直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
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人生はゲーム論

2019年04月17日 | ちょこのひとかけ


人は生き変わり死に変わり、最終的に行く場所を目指すと言います。

最近また死について考えていたら、
なんだかそれはアクションゲームみたいだと思いました。

主役には残機とタイムがあり、タイムが0になると死に、
残機が一機減ります。
人間も寿命が来ると死に、残機が一機減るのかもしれません。
一人いなくなると現れるのは、別のキャラだけど同じキャラ。

人間は、限られたタイムのなかで、少しでもステージを進み、
復活ポイントを進めることで、一度死んでも
次の自分がその先へ進めるように生きているのかもしれません。

でも、と思います。

アクションゲームで、先に進めない、あるいは進みにくい
ルートをとってしまったとき、
その前まで歩いて戻って時間を消耗して結局死ぬのと、
間違った位置で死んで死に戻りするのだと、
死に戻りするほうがゲーマーとしては普通で、
無駄な時間も省ける良いことなのではないかとも思いました。

人生をゲームと考えたら、どんづまりで死ぬことは
悪ではないのではないかと今回考えましたが――
一般的には人生では自分で死ぬと
ペナルティがあると言われ続けています。
その点、人生はアクションゲームではないのかもしれません。


最近、そろそろわたしの人生に終わりが近づいてきたのは感じます。
タイマーを手で押さえた時限爆弾を持っているようなものです。
わたしの今のあり方からすれば、何かがあった瞬間に
タイマーから手が離れ、そう長くない時間がたてば
爆発して苦しんで死にます。

わたしはもう高校生のころには死を考え、
大学生のころにはどちらかといえば生きていたくない人間でしたし、
ずっと、自分が何にもなれないまま死ぬことが嫌だと言っていました。

それに対し、周りは、何にもなれないなんてことはないと
言っていましたが、今振り返り、周りを見れば、
結局わたしは何にもなっていません。

普通の人だったら、こどもの親としての自分、
夫婦の片方としての自分、会社のそれなりの場所にいる自分、
地域の中にいる自分、などいろいろな何かの自分に
なっているものですが、わたしは何でもありません。

昔、将来どうなりたいかとか、将来自分がどうなっているか
考えて書く、とかいう授業の時間などがあったとき、
わたしは自分に対して、まったく何も想像できませんでした。
中学のころ、タイムカプセルに入れるために
将来の自分に向けた文を書けと言われても
ほぼ空白のまま出しました。
昔のわたしは、今やその先の自分を
すでに見させられていたのかもしれません。

今やすでに、人生のどんづまりの手前です。
これから先、人生が良くなることもなく、
おそらく悪くなることしかないのでしょう。
この先 生きていてどうするのかと思います。

毎日、おきていられなくなるぎりぎりまで起きて、
寝るときには、寝ている間に何の予兆もなく、
苦しまずにぽっくり死んでいたい、と思って寝ますが、
ちょっと寝ては起きてしまいます。
死のうと思ってもなかなかしなないものです。

くそみたいな人生、ごみみたいな生きかたをして
何の意味も無い、何にもなれない大人になってしまいました。

人生は苦しいです。

飢え死にするしかなくなる前に、
首を吊るしかなくなる前に、
楽に死んでいたいと、今はそれだけ願います。
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