大雨によるなんやかやで、最大限命を守る行動をとれ
というようなことをテレビで言い続けていますが、
見ていてとてもいらいらします。
最大限命を守れという言葉の意味は、
ほかのものは捨て置いても、今ある自分の命だけを守るように
行動しろ、というようなもののようです。
正直、バカじゃないのと思います。
『ほかの何を失っても、命だけは守れ』というのは、
『最大限、命を守る』ではなく、『最低限、命は守る』です。
どういうことかといえば。
たとえば親と子が水に流され、同じく流された一枚の板につかまったとして。
三人でつかまっていては沈んで全員死ぬけれど、
親二人が手を離せばこどもひとりは浮いて助かるとわかった場合。
親が手を離したら、こどもの命は助かるでしょうか。
たとえば大水や津波が押し寄せてきているとき、
動きが不自由な祖母や祖父を連れて逃げようとしていたら
間に合わないとわかったとき、
祖母や祖父が「おいていけ! 最大限自分の命を守れ!」と叫び
ほかの家族が逃げて水から逃れられた場合、
逃れた命は助かったと言えるでしょうか。
これまでの数多くの事例から、
助かったといえることもあれば、
助かったといえないこともあります。
助かったか助かったと言えないかは、個人しだいなのです。
これまでの研究から、
大きな事件や災害から生き残った人は、
『周りは死んでしまったのに自分だけ助かってしまった』などと思い、
その後、自分の手によって、あるいは自分の手によらずとも
命を落としてしまうことがすくなからずある
ということがわかっています。
なぜ命を落としてしまうかを端的に言えば、
実はその『命は救われていなかった』ことによります。
命とは、単に『肉体に宿る命そのものだけでは存在しない』のです。
命とは、それだけで存在するものではありません。
多かれ少なかれ、環境の中で存在するものです。
たとえば、若いころからずっと同じところに住み続け、
そこの周りの人とも交流があり、
家でこどもたちを育て、残っている思い出を大事に大事にする人は、
洪水かなにかが起こったからと言って身一つで連れ出され、
町や村、家が全部流れてしまったら、生きてはいけません。
その後気落ちして命を絶つか、落胆の末に弱って死ぬかといった
命の終わりを迎えることでしょう。
その人にとっての『命』とは、住んでる環境、住んでる家、
家にある思い出、それら全部をひっくるめたものだったのです。
それを奪われて、体に残っている命ひとつだけとりあげて、
命が守れたからいいだろう、ということにはなりません。
家族や家族との時間、思い出が大切なこどもは、
水害にあったからといって親が自分のために死に、
自分の身一つの命を守ろうとしたからと言って、
それで命が守られるわけではありません。
その子にとっては、親も自分の命の一部だからです。
それを失うというのは、その時点で命の2/3を失うのと同じことです。
最大限命を守る、というのは、
自分がそれを失っては生きていけないすべてのものを、
全力をかけて守ることを言います。
家族が大事なら家族を、家族と家が大事なら家族と家を。
家族と家と周りの人が大事なら、家族と家と周りの人を。
それを守って、最大限命を守るということができます。
でも、そんなことできる人なんていないでしょう。
自分の命だけが大事で、自分が生き延びるためなら
避難中に出会うどんな邪魔者もぶちころし、
自分ひとりの命だけ助かればいいという人であれば、
命ひとつ助かることが最大限命を守ることになるでしょうが、
自分の命がほかにつながっている人は、
たとえほかの命を見捨てても、自分の体にあるだけの、
単なる自分の命だけは守るように行動しろ、というのは
『最小限命だけは守れ』という行動にほかなりません。
言葉のズレ、概念のズレが、すごく気持ち悪くてたまらないのです。
体にある命だけを重視する人は、
体の命だけ保てればそれで充分と考えます。
家にいる人がなにか災害に巻き込まれそうになったら、
非難しろなどと言ってくるのでしょう。
でも、命がほかにつながっている人は、
たとえば、家が大事で、家や家の思い出も自分の命と同等の人は、
家や家の思い出をまもれなかったら、その時点で命は終わりなのです。
人間だけ逃げても意味がありません。
そのときは体の命は守られますが、
結局その後長いことしないうちに、体の命も失われます。
その人の命を最大限守れなかい時点で、
避難せずに、家ごと死んでも同じなのです。
こんなことはほかにも何かで見かけたはず……と
ふと思いついてしばらく考えていたのですが、
自殺とその周囲だと、思い出しました。
ある人が自分で命を絶とうとして、失敗して。
病院などでは体を直して、「命が助かった、よかった!」
などと言うわけです。
でも、何一つ命なんて助かってはいません。
自分で体の命を絶とうとした人は、
体の命以外の、自分の『命』というものを、
何かしら欠損しています。
たとえば、仕事がない、お金がない、未来がない、
希望がない、住む場所がない、思い出がない、家族がない。
その人が、あってほしい、それ含めて自分の命だと
考えているもののなにかが壊れ、失ってしまっているから、
その人の命はすでに失われているのです。
その状態に体も持って行こうとしただけであって、
体を直しただけでは命はまったく救われていません。
環境含め、『命』を救わない限り、命は救われないのです。
そんなもの、普通の人間にできることではありません。
できたとしてもやりたい人もいないでしょう。
……だからこそ、最大限命を守るだのなんだのは必要なく、
その人の命を最大限尊重する、としてほしいと思います。
この世に生きていたくない、命を失っているから
体の命も捨てたいと思い、行動した人がいるなら、
死に損なっている状態から体を修復することはせずに、
そのまま失わせてほしいと思います。
家や周囲、思い出が大事で、自分の命の一部であって、
そこから体だけ離されても命は守られないと言う人がいるなら、
避難をさせずにそこにいさせておいて欲しいと思います。
それが、その人の命を尊重することであり、
命の尊厳を守り、命を守ることだとわたしは思うのです。
今は、肉体の命だけ守ればそれでいいし、
肉体の命だけは失われるのは自分は見たくないから見ないですむようにする
という、無礼で傲慢な考えをする人が多すぎます。
というようなことをテレビで言い続けていますが、
見ていてとてもいらいらします。
最大限命を守れという言葉の意味は、
ほかのものは捨て置いても、今ある自分の命だけを守るように
行動しろ、というようなもののようです。
正直、バカじゃないのと思います。
『ほかの何を失っても、命だけは守れ』というのは、
『最大限、命を守る』ではなく、『最低限、命は守る』です。
どういうことかといえば。
たとえば親と子が水に流され、同じく流された一枚の板につかまったとして。
三人でつかまっていては沈んで全員死ぬけれど、
親二人が手を離せばこどもひとりは浮いて助かるとわかった場合。
親が手を離したら、こどもの命は助かるでしょうか。
たとえば大水や津波が押し寄せてきているとき、
動きが不自由な祖母や祖父を連れて逃げようとしていたら
間に合わないとわかったとき、
祖母や祖父が「おいていけ! 最大限自分の命を守れ!」と叫び
ほかの家族が逃げて水から逃れられた場合、
逃れた命は助かったと言えるでしょうか。
これまでの数多くの事例から、
助かったといえることもあれば、
助かったといえないこともあります。
助かったか助かったと言えないかは、個人しだいなのです。
これまでの研究から、
大きな事件や災害から生き残った人は、
『周りは死んでしまったのに自分だけ助かってしまった』などと思い、
その後、自分の手によって、あるいは自分の手によらずとも
命を落としてしまうことがすくなからずある
ということがわかっています。
なぜ命を落としてしまうかを端的に言えば、
実はその『命は救われていなかった』ことによります。
命とは、単に『肉体に宿る命そのものだけでは存在しない』のです。
命とは、それだけで存在するものではありません。
多かれ少なかれ、環境の中で存在するものです。
たとえば、若いころからずっと同じところに住み続け、
そこの周りの人とも交流があり、
家でこどもたちを育て、残っている思い出を大事に大事にする人は、
洪水かなにかが起こったからと言って身一つで連れ出され、
町や村、家が全部流れてしまったら、生きてはいけません。
その後気落ちして命を絶つか、落胆の末に弱って死ぬかといった
命の終わりを迎えることでしょう。
その人にとっての『命』とは、住んでる環境、住んでる家、
家にある思い出、それら全部をひっくるめたものだったのです。
それを奪われて、体に残っている命ひとつだけとりあげて、
命が守れたからいいだろう、ということにはなりません。
家族や家族との時間、思い出が大切なこどもは、
水害にあったからといって親が自分のために死に、
自分の身一つの命を守ろうとしたからと言って、
それで命が守られるわけではありません。
その子にとっては、親も自分の命の一部だからです。
それを失うというのは、その時点で命の2/3を失うのと同じことです。
最大限命を守る、というのは、
自分がそれを失っては生きていけないすべてのものを、
全力をかけて守ることを言います。
家族が大事なら家族を、家族と家が大事なら家族と家を。
家族と家と周りの人が大事なら、家族と家と周りの人を。
それを守って、最大限命を守るということができます。
でも、そんなことできる人なんていないでしょう。
自分の命だけが大事で、自分が生き延びるためなら
避難中に出会うどんな邪魔者もぶちころし、
自分ひとりの命だけ助かればいいという人であれば、
命ひとつ助かることが最大限命を守ることになるでしょうが、
自分の命がほかにつながっている人は、
たとえほかの命を見捨てても、自分の体にあるだけの、
単なる自分の命だけは守るように行動しろ、というのは
『最小限命だけは守れ』という行動にほかなりません。
言葉のズレ、概念のズレが、すごく気持ち悪くてたまらないのです。
体にある命だけを重視する人は、
体の命だけ保てればそれで充分と考えます。
家にいる人がなにか災害に巻き込まれそうになったら、
非難しろなどと言ってくるのでしょう。
でも、命がほかにつながっている人は、
たとえば、家が大事で、家や家の思い出も自分の命と同等の人は、
家や家の思い出をまもれなかったら、その時点で命は終わりなのです。
人間だけ逃げても意味がありません。
そのときは体の命は守られますが、
結局その後長いことしないうちに、体の命も失われます。
その人の命を最大限守れなかい時点で、
避難せずに、家ごと死んでも同じなのです。
こんなことはほかにも何かで見かけたはず……と
ふと思いついてしばらく考えていたのですが、
自殺とその周囲だと、思い出しました。
ある人が自分で命を絶とうとして、失敗して。
病院などでは体を直して、「命が助かった、よかった!」
などと言うわけです。
でも、何一つ命なんて助かってはいません。
自分で体の命を絶とうとした人は、
体の命以外の、自分の『命』というものを、
何かしら欠損しています。
たとえば、仕事がない、お金がない、未来がない、
希望がない、住む場所がない、思い出がない、家族がない。
その人が、あってほしい、それ含めて自分の命だと
考えているもののなにかが壊れ、失ってしまっているから、
その人の命はすでに失われているのです。
その状態に体も持って行こうとしただけであって、
体を直しただけでは命はまったく救われていません。
環境含め、『命』を救わない限り、命は救われないのです。
そんなもの、普通の人間にできることではありません。
できたとしてもやりたい人もいないでしょう。
……だからこそ、最大限命を守るだのなんだのは必要なく、
その人の命を最大限尊重する、としてほしいと思います。
この世に生きていたくない、命を失っているから
体の命も捨てたいと思い、行動した人がいるなら、
死に損なっている状態から体を修復することはせずに、
そのまま失わせてほしいと思います。
家や周囲、思い出が大事で、自分の命の一部であって、
そこから体だけ離されても命は守られないと言う人がいるなら、
避難をさせずにそこにいさせておいて欲しいと思います。
それが、その人の命を尊重することであり、
命の尊厳を守り、命を守ることだとわたしは思うのです。
今は、肉体の命だけ守ればそれでいいし、
肉体の命だけは失われるのは自分は見たくないから見ないですむようにする
という、無礼で傲慢な考えをする人が多すぎます。