ここのところは気分が落ち込むことが多く、
世界からのつまはじき感もひどく、めげつづける一方でしたが、
ふっと昔を思い出したら、昔はそうでもなかったとわかりました。
雑誌ではネタ投稿で常連になるくらいだったし、
わたしが書いたものだからと言って、
世界から切り捨てられるばかりではないはずです。
というところで、今のわたしはどうなのかを確かめるためにも
ネットで適当に調べ、ネタ投稿できるところに送ってみました。
……するとその後、なぜ投稿をやめたのかを思い出しました。
ハガキ代が結構大きくなったというのもあるのですが、
それよりも大きな問題は時間でした。
投稿から結果が出るまでに、雑誌だと大体一か月。
その間は結果がどうかそわそわし、バイクの音がするたびに
郵便が来たかと郵便受けを見に走る、
という日々を送るのにうんざりしたからでした。
途中の日々にも意識があればいいですが、
なぜか知りませんがわたしは未来になにかの気にかかる日があると
そこまでの時間がすっぽぬけるような感じがあります。
一か月先に結果が出る投稿をすると、
その一か月、いろいろ手につかず、時間だけが勝手に飛んで無くなり
無駄になった気がします。
思い出すと、長い小説もそんな感じでした。
小説は書くのに一年くらいかかることもあります。
応募後は結果までに六か月くらいかかるものもあります。
すると、結果までの六か月は完全に無駄になります。
書いている一年も、落ちればすべて無駄。
自分が書きたいものを書いているので主観的には
完全な無駄ではありませんが、
それがなんになるかと考えれば客観的には完全に無駄です。
思えばわたしの好きなお菓子は、定番にならずに消えて行きますし、
好きな漫画やアニメは話題にもならないか、評判が悪いかの
どちらかが多いです。
わたしは昔から他人の気持ちがわからないために、
他人を喜ばそうとして書くことはできません。
よって、賞を欲しいと考えることが間違い。
そもそも賞を取っていくばくかのお金をもらったとして、
なんの足しにもなりません。
普通に働いたほうが普通にお金になります。
さらにお金が欲しいなら、一年かけて苦しんで
書いて書いて推敲して作り上げるより、
残業入れたほうが確実でお金になります。
文章を書くのは好きですが、そこに余計な考えを入れてしまうと、
一気にコストパフォーマンスが悪く、意味もなく、
悲しい行為になってしまいます。
それでもどうにかとすがってみたり、
書かなきゃいけないような使命感で書いてみたりで、
ショートショートはギネスブックに載れるんじゃないかと
思うくらい無駄にいっぱい書き、
古文を研究しては未解読の部分の意味を解読し、
辞書の間違い記述すら見つけることもしましたが、
まったく何の役にも立ちませんでした。
ふと気づいて過去を振り返ると、あるべき青春時代にも
だいたい書き物とゲームくらいしかやらずに
時間が飛んで今まで来た気がします。
……正直、無駄な人生だったと思います。
人生の選択で常に失敗を選び続けたようにも感じます。
久しぶりの投稿で、さらに憂鬱な気分になりました。
他人に認められると、名誉(的なもの)がもらえますが、
自分だけでなにかしてもそれはもらえません。
わたしは人生においてほとんど他人から認められることがなかったので
できるなら名誉が欲しいのです。
わかりやすいので論文を例に出すと、
わたしがここで論文を出しても、凡百のくだらない話だとして
まともに読んでももらえません。
でも、他人に認められて論文誌に掲載されれば、同じ内容なのに
『認められて掲載された』という名誉が他人の意識を動かして、
まともに読んで、内容を考えてもらえるようになります。
特に論文はお墨付きを与えられることで、
他人の参考文献として引用される力を持ちます。
お墨付きのない発表だと、単なる参照で終わります。
でも、論文などの投稿は、基本的に、どこかに発表したものを
出してはいけない、という原則があります。
適当に発表してしまうと、その後まともに発表できる可能性を
完全に失ってしまうのです。
研究成果も論文も、読まれてなんぼのものなので、
どうせ読まれずまともに発表できないのなら
適当に発表してしまったほうがいいのではないかと思うのですが
まだそこまでは諦めきれない現在です。