適当に公募のところを眺めていたら、
論文を読み物風に書き直したら送れそうなものを見つけました。
最近はいろいろ落ち込んで何をする気も起きませんでしたが、
せっかくだし、と気を奮い立たせます。
規定を読み、手元のファイルを見てみると、
応募するには今の論文を1.4倍にしなければいけません。
論文なんて磨きに磨いてあのサイズなのに、
それを1.4倍にするなんて、どれだけ水増しすればいいのでしょうか。
でもまあ、ひとまずやってみようと、
頭から読み直し、水増しできるところは水増しして、
詳細な説明なども加えていきます。
……と。その内容は、昔確かに書いたように思いました。
なのになぜ、書かれた部分がないのでしょうか?
おかしいと思って旧バージョンのファイルを探していったら、
ずいぶんと前のバージョンには、付け加えようとした内容も、
それ以外の長い説明まで、書いてありました。
これを原稿換算で何枚なのかと変換してみたところ、
すでに応募のページ数はクリアしていました。
なぜこのバージョンを使わずに、別のバージョンを作ったのか……
すこし首を傾げましたが、気づきます。
前に送った先の規定枚数がすくなかったから、
必要充分を書いた内容から、五分の三にまで圧縮したのだと。
そういえば前に論文書いているときは、
本当につらくてたまりませんでした。
あれは必要な箇所もそぎ落とし、
無駄に圧縮しなければいけないせいだったとは。
というところで、最低枚数しかないならいくらでも書けばいいやと
いろいろ考えながら書いてみたら、かなり楽しかったです。
やはり、頭の中のはっきりしない部分に意識をむけ、
いろいろ考えて言語化する、形にするという行為は
すごくわくわくするのです。
でも、いったん書き終わったら、
どうせまた何の意味もなく没なのに、
どれだけの時間と労力をかけたのだろうと、
ものすごく落ち込みました。
わたしは基本的にどれだけ努力したところで
努力が報われたことなんてまったくに近いほどないので、
賽の河原で石を積むような徒労感がものすごいです。
応募用にと表紙を打ち込んでいたら、
どうせ没で何も返るものなんてないのに、住所の記載なんている?
と、わたしのゴーストがささやきます。
そう考えれば、何かあったとき用のメールアドレスを書くだけで
いいのではないでしょうか。それ以外なんて無駄です。
無駄といえば、送る郵便代金も安くはないのに無駄になるし、
紙も無駄、インクも無駄で、エコにも逆らう行為です。
こんな無駄をしてまでも、誰にも評価されないということを
確認しなければならないものなのでしょうか。
だんだん冷静になってみると、
誰にも評価されないのに、それでもと期待している自分に気づいて、
はずかしくていたたまれない気分になります。
なんなのでしょうねえ、この気持ち。
無駄なことをなぜやるのか、という自責のようなものなのでしょうか。
なんだか、贅沢をしようとしたときに感じる、
おまえは贅沢をしても無駄なのに、なぜ贅沢をしようとするのか
というような気分とすごく似ている気がします。
余計なことをした気分で、とてもつらいです。