好夫のブログ

奈良県に咲く花や風景を四季折々で照会させていただきます。更に僕の
趣味であるコルフ・デジタルカメラ画像を照会します。

カリブ海をバックに、二ュ-三ュジックを聴く好夫君の朝が始まる

2020-02-25 18:35:11 | 日記
2月27日の朝が明けようとしている。ロマンチックなすがずしぃ朝が明けるのである。古都ならの朝が再度開けようとしている大和郡山市小泉の矢田の朝の風景でもある。
 斑鳩の里の早朝の風景にも趣が感じられますね。ぜひ音楽鑑賞の時間としたくなりますね。

いよいよ半袖の時期も到来してきましたね。気持ちを春の季節に合わせながら桜の満開の風景を想像してみたくなりますね。
 昔の現役時代には人事異動が4月に行われていたことを思い出されます。優秀な好夫君を奈良県のために使えなかった哀れな上司に情けなさを感じますよ。ここは奈良市室の木梅林が咲き乱れている第二阪奈有料道路の沿道である。
 梅林の中を高速道路が走っているのである。好夫君が平成14年に従事していたころの風景です。その後この有料道路の管理者県から民間に移行してしまいましたね。


第二阪奈有料道路で一番好きな場所がこの景観なんですね。バックに生駒山があり、近代都市大阪と古都奈良の懸け橋として作られた自動車専用道路で時速60キロの規制があります。好夫君は、管理事務所の幹部として勤めておられましたね。
 造幣局の桜の通り抜けもみられる季節にお越しくださいね。
 緑色の桜の花が咲いた画像ですよ。

毎年「造幣局の桜の通り抜け」が桜ノ宮公園内にありますよ。無料でご覧になれるのが素晴らしいですよ。
  通り抜け期間中は「淀川」の沿道にはたくさんの花見客が来られていますよ。


今夜は「ム-ド音楽」で酔ってみます。曲目は「回り道」なんです

2020-02-25 18:35:11 | 日記
琴風関が、甘い声で歌ったのは「回り道」でしたね。恋がなかなか実らないために、好夫君がやけになっていたころに、やけ酒を飲みまわっていたのですね。
 奈良市内に南市町と言って繁華街で「こけし」のママさんに恋していたために通い続けていましたね。あのバストが忘れられなかったですね。
 佐保川には憩いの場所として河川敷に変化をもたらして作られた場所もあります。せせらぎの水の音を求めてくる小鳥と子供さんが戯れることを想像して作られたのです。

好夫君も職場に行く前に、ちょっと寄って桜の花によって職場に行ったと聞きましてね。常に心の優しい面が雲隠れしていた好夫君の心なんです。
 春日大社の「砂づり藤」は、5月の連休に咲きます。一度春日大社にお参りしながら、彼女と一緒に縁結びを体験していただきたいですね。
 必ずこの場所からもご覧くださいね。

 無料でいくらでも眺められる場所が春日大社なんですよ。



少し早いですが矢田に「つくし」が

2020-02-25 10:54:40 | 日記
やはり季節には間違いは生じませんね。ポカポ陽気がつづいたので「つくし」が出て居るかもしれないと思い出、内緒の場所にはせ参じましたが、なかったですね。
 いよいよ半袖の季節ですね。

今年の好夫君のスタイルなんです。

昨夜からの夜勤は寒さを感じました、体がしばれましたね。施設でも「新型コレラウイルスやインフルエンザ対策に万全の処置をしてあるのです、それには職員が率先して注意を払うことが大切なんですね。所々に消毒液がおいてあって手を消毒することは義務付けられています。また自己申告で体の体温が37度を超えたら申告する事になり「お知らせ」事項として張り紙してあります。無駄口も注意事項ですよ。間食も今回から「ダメ」事項になっています。

今どこの食堂に行っても食材を取る道具はすぐに変える様に指示しているらしいです。介護施設や老人ホ-ムでは保健所から指導しに施設に来られます。病は老人いや高齢者を襲うともいわれていますね。気を付けてくださいね。


好夫の魅力を探る

2020-02-18 22:34:59 | 日記
昭和22年は「日本国憲法が発布された年」戦後からたった二年しか過ぎていない動乱の世の中で産声をあげたのである。ただ田中家の家族は大家族で両親・兄弟を含めて8人が同じ屋根の下で育ち、好夫君は末っ子としてかわいがられていたのである。
 男4人、女2人の兄弟に恵まれていたのである。この画像は、昭和28年頃で父の社宅として「関西電力斑鳩出張所」に住んでいたころの画像です。毎年正月になると社宅の玄関先で家族そろって記念写真を写す慣例行事が行われていたのである。

 この画像は、昭和34年頃で「帯解の農家住宅が社宅として住んでいたころの写真です。
  • 元旦の行事として、家族全員で写真を撮る習わしとともに「お年玉」をいただくことも好夫にとっては大事な日々でもあったのである。
  • 親からいただくのではなく、長男からそれぞれの兄弟に「ポチ袋」に入っているお年玉を裾分けしていただいていたのである。
当時は千円札で一枚もらえる単価程度のお小遣いとしてもらっていたのである。昔は、お年玉で正月用の遊び道具(凧あげ・べった)などを買って遊んでいたのである。

その後成長した好夫君が昭和40年に奈良県庁に就職し、昭和52年に念願の彼女と結婚した時の画像である。
 アメリカ西海岸とハワイに新婚旅行に行った時のパスポ-トに貼られていた画像である。
 サンフランシスコの「都ホテル」からおそろいのカ-デエガンを着て町の観光に行く好夫君の姿であるサンフランシスコと言えば有名な橋がバックに描かれている。ただ養子として結婚した関係で、遠慮がちな好夫君が誕生したのである。彼女は同じ職場で育っていたのと「ミス桜井」として美人ぶりを振りまいていたのである。大恋愛していた昭和45年約7年間は、常に一緒の行動をしていたのである。養子先の両親からは、あまりよくみられていなかったのも事実である。百姓が嫌いな好夫君だったからなんである。子供も長男をさづかったが両親にはとってはかわいらしくなかったのも不運な昌徳君であった。
 生まれて三年後に死に至っている。

ここで過去のことではあるが、不運な昌徳君がなぜ死ななくてはならなかったかは、娘の養子娘を存続させるためには、昌徳君は養子先からすれば、いらない存在扱いされていたのである。今でも桜井に墓は存在している。
 

昌徳君の可愛かったころの画像です。好夫君の子供のころの画像である。

 好坊の子供のころの写真と比較して似ていますか。
令和時代になり、禁酒を実施しています。
 「令和の誓い」により実施しているのに、他は少ない余生を楽しく暮らすための努力は惜しまないようにしています。


好夫は今も趣味を磨き続けている

2020-02-11 00:23:12 | 日記
平成10年ころにパソコンの魅力に取りつかれてから日本橋通いに暮れていたのである。当時ノ-トパソコンは高価すぎて手に入らなかったのが現実でしたが、日本橋通いにチャンスが出てきて買うことになりました。そのノ-トパソコンで夢中になってしまい、いろいろな付属品も買いまとめて「好夫のパソコン工房」も作ったのです。
  当時パソコンや付属品を買い占めた経費は車の高級車クラウンを購入するほどお金をかけていました。その時に音楽鑑賞としてCDも大阪の日本橋のレコ-ド店に毎週に行って買い求めましたね。その時にジャマイカの英雄歌手「ボブ・マ-レ-」の魅力に取りつかれてしまったのです。
愛車に乗って阪神高速道路で難波で降りて日本橋などを回ったりしたし、ホテルで朝食をわざわざ食べにも行っていましたね。昼食は日本橋のとんかつ専門店でおいしいトンカツをいただいていましたね。

買ったCDをウォ-クマンで聴きながら、いろいろな行動もしましたね。例えばデジタルカメラ一眼レフで映写に行くのも楽しみでしたね。また午前5時に起きて早朝ウォ-キングを毎朝5キロで競歩の速さで45分間でした。