直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
研究のまとめはカテゴリ『自作本』から。

走るな! ――息切れするまでは

2008年08月25日 | ちょこのひとかけ


最近、思うところあって、また雑誌スキャンと
ビデオテープキャプチャーを始めました。
前もぼちぼちとやっていたのですが、
次にやるまでにすごい時間があいてしまうのです。

でも今回、雑誌を3日くらい連続でスキャンしていて
ふと思いつきました。
考えれば、今までは準備もめんどくさいからと、
一度やったら一日で何冊スキャンできるかと
かつての自分と競いながらやっていました。
そして次の日には肩があがらないくらいの
ひどい肩こりになるのです。

今回は、一日目に切りがいいので
5冊程度でやめてみました。
そして次の日は6冊。
もうすこしできるけど、疲れたし飽きてきたし
今日はここまで、という感じでやめていました。
もしかしたら、それがよかったのではと思うのです。

たとえば走るとき、息が切れて倒れこむまで走ったら、
次に走り出せるまでには長い休息時間が必要です。
でも次に走り出せる余力を残していれば、
すぐに次に走り出せるかもしれません。

と書いていて思いつきましたが、
たとえばフルマラソンの距離なら
短距離走の走りで何度も走って休んでといくよりも、
長距離を走る走りで余力を持ちながら走るほうが、
結局は早く走りきれる気がします。

つまり、長距離でも短距離走のペースで
死ぬまで走りきるわたしの行動理念は、
長い目で見たら大きなマイナスにしか
なっていないのではないのでしょうか。


わたしも昔は長い小説を何本か書きました。
一番はやくて第一考までで一か月。
それでも推敲を入れると半年くらいは
平気でかかる行程です。
書き終わる頃には、
『もう小説なんて二度と書かない!』
と心の底から毎度思っていました。
そこから次を書き出すまでは
心の力を蓄えるのにすごい時間がかかります。

でもいまのわたし程度の力なら、
結局どれだけひねったところで『ばかの考え』。
休むに似てしまうアレです。
それはこの前、いやに時間をかけても
一枚絵とほとんどなにも変わらなかった
あのフラッシュが教えてくれます。

そんなものに無駄な時間をかけにかけ、
終わったあと倒れこんで動けなくなるほど
力を使うくらいなら、
余力を残せるくらいで切り上げて、
すぐ次に移ったほうが経験値も稼げて
よかったんじゃないかと……
なんというか、後悔のようなものを
強く感じました。


そう思って、思いついたのが、
ショートショートです。
一応001~100くらいまでは、普段の推敲をして
それなりに完了させたはずです。
でもそれ以降は、書き上げただけのラフ。
絵で言えば鉛筆で、描きたいものの形は
紙の上にのせたけれど、ペン入れをしていないために
本当に描きたい形は表せていないような状態です。

正直、絵であればそんなものは見せたくありません。
文章でも見られたくないし、見せられたものでも
ないと自分では思っています。
でもそれが、わたしの余力のある状態です。
ひどいものですが、思えばそれが
ショートショートを続けられる原因の
一端になっているかもしれないとも感じます。
一本ごとにやりきっていないという心残りも
次への一歩を踏み出させるのかもしれません。

それはどんなものだろうと考えたら、
ピアノで言えば、初見で弾ける練習を
しているようなものに似ているかもしれません。
と考えると、もしかしたらもっともいいのは、
初見で弾ける力もつけるように練習しながら、
一曲を練りこんで弾けるように練習すること
なのかもしれません。

正直、いままではショートショートも
書き散らすだけ書き散らして、
数だけ増やすことになんの意味があるのだろうと
自分で落ち込むところのほうが大きかったのですが、
初見の経験値をあげていたのだと考えられたら、
ようやく意味がでてきました。

彫刻で言うなら、一本の木に
各方向から下描き線を入れて
緻密に計算して作っていく力も大事でしょうが、
計算がなくても刀を入れて形を出していく力も
また大事なものでしょう。

……もしかしたら、絵で言えば
デッサンの訓練をしているような
ものなのでしょうか。

迷いがあって線をぐるぐる引くアタリでなく、
初めから形を目の奥に見て、
それを形に起こしていけたら、
ずいぶんと違うものが描けるはずです。
それを極めたら、下描き不要で
いきなりペン入れができてしまう、
コミックマスターJになるのでしょう。

わたしもはじめから、後の推敲がいらないような文を
一筆に書けるようになってみたいものです。


と。それは置いておいて。
幾分適当なショートショートも、
最初から適当にやっていたわけでもなく、
『1800本書き上げる』という目標を全力でやった結果、
このような形になっているわけです。
いわば、長距離走を走るには長距離走の走りで、
というのを体得したと言いましょうか。

それを続けていまに至り、
新しい考え、新しい目を以って見返せば、
それは、ネジを回すのに似ています。

他の修理の人に訊いたことはありませんが、
ネジを回すとき、わたしはネジの頭でなく、
奥で素材に食いついている、
先っぽをイメージします。
ネジ頭の表面を回すのではなく、
ネジの先が動くように深い部分に
力がしみこむように意識して、
ドライバーを動かしていきます。
そうでないとドライバーが滑って
ネジ山をなめてしまうのです。


今に至って、ようやくペース配分と
いうものを理解するきっかけを得ました。
でももしかしたら、他の人はそんなこと
考えなくても、言われなくても
最初からわかっているのでしょうか。

たとえばわたしにとって、すべてのものは
人生に直結する問題です。
これをそらしたら後ろが死ぬというような攻撃です。
なのですべて全力で受け止めるか
はじき返すかしなきゃいけないのですが。

他の人はよけたりいなしたり、
時によっては退くことすら考えながら
戦っているようなものなのでしょうか。

他の人がすごく余裕があって見えたり、
人生楽しんでいるように見えたりするのは、
力を入れる場所、抜ける場所がわかっていて
それを実践しているせいかもしれないなあと
今日思いました。
もしかすると、会社勤めで無理がたたって
他動的に死んでしまう人や
自動的に死んでしまう人を見て、
なんでそんなになるまで、などと
思えたりするのでしょうか。
わたしは死んでしまう人の気持ちのほうしか
わかりませんけど。

こうして見てみると、
基本的にわたしはせっぱつまっているというか
おいつめられているような対応しか
できないんだなあとしみじみしました。
もっと視野を広くもって余裕ある行動が
できるようになれば……と思ったところで
すこし原因に思い当たりました。

視野が広いの反対は、『視野が狭い』。
思考の視野狭窄といえば……鬱、です。
結局わたしを縛っているのは、
この抜け切らない鬱状態なのでしょうか。
もう鬱なんて要りません。
わたしも朝起きて一日のすてきな予感に
こころ躍らせたり、
いつかの将来を思いながら
わくわくしてみたりしたいのです。

わたしの今見える将来なんて、
家族が死んで最後はわたし一人生きて
わびしく死ぬ姿。
未来になんの希望も見えません。

いいかげん鬱とは手を切りたいです。
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