奥浅草ファン山谷支部

ファンの目線で、山谷とその周辺のまちを紹介します。

山谷との出会いと、山谷にはまっていくまでの話。

2020-09-09 21:08:00 | 自己紹介
はじめて山谷を訪れたのは2014年、大学生の頃。

都内の観光ガイドに載らないようなスポットを歩くという趣旨のツアーに参加した時、はじめて山谷のいろは商店街を歩きました。ただ歩いただけでしたが、道で酒盛りしているおじさんと出会ったり、ガランとシャッターの閉まった商店街を歩いた経験もなかった私は「ここが東京......」と大きな驚きを持ちました。

大学の授業で「日本にもスラムがある」と習い、大阪の西成で労働者の遺影を撮る活動をした人のお話を聴く機会があり、ますます山谷に関心を持ちました。

(ちなみに、この時点では山谷の歴史や社会的な背景などはほとんど全くと言っていいほど理解していません。)

空き家や空きテナントを活用していく動きにも関心があった私は、単純に「これだけ空いてる店舗があって、23区にも関わらず家賃もなんとなく安そうな場所ならきっとこれから若い人や何か始めたい人が集まってくるのではないかな」と思いました。現にカンガルーホテルさんやエコノミーホテルほていやさんなどバックパッカーや就活生に人気のホテルも増えていると聞いていたので、山谷で働きながらこれからますます街が変わっていくところを見たい!と思うようになりました。それが山谷に深く関わるようになっていったはじまりです。

ちょうど、ニューヨークのまちづくりに影響を与えた女性の社会学者ジェイン・ジェイコブスさんの本を読んだばかりということもあり、都市の中に古い建物があることの価値などに強い関心もあったので、その視点だけで言っても山谷はすでに魅力的な地域でした。

山谷で過ごすようになって、最初は実は、苦労することもありました。

それまで東京の中でも西側で過ごすことが多かった私は、山谷の飲み屋さんにはなかなか立ち寄ることができず。勇気を出して一人で入ろうとしても何故か「だめ」と断られたり。自転車を置いておいたらタイヤに穴を開けられてしまったり(いつもそこに寝ていた方が居たようでした)。後ろから呼び止められて「今日はいくら稼ぎました?」と知らない人から謎の挨拶をされたり。

山谷で出会った人は滅多に山谷以外へ出ていかないような雰囲気もあって、だんだんとホームシックのような気持ちにもなりました。

あとこれは私の勝手な感覚なのですが、山谷への最寄りである「三ノ輪」駅「南千住」駅周辺はなんとなく、色で言うと”灰色”に思えたのです。日比谷線の色のせいでしょうか。

でもそれは、私が山谷のことを何も知らなかったことが原因だったのです。

山谷が居心地良くなってきたきっかけは、山谷で出会った人たちと関係性ができたこと、山谷で新しいことをしようとしている人たちとの出会い、天然のセーフティネットとも言えるような数々の酒場や喫茶店との出会い、そして山谷の歴史をだんだんと理解していったことでした。

山谷がどういうところかを理解していくことで、その魅力の本質に気がつくことができるようになったと思います。

最初は、山谷は外からの人を受け付けない土壌なんじゃないかとおっかなびっくりしていたのですが、歴史を見て、実際に山谷の新陳代謝を見てみることで、やっぱり外から人がやってくる街は魅力的なのだと知ることができました。流れ着く者を皆んな受け入れてきた、山谷スピリットを持った人たちの懐の広さも知ることができました。

ちょっと抽象的な話になってしまいました。

具体的にきっかけとなったお店の名前を挙げてみます。

まずは、山谷のお隣、吉原に2016年カストリ書房がオープンしました。遊郭や赤線の資料を専門に扱う書店が、まさに吉原遊郭の区画の中に登場したので当初は驚きました。これをきっかけに、人通りの無かった吉原、山谷に若い方が沢山訪れるようになりました。これだけでも新鮮な空気が地域に流れたような気がしました。

私自身もその縁で山谷に友人が増え、この地域で飲みに行く回数も増えてきました。その中でいろは商店街の中にある「追分」にも行く機会がありました。正直、目には入っていたけど入っていないというか、入っていい場所だと思っていなかったお店です。しかし、ここのお店こそ山谷らしく、山谷にとって大切なお店でした。


▲追分にいる両目の黒いだるま

店内には山谷のどこからかやってきたおじさんたち。店内では「こないだ貸した千円どうした」「最近来てないあいつはどうした」などと聞こえてきます。

追分のおかみさんはお客さんたちにとても優しく、何かと融通してあげていたようです。よほどのことがない限り、追分が拒むお客さんは居ません。

いろは商店街でお店をしているおかみさんたちは、何かとお客さんたちを気にかけてあげて、金銭管理までしてあげている方もいるとか。
行政から委託されているわけでもなく、ただ気になるから気に掛ける。ヒューマニティーの原点を見たような思いでした。



▲「追分の猫『シロちゃん』、デルカップ辛口、お茶割り 」
作:奥浅草ファン山谷支部

そこに、外からやってきた新参者の私たちが飲みにきても排除することなく、一緒に歌ったり、質問をすれば答えてくれる、好きに飲んでいても放っておいてくれる、居心地のいい親切なお店でした。「追分」の優しさに居心地の良さを見出して以来、私は山谷を心から居心地の良い場所と思えるようになりました。

また、山谷にはこのようにお酒を飲んだり一人で暮らすことができるおじさん達だけではなく介護や医療が必要な方も多く暮らしていますが、そういった方を支援する団体や医療機関にも、トラブルメーカーを排除することなく、大変な人にこそ寄り添い互いに助け合う文化のようなものがあることにも気がついていきました。

その後、いろは商店街にあしたのジョー像を建てるため奔走し、ミュージックフェスを企画された山谷活性化の立役者であるパン店「ぶれ〜て」元店主の堀田さんとお会いする機会がありました。ジョーのグローブパンで有名なお店でしたが、閉店されると聞いてお店をどうするのかというと「ここで何かを新しく始めたい人に借りて欲しい」と言われていました。

その後、すぐに西調布で喫茶店を営まれていた酒井さんが名乗りを挙げ、山谷酒場さんが登場。同じ年には、長年山谷で(元)ホームレス生活者への居住支援を行っていた義平さんが外国からの旅行者も多く利用するホテル寿陽の一階にさんやカフェをオープン。

そして翌年2月には、写真集「ヤマの男」著者である多田さんが泪橋ホールをオープンされました。

この泪橋ホールのすごいところは、お客さんが例の「追分」と時々被っているところなのです。そこにいつも店主の多田さんパワーが炸裂していて「追分」より明らかに入りやすく、女性一人でも何の心配もなく飲めて、山谷らしさにも触れることができるお店です。

そんなこんなで私は山谷の楽しい変化を目の当たりにさせてもらいながら、私自身も山谷で小さなイベントを開催させてもらい外から友人・知人を呼ぶ機会も増え、山谷の居酒屋でお客さんみんなと炭坑節を熱唱する......山谷のスナックで飲んでいるうちに泥酔して駅の階段から転げ落ちる......気がついたら山谷で結婚披露宴まで挙げている......と、どんどん山谷の深みへとハマっていったのでした。

また、実際に出会った、いま山谷に暮らす人だけでなく、本や資料などから山谷がこれまでどういった人たちの居場所だったのかを知ることも私にとっては重要な経験でした。山谷の歴史的な文脈が、確かに今につながっていると思います。


ここまでお読みいただきありがとうございます、次は山谷について知るために私が読んだものや聞いたもの、誰でも参加できるものについてお伝えしたいと思います!引き続きよろしくお願いいたします!



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