猫語のブログ〜ねこさんの、ぼくによる、ねこさんのためのよみもの〜

「猫語の教科書」をだいざいに、しもべいくせいほうほうなど。

ほとんどねむるしもべについて

2023-11-09 | 日記
ねこのみなさんごきげんよう。
ぼくはほんじつ、うちなるライオンさんを
おさえきれずやたらめっぽうはしりまわりました。
しもべはそんなぼくのおめめのまわりなどを
とくべつなブラシでもってざりざりしました。
おかおにたくさんのはぐれげがあったつようです。
きせつはずれにあたたかいこのごろのため
せっかくはやしかえのおわったおけなみは
はぐれ毛になるほかなかったようです。
おかおがちくちくしたために
ぼくはらいおんさんになっていたのですね。


さて、前回ぼくはぼくの慈悲のために、ねむるしもべに
ならないようにこころをくだいていることを
みなさんにいいました。

このことをしり、なかには慈悲におめめざめした
ねこさんもいるかもしれません。
そんなねこさんのため、ぼくはもうひとつ
いわねばならなことをみいだしました。

ねこさんをきけんにさらすのは、
ねむるしもべだけではありませんでした。
ほとんどねむるしもべになったしもべにも
ちゅういがひつようだったのです。

というのも、せんじつこんなできごとがあったのです。

そのひ、ぼくはしもべの巣材のうえにて、こうばこでくつろぎ、
しっぽっぽもごきげんで、すざいのうえをゆったりとみぎへひだりへ
ゆれながら、くつろぎのひとときをたのしんでいました。

そこに、みずからを水責めにするぎしきをおえた
もうほとんどねむるしもべになったしもべが
むにゃむにゃいいながらやってきて
すざいをととのえはじめました。

ほとんどねむるしもべになったしもべは、
すざいのうえをぺたぺたするどうぐでころころする
ぎしきをはじめました。
しもべによると、これをしなければねむるしもべに
なれないとのことです。

ぼくはそうじきのつぎに、このぺたぺたするどうぐがきらいです。
みなさんは、これがどういうものかごぞんじでしょうか。
ぼくは、はじめ、これはただころころするもので
ぺたぺたするとはしらなかったのです。

あるひ、ぼくがとおるときめたそのばしょに、
しもべがほおっておいたこのころころのきれはしがありました。
ぼくには、それをよけてとおらねばならないりゆうなど
ありませんでしたから、とうぜんそのうえをゆきます。

ところがそのきれはしをふんだしゅんかん、
ぼくのにくきゅうを、なにかがつかまえました。

ぼくは、ねこさんのしゅんびんさで全力でとびあがりました。
ところがそのなにかはにゅくきゅうをはなしません。

それはそうです、くっついていたのですから
とびあがったところではなれませんね。

こうなったらねこさんにできることはおおくありません。
とりあえず、やたらめっぽうとぶようにはしりまわりますが
じたいはよくなるどころか、わるくなります。
ぺたぺたのきれはしは、にくきゅうにくいこむようにへばりつき、
にくきゅうとにくきゅうのあいだにあるおけなみも、
ぺたぺたのえじきとなりました。

もうこのあんよはだめかもしれない、とかくごをきめたとき
しもべがようやくぼくをつかまえまして、あんよから
ぺたぺたのきれはしをとりました。

このときのぼくのあんよにはしったくつうを、
たとえそのわずかであってもいいあらわせることばは、
とうていみあたりません。

ぼくは、にくきゅうがさけたのだとおもいました。
くろおめめはまんまるで、おみみはぺったり、
おひげもぜんいんたちあがるしまつです。

さいわい、にくきゅうはさけてはいませんでしたが、
しばらくのあいだゆかのかんしょくがかわってしまって、
そのたびにくつうをおもいだすという、
つらいおめめにあったのです。

たいせつにはぐくんだにくきゅうのあいだとあいだのおけなみも
あれほうだいで、まんぞくいくまではえそろうのに
ひつようとなったちゅーるさんは、りょうおててあんよの
にくきゅうのかずではたりませんでした。

このような、にがにがしいきおくのあるぺたぺたのことですが、
このときのぼくはころんとさんになっていましたから、
ころころのきれはしをふむきけんはないとふんで
そのままゆっくりくつろいでいました。


ところがです。
あろうことかしもべは、しっぽっぽのうえにまで
ぺたぺたをころころしたのです。

しっぽっぽは、ぺたぺたにころころされたしゅんかんに
ぼくがあじわったのとおなじくつうをあじわい、
しっぽっぽのおけなみは荒れ放題となり、
しっぽっぽはたいそうしょんぼりしましたので、
ぼくはいそいでしっぽっぽをだきよせ、
ていねいになめてあげました。

しっぽっぽをはげますとき、ぼくはいつもそうしています。

ひっしにしっぽっぽをはげましているあいだに
しもべときたら、そしらぬかおでねむるしもべになってしまい、
それっきりおひさまがてらすまでしらんぷりしました。

ぼくはしもべを、ねむるしもべにならないようにしてあげる
ことができなかったのです。

しもべをのっとているなにものかは、
このようにねこさんの慈悲をこうみょうにはばむ
ちえもあるようです。

みなさまもなにとぞ
おきをつけください。





ねむるしもべについて

2023-10-23 | 日記
ねこのみなさんごきげんよう。
おさむいきせつがやってきます。
おけなみの生やし変えはおわっていますか。
しもべのいるねこさんは、このじきはしもべに
おていれをしっかりさせましょう。
よりみつなおけなみとなり、さむさが
ほんのちょっとだけましになります。

ぜんかいねこさんのおねんねについてかきましたので、
こんかいはねむるしもべについて、ぼくはいいます。

いつか、ぼくはねむるしもべがきらいだと
かいたことがあるようにおもいます。
ねむるしもべから、ぼくはとんでもないしうちをうけるからです。

しもべは、ねむるしもべになりますと、ぼくがどれほどつよいおきもちで
にゃーんをしても、ぼくのところにかけつけることもなければ
きのぬけたへんじのひとつもしないありさまです。

おきているしもべにはありえないこのふるまいに、
しんぱいになったぼくがそっとよりそえば、
ぼくのおからだめがけてようしゃもなくふりおろされるしもべのうなるうで、
きけんをさっちしてみをひるがえしたぼくにつきだされるまるたのようなあし、
おどろきのあまりたちすくむぼくをひっくりかえし、
ひっくりかえされたままぼうぜんとしているぼくにあたまをごんごんぶつけてきたり、
しっぽっぽをしたじきにしてうごけなくしたり、
そのついでにぼくさえもしたじきにしようとしてきたり
とつじょとしておおごえをだして
ぼくとしっぽっぽにきょうふをあたえる
など、ぼくがこうむるきけんはまいきょにいとまがありません。

このような非道をはたらくいきものと、
せいいをもってつかえているしもべが
おなじものとはとうていおもえません。

そしてぼくはじっさい、べつものだと
ながねんのかんさつよりけつろんをしました。
たしかにみためはかわらずしもべでしょうが
べつものでなければ、はなしがはじまらないのです。

なぜなら、このような行いは、しもべでないにんげんにあっても、
おいそれとできるものではありません。
こんなことができるのは、もはやにんげんではないにんげんのみです。
もし、しもべとねむるしもべがいっしょだというならば、
しもべはにんげんでありながらにんげんではないという
たいへんふつごうなしんじつにたどりついてしまいます。

これがしもべとねむるしもべがべつのいきものである
というひとつめのりゆうです。

そして、もうひとつ、りゆうがあります。

ねこさんは、おねんねしていてもぼくはぼくですので
ごじぶんがちゅーるさんをすきということもわすれません。
だからこそ、しもべがちゅーるさんをよういしたならば
すばやくこちらのせかいでおきることができます。

しかしねむるしもべには、
ぼくがみみのそばでにゃーんをしてもまったくとどきません。
しもべのだいすきなにくきゅうをおしつけてみてもだめです。
おはなのちいさいといきでたんねんにふんふんしたってだめなのです。

これはすなわち、しもべはすっかり、しもべではなくなっている
ということのあかしです。

でなければ、しもべがもとめてやまない
ねこさんからのこれらのごほうびを
むげにできるものではありません。

おそらくしもべは、なにかにからだをのっとられて
ねむるしもべになってしまうのだとぼくはおもいます。

このなにかは、しもべのからだをのっとり
しもべのおからだからしもべのようそを
おいだすのか、なくしてしまうのか、するのでしょう。

のっとられているあいだしもべは、
ねこさんをめでることもできず
ねこさんからのごほうびにきづくこともなく
たべものみもせず、うたいもせず
ただ、よこたわりときにねこさんをきけんにさらす
ことしかできなくなるのです。

しもべの、なんといたわしいことでしょうか。
しもべのじんせいのよろこびとは、
はねこさんをめでたり
ねこさんのごほうびをいただくことだとういうのに
そのじんせいのうちのかなりながいことを
なにものかにのっとられ
よろこびをかんじることもかなわないのです。

ですのでぼくは、しもべがねむるしもべにならないように、
おこころをくだいています。
ねこさんはただあいされるためだけのそんざいですから
このようにきづかういことをするひつようはないのですが
それではあまりにしもべが、きのどくというものでしょう。

すざいのうえで、しもべがながくなったら、
のっとられつつあるあいずです。
しもべをのっとりから救うには、
このときにあれこれごようじをいいつけたり、
こまめににゃーんをしたり
はばかりでごようじをすませてとびまわったり
するのがこうかてきです。

もししもべに慈悲をとかんがえるねこさんがあれば
どうぞさんこうになさってくださいね。


ゆめをみていたの?ととうしもべ

2023-10-03 | 日記
ねこのみなさんごきげんよう。

しもべは、じゆうねこさんがくるまに傷をつけたといっていました。
ぼくは、じゆうこねこさんが、くるまの屋根に登ろうとして、
しっぱいしたのをしっています。

おねえにゃんがのっていましたから、ごじぶんもやねにのぼりたかったのです、
そしてのぼれるとおもったのです。

ぴょんととんだけれども、たかさがたりませんでした。
こねこさんはまったくのれるつもりでいたものですから、
びっくりしておつめでもってしがみつこうとたわけです。
そのくふうもむなしく、くるまこねこさんのおつめのあとが
たてに4ほん、きれいにのこっただけでした。
こねこさんにはよくあることですね。

さてみなさんは、おねんねからおめめがさめたとき
しもべに、ゆめをみていたのね、といわれたことはありませんか?

ぼくは、これまでになんどもあります。
はじめは、しもべがなにをいっているかわからなかったものです。
しかし、ながいことしもべをけいけんするうちに、
しもべのいうゆめとはなにか、をまなびました。

こんかいは、しもべのいうところの、ゆめについて
ぼくがしっていることをおはなししましょう。



しもべたち人間がゆめというときには、
いろいろないみがあることを、まずはおぼえておきましょう。

たとえば、ゆめのようなねこさんだ!というときのゆめは
そのねこさんのかわいさがかわいすぎてとうていりかいできない、
とういういみです。

また、こうばこをくんでいるねこさんのおててとおててのあいだに
ゆびをいれて、ゆめのようなかんしょく・・・、というときのゆめは
うっとりとしあわせしかみえない、ということです。

いっぽうで、はかないゆめのようだった、というときは
ねこさんがおひざからおりてしまったさびしさむなしさのために、
これまでしあわせだったことがもうしんじられやしない、ということです。

そして、ねこさんがたのしくすごせるおたくをつくるのが
しもべたるわたしのゆめです、というときのゆめは、
いまはそうではないけれども、いずれそうなります、といういみです。

もうひとつ、ゆめのくに、というときは
ねずみが人間たちをもてなすばしょのことをいっています。
ねこさんにとっては、まちがいなくゆめのくにですね。

そして、ほんだいの、ねこさんゆめをみたの?というときのゆめの
いみについておはなししましょう。

しもべたちにんげんのとって、このゆめとはみるもので、
かつ、みることができるのはねているしもべになったときだけです。

そして、みる、といってもただみるのではありません。
たとえばしもべたち人間がちゅーるさんをたべるゆめをみたとしましょう。
ちゅーるさんはおいしくおなかもみたされ、
しあわせをたしかにかんじるのです。

しかしめがさめてみると、おなかはすいています。
たしかにたべたはずなのに、なぜだろう?
あ、ゆめか。
とこうなるのです。
ようするに、めがさめたらそれはゆめだし、
めがさめなけれなそれはほんとう、ということです。

しもべが、おめめをさましたねこさんに
ゆめをみたのね?というときのゆめは
このねているしもべがみるもののことをさしています。

しもべたちにんげんは、すべてのねているいきものは、
ねているにんげんとまったくおなじように
ゆめをみるとおもっていますので、
ねこさんにもゆめをみたの?ときくのです。


いっぽうねこさんはといえば、
おひさまとたわむれるためのおねんねのときはべつですが、
そうではないおねんねしているときはふつう、
ここではないどこかでおきていますね。

おからだはここ専用のおからだですのでおいていきますが、
おねんねすればべつところにあるそこ専用のおからだでもって
おめめざめするわけです。

そこは、ねこがみさまのおにわのこともあるでしょうし
また、ながぐつをはくこともあれば、おんがえしすることもあったり
ふまれてとんでちゃったかもしれませんし、100万回いきたり、
うさぎやくめやぶたのおともだちがいたり、
虹色だったり、ねずみにしてやられたり、バスだったり、妖怪だったり
魔法使いのともだちだったり、ハンターのおともだったりしますね。

このように、こちらのせかいでおねんねしているときは
どこかべつのせかいでおきている、
ねこさんにとっておねんねとは、そういうものです。

そして、どこのせかいでおきておくことにするかを
ねこさんはじゆうにえらぶことができますね。
そのおかげで、しもべがちゅーるさんをよういしたなら
すぐにこちらのせかいでおめめをさますことができます。

ですので、ねこさんは、
ゆめをみていたの?ときかれたら
ねこさんはゆめをみませんよ、
とおしえてあげるのがよいねこさんの
たしなみ、というものでしょう。

ねこさんもゆめをみるというおもいちがいは
しもべたちにんげんの、むちとこうまんによる、
いかにもにんげんらしいおもいちがいで、
もはやあいらしさすらかんじます。

ただ、おねんねしているあいだ、
おいてある本体が、ときおりかってに
にゃーんをしたりおててやあんよをうごかしたり
することもあるようです。

これは、本体のメンテナンスちゅうにおこる
ぐうはつてきなしょうじょうなのですが、
それが、ねている人間たちのふるまいそのものに
みえるようで、しもべのおもいちがいをまねく
遠因にもなっているようです。

おかあにゃんやいいこだね波のことなど

2023-08-20 | 日記
ねこのみなさんごきげんよう。

ぼくのおたくのまわりにはじゆうねこさんが
おおくいることをみなさんはごぞんじとおもいます。
さきごろのこいのきせつがすぎまして
めでたくこのちじょうにいらっしゃったこねこさんが、
おかあにゃんといっしょにおさんぽをしているのを
みかけるようになりました。

せんじつ、しもべはじゆうこねこさんがいるよと、
ぼくをおにもつのようにかかえて
おそとへのとびらのまえにつれていきました。

ぼくはこねこさんにおめめがありませんから
しもべのさそいに、ふかくかんがえもせず
おにもつになってつれていかれるままに
されていました。

しかしこのとき、ぼくのねこさん報知器が
けたたましくなりひびいたのです。

ぼくはもっと、つらなりということを
かんがえるべきだったのです。
じゆうこねこさんのそばにはかならず
おかあんにゃんがいて、そのおかあにゃんは
かならずじゆうねこさんなのだ、と。

じゆうねこさんかつおかあんにゃんとは、
じゆうねこさんのただしき警戒心に
おかあにゃんとしてのえいびんな警戒心があわさって
おめめがあえばそくざにおつめ、
そんざいをさっちされただけでも
圧倒的まーおまーおをおみまいされてしまいます。




このおそろしさにきづいたとて、
ときすでにおそしですからぼくは、
ほんとのおにもつのようにみじろぎもせず、
しもべにかかえられてみることにしました。

こうしていれば、ぼくがいきとしいける
おおきなねこさんだとばれずにすむかもしれぬと
おもったからです。

しかし、こんなごまかしはしもべだましほどで
やはりおかあにゃんにはまったくつうようしませんでした。
おにもつのフリをしているときから
もうぼくがおおきいねこさんだということは
ばれてしまっていたのでしょう。

とびらのこちらがわからでも
ごうごうともえる
おかあにゃんの滅の志が
ぼくにはしかとみえました。

そうともしらずのうてんきなしもべは、
ぼくをゆかにおろして、
ぼくがとおれないほどに
とびらをあけました。

じゆうこねこさんのおかあにゃんの
ちをはうようなうなりごえは
とびらがあくまえからぼくのおみみにはとどいていて
とびらがあけられたとき
我不辞爪爪闘!!
と、はっきりときこえました。

すでに戦闘体制はととのっているようです。
おそるおそるすきまからおそとをみやると、

我欲子猫敵血肉!!我欲子猫敵血!肉!!
ととなえながら豪然とちかづいてくるおかあにゃんと、
おひさまが、ちょうどかげになっているコンクリで
むじゃきなこねこさんが、
ころころしたりてしてししたりおねんねしているの
みえました。

そのかずなんと、5こねこさん!

5こねこさん!
ああ、このおかあにゃんは、
じゆうねこさんとしても
おかあにゃんとしても
くっしのじつりょくを
おもちのねこさんんだったのです。

おかあにゃんは、あっとうてきまーおを
はっしながら、ぼくのおててが絶妙に
とどかないところまできてたちどまると、
するどいきばをむき出しにして
おめめがとびでるくらいにみひらいて
敵即滅!敵即滅!!!汝即滅with我爪我牙!!!
とさけびました。

こうなりますともうおててあげです。
ぼくは、善き大きなねこさんであることを
わかってもらおうとかんがえないでもなかったのですが、
すこしでもうごこうものなら
瞬滅のおそれがありましたので
ぼくはすばやく撤退をきめました。

ちらりとみえたこねこさんは
おけなみはとりどりで
たいそうかわいらしかったですよ。

このあいだ、N-eko酸についておはなししました。
そのあとN-eko酸をうしなったねこさんがどうすればよいか
ごしつもんがありましたので、
おこたえいたしましょう。

N-eko酸ぶそくをかんじたらば、
しもべの”いい子だねー”をあびるのがよいでしょう。


しもべの”いい子だねー”には、
とくべつな波動がふくまれており、
このはどうが、ねこさんのすみずみにゆきわたりますと
N-eko酸がせいせいされます。

まだこのはどうのことはくわしくわかっていません。
かりにこのはどうのことをいいこだね波とよぶことにしますが、
このいいこだね波にはつよさがあります。
つよければ、すこしのいいこだね波でもたちどころに
N-eko酸でねこさんを満たすことができます。
よわければたくさんのいいこだね波がひつようです。

現在いきているしもべのうちでは
あのゆうめいな写真家しもべのはっする
”いい子だねー”がもっともつよいいいこだね波を
もっています。

ですので、こねこさんですと、
1回の”いい子だねー”
N-eko酸が体いっぱいにあふれかえりまして
おめめもおつめもおけなみも
きらきらかがやき、ぴかぴかのねこさんになります。

はじめておめめにかかるはずの
みしらぬしもべであるにもかかわらず
こねこさんがあたまにのってしまったり、
おひざでおねんねしてしまったりするのは
こういうわけなのです。

あまりにもすばらしい”いい子だねー”であることを
おもくみたれいのネットワークにより、
この写真家カメラマンの”いい子だねー”
テレビコンテンツによってこうかいされており
ありとあらゆるねこさんに
あびるきかいがていきょうされています。

また、いろんなしもべの”いい子だねー”
ネット界にたくさん用意されており、
テレビをごらんになれないねこさんでも
れいのネットワーク経由でたのしむことができますから
あんしんしてください。

しもべのじゅくれんどをはかるのに
”いい子だねー”からはっせられる
いいこだね波のきょうじゃくは
よいしひょうです。

もしあなたがじゆうねこさんで、
よいいいこだね波をはっする人間とであったならば
しもべにすることをおすすめいたします。

つよいいいこだね波をはっせられるかどうかは
しもべの、人間としての性能によるぶぶんがおおきく、
しもべとしていかにちゅうじつでせいじつに
たんれんをしたとしても、かならずつよい
いいこだね波をはっせられるようになるとは
かぎりません。
かなしいことですけれどもね。

ですので、はじめからつよい
いいこだね波をはっするにんげんは
えがたいものだのとこころえておいて
そんはありませんよ。


N-eko酸としもべ

2023-07-30 | 日記
ねこのみなさんごきげんよう。

ねこさんのえいえんのおもちゃたちが
泣き惑うころになりましたね。
おもちゃたちの末魔に、ねこさんの
三日月のようにとぎすまされたきば、または
ひかりのこなをまぶしたようにきらめくおつめがささり、
あえなくさいごをむかえるおもちゃたちのむねんのなきごえに、
ぼくのおひげのねもとはふっくらしてしまい、
それをみつけたしもべに
つつかれるまいにちです。

さてこんかいは、ねこさんのけんこうため、
ねこさんがしっておかなければならない
えいようそについておはなしします。

なぜねこさんがしらなければならないのか、
しもべにおまかせしておけばよいじゃないか。
ねこさんはひらひらまいおちるほこりを
みつめるのにいそがしいのです、
というおこえがきこえてきそうですが、
そうもいかないのです。
なにせしもべたち人間は
このえいようそを、いまだしらないのですから。

つまり、ごはんやおみず、ちゅーるさんのように
ねこさんがおねんねしているうちに
しもべがよういしてくれるたぐいのものでは
ないということです。
ですのでねこさんはごじぶんでしっておかなければ
ならないというわけです。

ぼくもねこさんですから、このようなことは
たいへんごめんどうにかんじます。
しかしこればっかりは、たいくつでもぜひあきらめずに
およみください、とおねがいするばかりです。

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しもべたちは、ねこさんを吸ったり、
ときには食んだりして
ねこさんをせっしゅしますね。

なぜそんなことをするのか、
としもべたちに問うたならば、しもべたちは
ねこさんのかわいさとめがあってしまったために
ねこさんをおしたいするきもちが、
こころのうつわのなかでおおいなるはんらんをし、
これをおさめるすべといえば
ねこさんをすったりはんだりするしかほうほうがないのです、
とこたえるでしょう。
ねこさんをたべものとおもっているわけではありません、
ともいうでしょうね。

なるほど、たしかにねこさんはたべものではありませんね。
しかし、たべものではありませんが、じつはねこさんだけが
うみだせる栄養素が、あるのもまたじじつなのです。
そしてこのえいようそは、しもべたちにとりこまれますと、
とくべつなはたらきをします。

このえいようそのそんざいのかのうせいについて、
いちぶのゆうしきしゃたちはかんがえはじめているようですが、
いまのところは、もしかしてあるんじゃね?だってねこさんすうとまじこころ
みたされることない?くらいのにんしきで
ほとんどファンタジーのりょういきでかたられているにすぎません。

人間たちのふつつかさにがっかりしてしまいますが、
いたしかたありません。ぼくたちねこさんは、
しもべたちのけんきゅうがすすむのを
おねんねしながらまちましょう。

このえいようそにはすでにおなまえがありまして、
N-eko酸(エヌ・イーコサン)といいます。

しもべたちはしらないにしろ、
いえ、むしろしらないために本能のめいずるままにして
ねこさんにやどっているN-eko酸をひとつぶのこらず、
すいこもうとします。

おなかなおけなみのしじまから
おみみのいちばんたかいところから
うしろのおつむのから
おじょうひんにしゅっとすぼまったおててのさきから
せまさにていひょうのあるひたいから
しもべがすうごとに、またははむごとに
N-eko酸はどんどんうしなわれてしまいます。

しもべはなぜこれほどN-eko酸を
どんよくにほっするのでしょうか。
いったい、N-eko酸のなにが、しもべを
ここまでかりたてるのでしょうか。

そのなぞは、しもべにとりこまれた
N-eko酸がどのようにさようするのかを
しることですべてあきらかになります。

しもべのたいないにとりこまれたN-eko酸は
あれとくっついた、それをひいたりされて、
さいしゅうてきにドンパミンというつぶを
つくります。

このつぶは、しもべの脳にたどりつきますと
ぱかっとはじけまして、
しあわせなきもちをあたえるつぶを
やきあがったにんじんケーキに粉砂糖をふるうように
おしみなくたっぷりとふりまきます。
それによりしもべは、たいそうしあわせなきもちになります。
そのしあわせなおきもちは、
おいしいおさしみをたべたときの
22倍ほどになるそうです。

ドンパミンのはたらきはそれだけではありません。
しもべのやるきをもっさもさにはやすこうかもあるのです。
しもべが、しもべをうしなったようにねこさんをせっしゅするのは
このこうかのためでもあります。
もっさもさにおいしげったやるきでもって
しもべは、よりいっそうたんねんに
N-eko酸をせっしゅしようとするのです。

しかしそれもあるとき転換点をむかえます。
しもべのたいないに、ぱかっとわれた、
かつてドンパミンだったもののかけらたちがまんぱいになりますと、
N-eko酸とドンパミンのかけらたちが
くっついたりはなれたりなにかをうしなったりして
こんどはセロントニンというつぶにかわります。

このセロントニンはもっさもさにおいしげった
しもべのやるきを、しあわせなきもちはそのままに
てきどにかりこむことができ、
しもべはせっしゅをねっしんにするのをやめて
しあわせなおきもちだけをたのしむきになります。

そしてこのセロントニンは、しもべをながいこと
しあわせなおきもちのままにしておくちからもあるのです。

このドンパミン・セロントニン効果を
知ってしまったしもべの本能は
もう、これらのつぶによってもたらされる
しあわせなきもちをわすれることができなくなり、
そのざいりょうとなるN-eko酸のことを
どんよくにもとめるようになるのです。

もうひとつつけくわえておきましょう。

しもべは、ドンパミンやセロントニンとよくにた
つぶをN-eko酸なしでつくることができます。
はたらきもよくにていますし、しもべでない人間たちは
ドンパミン・セロントニン類似物質だけでいきていけます。

しかし、それとこれとはまったくしつがちがうようで、
ドンパミン・セロントニンのもたらすこうかには
およぶべくもない、ということがわかっています。
しもべはごじぶんのこうふくにはめがないので
よりこうふくなるものがあるとしってしまったら
もうもとにはもどれなくなってしまうせいしつがあるため
本能でもってN-eko酸を求めてしまうのです。

しかし、N-eko酸はしもべのためにつくられるものではなく
ほんらいならば、ねこさんのためにひつようなつぶです。

ですので、しもべにすいつくされくいつくされ、
ねこさんにひつような、さいていげんのN-eko酸ものこらない、
はげやまのいちやになってしまったら
それはゆゆしきじたいです。

このような事態をふせぐため
ねこさんはどうしたらよいでしょうか。

ながくなりますので、このつづきは
じかいにいたしましょう。
それまで、ひびきわたる
おもちゃたちのこえをたのしんでください。