直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
研究のまとめはカテゴリ『自作本』から。

古文書解読してみよう 2

2020年01月21日 | ちょこのひとかけ


古文書解読の腕試し問題、前回の続きです。

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文:(竹取物語より)

 かねてことみな仰せたりければ、
 その時ひとつの宝なりけるうちたくみ六人を召し取りて、
 たはやすく人より来まじき家を作りて、
 かまどを三重にしこめて、
 たくみを入れ給ひつつ、御子も同所にこもり給ひて、
 しらせ給ひたる限り十六そをかみにくとをあけて
 玉の枝を作り給ふ

問い:
十六そをかみにくとをあけて
の意味はなにか?

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という話でした。

さて。この問いに対して答えを出すには、
まず、何をすべきでしょうか?
というのが今回の課題です。

使える四つの方法は、前回の解説本を読めばわかるとおりです。
……が。解読手法がわかったからといって、
誰でも何でも簡単に解釈できるというわけではありません。

まずどこから、なにを使って解釈するのか。
そこにもセンスが問われますし、使い方の順番しだいで
難易度は大きく変化します。

ヒントとしては、
この『十六そをかみにくとをあけて』の文は
全体から見るとどういう位置にあるのか。
また、全体に対して意味があるのか。
ほかの場所からここにかかる文章はどこかにあるのか。
文章内においてどういう役割を持つのか、
どういう風に読めばいいのか。
常識的にどうなのか。
などなどが考えられます。

ここでの基盤固めがうまくいくと、
答えが半分くらいわかりますので、
よく考えて解釈してみましょう。



逆にやってはいけないことは、底本ではないなにかを参照すること。
これまでの人はここをどう訳したのか、とか
十六とでているからこの時代の十六に関連するものを探してみよう、とかは
絶対にやってはいけません。

でも、学術論文では、他人の先行研究を出せとか
一定数以上引用がない論文は論文と認めないとか
くだらないことを言ってくるんですよねえ。

竹取物語における『十六そをかみにくとをあけて』は
歴史的に完全解を得ていません。
それを述べればいいだけで、他人の間違っているとわかっている文章を
わざわざ引っ張り出して自分の文章を汚さなければいけない
意味がわかりません。
論文は形がとにかく重要なのがくだらないところです。

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この、『十六そをかみにくとをあけて』の解読は、
1000年ちかく解けなかった謎を明らかにし、
竹取物語の通行本と古本のどちらが正しいかを示し、
竹取物語という物語全体の解釈の要となり、
竹取物語のほかの難読箇所を解く手がかりとなるという
重要なもの……と、個人的には思うのですが。
一般的に見ると、そんなものはまったく価値がないのかもしれません。

でもわたしは、この箇所の解読に関する論文をどうにか通したくて、
時間もかけてお金もかけてがんばったものの、どうにもできませんでした。
もし、わたし以外が解読していたら。
わたしじゃない、立場や力のある人が論文を書いていたら、
まともな成果として発表できたのでしょうか。
本当にくやしくてしかたありません。

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2 コメント

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Unknown (通りすがり)
2020-01-21 09:08:21
誰か(特に学会)に認められるとか認められないとか、そこにこだわる理由がよくわかりません。
研究成果をすべて本にまとめて出版すればいいとおもいます。
前作の続きが読みたいので、買いますよ。(よほど高額でない限り)
まぁ、私はド素人なので、「興味深い」という程度の判断しかできませんが、適切な人が見れば仲間も増えてくるのではないでしょうか?
まぁ、巨匠と言われる画家や音楽家が死後に認められるケースも決して稀ではないので、「いつ」というタイミングばかりはわかりません。
ただ、世に出さずに埋もれてしまってはもったいないではないですか。
返信する
Unknown (あまね)
2020-02-09 05:33:03
わたしの人生の目標は、文章でなんらかの名前を残すことです。
古文の解読は、うまくいけば古文を扱う国文学会の学会誌や、
論文に載りうる題材です。

論文を書くにあたっては、そのジャンルの、
・どこかの急造ではない論文誌・学会誌に発表された文章
・企画出版された本
を先行研究として参照することとされるので、
どちらかで解読を発表できれば、
そこでわたしの人生の目標が達成できるわけです。

すごく大雑把に言えば、
この二つのどちらかに文章を載せることを『実績』と呼び、
どちらかに載ることで自分のやっていることが『研究』と認められます。
逆に言えば、どちらかで発表できなければ、
それは『研究』と認められないのです。
『自称研究者(笑)』の、『自称研究(笑)』というレベルです。

企画出版なんてもともと実績がある人しかできないので置いておいて、
論文誌・学会誌に発表できれば、そのジャンルの人がそれなりの数見て、
あってるだの間違ってるだの、気になる場所があるだの
いろいろ考えてくれるはずです。

もしかすると、わたしのまとめた解釈法を使って、
今までの間違いを正した新しい発見をする人が出るかもしれません。
そのときに、わたしの研究がほんとうの意味で活きるのです。

でも、わたしが自分で適当に同人誌のように発表したところで、
おそらく読まれるのは十人程度。
一度同人誌として出してしまえば、もう論文誌に投稿はできません。

なら、わたしは自分の研究を殺しているのではないか、
未来にあるかもしれない可能性をつぶしているのではないか、
あるいはそもそもそんなこと考えなくても、
わたしの研究なんて何の意味もないのではないか、とただ揺れています。

わたしは今までずっと考え方がおかしいだのなんだのと
他人に認められられることのない人生を送ってきたので
どこか や 誰か に認められなければ、それが他人にとっても意味があるのか
それとも自分にしか意味のない、
本当はくだらないものなのかすらわからないのです。
返信する

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