北海道方言の語源と由来を調べているときには、
結構適当な事が書かれていて、
めちゃくちゃなこと言うなあと苦笑いしながら見ていましたが、
最近、沖縄方言の語源や由来を調べていたら、ふと、思いました。
――実は多くの人が、言葉の変換式を知らないのでは?
『言葉の変換式』という概念。
揺らぎの単語は、元の単語に一定のルールをあたえることで
変換されている、というようなものです。
たとえば、
(基礎単語)→[ルール]→(方言単語)
というのが、基本となる変換式です。
このうちの、ルール、変換ルールを見つけるというのが
言語研究の一・二を争う重要なものです。
変換ルールさえわかってしまえば、
言語理解はかなり進みます。
たとえば、ルールのひとつ、『k=t変換』(ケーティー変換)です。
これを用いて、『今日』という単語を変換してみましょう。
変換式は
今日(kyou)→[k=t]→ちょー(tyou)
となり、『k=t変換』では論理上、
『今日』という単語から『ちょー』という単語が発声することになります。
さて。この変換はありえるでしょうか、ありえないでしょうか。
……といえば、ありえます。
『ちょー』に酷似した単語、『ちゅー』で『今日』をあらわす言語が存在するからです。
沖縄弁です。
沖縄弁は基本的には母音が5音でなく3音で、
基本的には『o』音は『u』音に変換されます。
これを沖縄特有の『o=u変換』として、
『ちょー』をさらに変換してみましょう。
ちょー(tyou)→[o=u]→ちゅー(tyuu)
問題なく『ちゅー』音ができました。
これにより、『ちゅー』は『今日』を『k=t変換』、『o=u変換』したものであると言え、
『ちゅー』の語源は『今日』である、と言えるわけです。
と言っても理解できない、理解したくない人はいるものですから、
もうひとつ、[k=t変換]の例を見てみましょう。
『おきばりやっしゃ』というような言葉の中核、
『きばれ(k bar)』です。
この変換式は
きばれ(k bar)→[k=t]→ちばれ(t bar)
となります。
これを見ると、論理上は、
『きばれ』という言葉から、『ちばれ』という言葉が出現すると言えます。
……さて。この変換はありえるでしょうか。ありえないでしょうか。
といえば、ありえます。
『きばりよ』の意味で『ちばりよ』と発声する方言があるのです。
すなわち、『ちばりよ』は『k=t変換』にかけられただけの
『きばりよ』だと言えるわけです。
こういった変換は、方言だけでなく、
なにもめずらしくもなく、存在しているものです。
なのに、どうやら言葉の変換式すら知らない人間が、
地名の見た目の音、見た目の表記だけを冗談みたいにこねまわして
それを言葉の語源だと、本気で言っているようなのです。
……ところで。
『がんばる』という言葉の語源、言葉の由来をご存知でしょうか。
知らないなら、ちょっと調べてみてください。
そして、ついでに自分の頭でも考えてください。
考えられたなら、続きです。
ざっと調べると、『がんばる』の語源、由来は、
『我を張る』
『眼張る』
あたりだと述べられているように思います。
これを変換式に逆に入れて還元すると、
『我を張る』←[ ]←『がんばる』
『眼張る』←←[ ]←『がんばる』
だけ。
何もルールを使いません。
ただ、口語揺らぎ程度だろう、としています。
こういうものが、言語や地名にはものすごく多いのです。
では、先ほどの、『きばれ』の[k=t変換]式を見なおしましょう。
きばれ(k bar)→[k=t]→ちばれ(t bar)
ここで、せっかくなので別の変換ルールをためしてみます。
[調整音+濁音]変換です。
調整音とは『っ・ん・ー』といった口調を調整するためだけに
入れられる音で、
濁音とは『゛・゜』のことです。
『きばれ』に[調整音+濁音]変換を入れてみると……
きばれ(k bar)→[調整音+濁音]→kんばれ
きばれ(k bar)→[調整音+濁音]→kっぱれ
『kんばれ』と『kっぱれ』ができる可能性が現れました。
『k』は英単語『ask(アスク)』などでする『k(ク)』音です。
これを踏まえ、声に出して言ってみましょう。
『kんばれ!』
『kっぱれ!』
それを何十回とつぶやき続ければ、
それぞれの『k』音の後ろに補われる母音は自然とわかるはずです。
それがわかると、出てくる単語は
『かんばれ』
『けっぱれ』
です。
もし、『かんばれ』の意味がわからないというのなら、
誰かに向かって『かんばれ!』と叫んでみてください。
どういう単語になるのか、自分の口、自分の心としてわかるはずです。
つまり、言葉の変換式さえ理解していれば、
『きばれ』
=『ちばりよ』
=『がんばれ』
=『けっぱれ』
は全部同じものであるとわかる、ということです。
『がんばれ』が『我を張れ』や『眼張れ』でないことは、
常識的・文法的にわかるでしょう。
でも、一般的にはこういったことは、
ざっと調べる限りでは、一切理解されていません。
言語学だか発声学だかでは、
普通に変換ルールとして公に示されているのに、
地名や方言を考える人は、普通にそれを使うことをしないのです。
正直、意味がわかりません。
言葉の変換式がわからない、理解したくない人に向けて
もうひとつ例を出すなら、『五十嵐(いがらし)』がわかりやすいでしょう。
今、五十嵐の語源を適当に調べると、
アイヌ語でイカなんたらという言葉があるので
それに漢字を当てた云々と言っているようです。
……この説には、常識的解釈が欠けています。
たとえば、『イカラシィ』とかなんとかのアイヌ単語があるとしたら、
それに漢字をつけるなら、『伊賀嵐』とかにすればいいでしょう。
なぜ、そう読めない『五十』なんて漢字をあてているのでしょうか。
ここのところを、アイヌ語語源話は一切説明しません。
常識的・文法的に解釈すれば、『イカ』と読めない『五十』が
そこに当てられているというのは、
漢字が当てられた当時は『五十』で読める音であったものが、
経年劣化で音が変わり、『五十』で読めない『イカ』にされた、
とすべきものです。
では、『五十』がイカになりそうな理屈はわかりますか?
……と考えれば、言語の変換式さえ理解しているなら
簡単に思いつくのが[k=t]変換です。
『???』→[k=t]→イカ(ik)
となるのですから、これを逆に使えば
『イト(it)』→[k=t]→イカ(ik)
になるとわかります。
『五十』には
『五十鈴』の『いそすず』のように『いそ』系と
『五十迹手』の『イトテ』のように『いと』系の
発音がありますが、
k=t変換を受けているので、
『五十嵐』の『五十』部分の元の発音は
『イト』だったとわかります。
では、『五十鈴』はアイヌ語単語でしょうか?
『五十迹手』はアイヌ語単語でしょうか?
……違うでしょう。
それと同じく、『五十嵐』だってアイヌ語単語ではありません。
他の部分にも変換が用いられているため、そのままでは解釈できませんが、
変換ルールさえ知っていれば、
普通に元の単語に変換できる言葉です。
なのになぜ、こんな簡単な変換さえ試されず、
飲み会でよっぱらって鼻に鉛筆突っ込みながら
テーブルの紙ナプキンに適当に書き付けたダジャレみたいなものが
由来譚・語源譚としてまかり通ってしまうのか、
ほんっとうに意味がわかりません。
ダジャレで語源作って広め、デマまきちらして喜ぶなんて
頭おかしいんじゃないかとつい思ってしまいますが、
周りからしたら頭おかしいのはわたしのほうなのでしょう。
本当に地名や方言考える人は変換ルールを知らないのでしょうか。
それとも知っていて使ってはいけない何かがあるのでしょうか。
あるいは変換が理解できないのでしょうか。
もしくはわたしの論理が破綻しているのでしょうか?
……わたしには区別つきません。
今までほぼ何をやってもばかにされて笑われて
ないがしろにされるだけの人生でしたが
どうせ笑ってばかにするなら、わたしのなにがおかしいのか
具体的に教えてくれればいいのに。
結構適当な事が書かれていて、
めちゃくちゃなこと言うなあと苦笑いしながら見ていましたが、
最近、沖縄方言の語源や由来を調べていたら、ふと、思いました。
――実は多くの人が、言葉の変換式を知らないのでは?
『言葉の変換式』という概念。
揺らぎの単語は、元の単語に一定のルールをあたえることで
変換されている、というようなものです。
たとえば、
(基礎単語)→[ルール]→(方言単語)
というのが、基本となる変換式です。
このうちの、ルール、変換ルールを見つけるというのが
言語研究の一・二を争う重要なものです。
変換ルールさえわかってしまえば、
言語理解はかなり進みます。
たとえば、ルールのひとつ、『k=t変換』(ケーティー変換)です。
これを用いて、『今日』という単語を変換してみましょう。
変換式は
今日(kyou)→[k=t]→ちょー(tyou)
となり、『k=t変換』では論理上、
『今日』という単語から『ちょー』という単語が発声することになります。
さて。この変換はありえるでしょうか、ありえないでしょうか。
……といえば、ありえます。
『ちょー』に酷似した単語、『ちゅー』で『今日』をあらわす言語が存在するからです。
沖縄弁です。
沖縄弁は基本的には母音が5音でなく3音で、
基本的には『o』音は『u』音に変換されます。
これを沖縄特有の『o=u変換』として、
『ちょー』をさらに変換してみましょう。
ちょー(tyou)→[o=u]→ちゅー(tyuu)
問題なく『ちゅー』音ができました。
これにより、『ちゅー』は『今日』を『k=t変換』、『o=u変換』したものであると言え、
『ちゅー』の語源は『今日』である、と言えるわけです。
と言っても理解できない、理解したくない人はいるものですから、
もうひとつ、[k=t変換]の例を見てみましょう。
『おきばりやっしゃ』というような言葉の中核、
『きばれ(k bar)』です。
この変換式は
きばれ(k bar)→[k=t]→ちばれ(t bar)
となります。
これを見ると、論理上は、
『きばれ』という言葉から、『ちばれ』という言葉が出現すると言えます。
……さて。この変換はありえるでしょうか。ありえないでしょうか。
といえば、ありえます。
『きばりよ』の意味で『ちばりよ』と発声する方言があるのです。
すなわち、『ちばりよ』は『k=t変換』にかけられただけの
『きばりよ』だと言えるわけです。
こういった変換は、方言だけでなく、
なにもめずらしくもなく、存在しているものです。
なのに、どうやら言葉の変換式すら知らない人間が、
地名の見た目の音、見た目の表記だけを冗談みたいにこねまわして
それを言葉の語源だと、本気で言っているようなのです。
……ところで。
『がんばる』という言葉の語源、言葉の由来をご存知でしょうか。
知らないなら、ちょっと調べてみてください。
そして、ついでに自分の頭でも考えてください。
考えられたなら、続きです。
ざっと調べると、『がんばる』の語源、由来は、
『我を張る』
『眼張る』
あたりだと述べられているように思います。
これを変換式に逆に入れて還元すると、
『我を張る』←[ ]←『がんばる』
『眼張る』←←[ ]←『がんばる』
だけ。
何もルールを使いません。
ただ、口語揺らぎ程度だろう、としています。
こういうものが、言語や地名にはものすごく多いのです。
では、先ほどの、『きばれ』の[k=t変換]式を見なおしましょう。
きばれ(k bar)→[k=t]→ちばれ(t bar)
ここで、せっかくなので別の変換ルールをためしてみます。
[調整音+濁音]変換です。
調整音とは『っ・ん・ー』といった口調を調整するためだけに
入れられる音で、
濁音とは『゛・゜』のことです。
『きばれ』に[調整音+濁音]変換を入れてみると……
きばれ(k bar)→[調整音+濁音]→kんばれ
きばれ(k bar)→[調整音+濁音]→kっぱれ
『kんばれ』と『kっぱれ』ができる可能性が現れました。
『k』は英単語『ask(アスク)』などでする『k(ク)』音です。
これを踏まえ、声に出して言ってみましょう。
『kんばれ!』
『kっぱれ!』
それを何十回とつぶやき続ければ、
それぞれの『k』音の後ろに補われる母音は自然とわかるはずです。
それがわかると、出てくる単語は
『かんばれ』
『けっぱれ』
です。
もし、『かんばれ』の意味がわからないというのなら、
誰かに向かって『かんばれ!』と叫んでみてください。
どういう単語になるのか、自分の口、自分の心としてわかるはずです。
つまり、言葉の変換式さえ理解していれば、
『きばれ』
=『ちばりよ』
=『がんばれ』
=『けっぱれ』
は全部同じものであるとわかる、ということです。
『がんばれ』が『我を張れ』や『眼張れ』でないことは、
常識的・文法的にわかるでしょう。
でも、一般的にはこういったことは、
ざっと調べる限りでは、一切理解されていません。
言語学だか発声学だかでは、
普通に変換ルールとして公に示されているのに、
地名や方言を考える人は、普通にそれを使うことをしないのです。
正直、意味がわかりません。
言葉の変換式がわからない、理解したくない人に向けて
もうひとつ例を出すなら、『五十嵐(いがらし)』がわかりやすいでしょう。
今、五十嵐の語源を適当に調べると、
アイヌ語でイカなんたらという言葉があるので
それに漢字を当てた云々と言っているようです。
……この説には、常識的解釈が欠けています。
たとえば、『イカラシィ』とかなんとかのアイヌ単語があるとしたら、
それに漢字をつけるなら、『伊賀嵐』とかにすればいいでしょう。
なぜ、そう読めない『五十』なんて漢字をあてているのでしょうか。
ここのところを、アイヌ語語源話は一切説明しません。
常識的・文法的に解釈すれば、『イカ』と読めない『五十』が
そこに当てられているというのは、
漢字が当てられた当時は『五十』で読める音であったものが、
経年劣化で音が変わり、『五十』で読めない『イカ』にされた、
とすべきものです。
では、『五十』がイカになりそうな理屈はわかりますか?
……と考えれば、言語の変換式さえ理解しているなら
簡単に思いつくのが[k=t]変換です。
『???』→[k=t]→イカ(ik)
となるのですから、これを逆に使えば
『イト(it)』→[k=t]→イカ(ik)
になるとわかります。
『五十』には
『五十鈴』の『いそすず』のように『いそ』系と
『五十迹手』の『イトテ』のように『いと』系の
発音がありますが、
k=t変換を受けているので、
『五十嵐』の『五十』部分の元の発音は
『イト』だったとわかります。
では、『五十鈴』はアイヌ語単語でしょうか?
『五十迹手』はアイヌ語単語でしょうか?
……違うでしょう。
それと同じく、『五十嵐』だってアイヌ語単語ではありません。
他の部分にも変換が用いられているため、そのままでは解釈できませんが、
変換ルールさえ知っていれば、
普通に元の単語に変換できる言葉です。
なのになぜ、こんな簡単な変換さえ試されず、
飲み会でよっぱらって鼻に鉛筆突っ込みながら
テーブルの紙ナプキンに適当に書き付けたダジャレみたいなものが
由来譚・語源譚としてまかり通ってしまうのか、
ほんっとうに意味がわかりません。
ダジャレで語源作って広め、デマまきちらして喜ぶなんて
頭おかしいんじゃないかとつい思ってしまいますが、
周りからしたら頭おかしいのはわたしのほうなのでしょう。
本当に地名や方言考える人は変換ルールを知らないのでしょうか。
それとも知っていて使ってはいけない何かがあるのでしょうか。
あるいは変換が理解できないのでしょうか。
もしくはわたしの論理が破綻しているのでしょうか?
……わたしには区別つきません。
今までほぼ何をやってもばかにされて笑われて
ないがしろにされるだけの人生でしたが
どうせ笑ってばかにするなら、わたしのなにがおかしいのか
具体的に教えてくれればいいのに。