2日間に渡るマニアフェスタオンラインが先日終わりました!
誰も見たことのないものを一から企画した別視点の皆さん、ほんとにお疲れ様でした。
今回はオンラインだからこそ参加できた関西の友人や、以前参加したマニアフェスタ の手伝いをしてくれた友人なども居ました。今回は海外のマニアも沢山参加されていて、Instagramを通じた出会いもあって嬉しかったです。
さて、前回は山谷の変化を伝えたいと思って参加したマニアフェスタでしたが、今回は山谷の変化の中でやっぱり忘れてはいけないもの、忘れられない記憶とは何かということを考えながらの参加でした。
“山谷は治安がわるい、山谷はもう介護の街でつまらない、山谷にはもう昔の風景はないからおもしろくない......“
そんなふうに語られるのは、山谷に限らず、街を歩く視点としては勿体ないのではないかと常々思っていました。
目の前の景色だけを狭い視点で見れば、なんだか寂れてて物悲しい雰囲気のところだな、としか見えないけれど、
顕微鏡のような視点でもっと微細な部分まで見れば街に落ちているもの貼られているもの家の前の植木鉢飼われている動物、一つからそこがどんな街だかきちんと見えてくるし、
逆にもっと10年100年の単位で見ればその土地がどんな文脈や要素を持って今に至る街なのかが見えてきます。
すると、江戸時代から山谷周辺は都市のなかでも避けられてきた機能を担ってきた土地だとわかるし、その中で山谷にたどり着いたもの同士の助け合いが行われてきたり、その中でも悲しい排除があった土地だということがわかります。
アフォーダンスという言葉があるそうで、度々聞いたことはありましたが最近その意味を改めて聞いて、山谷のアフォーダンスということを考えました。
アフォーダンスとは、簡単に言うと環境が動物に与える意味のことをいうそうです。
山谷は、近くの吉原や浅草弾左衛門の支配を受けた浅草新町などとは異なりかなり自然発生的に木賃宿街やスラムを形成してきました。(戦後に形成された簡易宿泊所街はGHQの指示も関連しますが、元の動きは地域の旅館業者から自発的に起こったものと理解しています)
これは、「山谷という環境」(......隅田川に覆われた江戸、東京の端という位置にあり江戸城から見た鬼門にあり千住宿の端であり吉原や浅草新町の近くであり、国の戦略の影響を受けたさまざまな庶民の歴史が積み重なってきたという環境)が、引き寄せたものがあったからではないかと思いました。
今の山谷でも同様に、福祉の街と言われ日本の課題が真っ先に現れてくる街のためにそこでの支援が注目されていると同時に、
山谷の文脈など全く知らない人が増えたことによって起こる出来事があり、
その間に立って、山谷の中にまた生まれ始めた多様性を良い方向に転換しようと努力する人がいる、
こういった山谷の動きは、これまでこの土地で何度も繰り返されてきたことが今の形となって現れているのだと思います。
私はこれをつまらないことだとは思わないし、むしろとても大切なことだと思います。
今回は自分の頭で考えるだけでなく、人に伝えようという視点で自分の惹かれた街の魅力について語ることができてとても勉強になる機会でした。
読んでいただいてありがとうございます。
いつか山谷でお会いできたらと思います。
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