもないのではないかと思えます。
『器用か器用でないか』は、『技術を持っているか持っていないか』のことで、
それは『練習したか練習していないか』の差でしかないからです。

『手先が器用でうらやましい』という言葉は、置き換えれば
『たくさん練習したんだね、うらやましい』というようなものにできます。
それを聞いて、練習した人がどう思うかといえば、
『うらやましいなら自分も練習すればいいじゃない』くらいの気がします。

『手先が器用でうらやましい』というのを褒め言葉に置き換えるなら、
『いい鍛錬を積んだね』か、『功夫が足りてるね』ではないのかと、
歯磨きをしながら考えました。


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自分が不器用だと思う人へ。

1ミリマスの方眼紙と縫い針、数十個のビー玉を買ってください。

利き手に針を持ち、反対の手に方眼紙を持ち、
3ミリごとに上から針を刺し、下に通すのと、
下から針を刺し、上に通すのを繰り返しましょう。

おそらく下から上に通すときにつめの間に針を刺したり
指に針を刺して血が出たりしますが、
器用な人でも普通にやることです。
これを毎日30センチでもいいので繰り返していれば
器用さなどは簡単にあがります。

ビー玉は何かお椀に入れて、お箸でつまんでお椀から出していきましょう。
ビー玉は丸いので中心を意識しないとすべる上、
適度な力も入れなければ持ち上げられません。
これを毎日繰り返していれば、器用さなどは簡単にあがります。


手先の器用さとは、指先にこれくらい動けとイメージしたら、
自分の指先はこれくらい動く、
指先にこれくらい力を入れろとイメージしたら、
自分の指先はこれくらいの力を出す、という、
自分の体と意識の一体感でしかありません。
自分がだいたいイメージしたとおりに指先が動かせるようになれば、
それが一般的に『器用だ』ということになると、わたしは思います。

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