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ねむまーるさんの日常

障がい

2023-12-28 18:21:25 | エッセイ
ー障がいー

私の両親は、二人とも手帳を所有した身体障がい者だ。母は眼が悪く、視覚も色覚も健常者と同じようには見れない。父は片足が短く、その為に義足だ。

二人とも手術や治療をしたものの、手帳を所有しながら自分のできる範囲で生きている。

家族のことを話すとき、私の生きてきた範囲を普通のように語るのは難しい。

人それぞれ、事情を抱えながら何処まで話すべきなのか考えているだろう。辛い気持ちも普通になれない身体も。

私は、健常者で税金もそのように支払っているが両親の付き添いで制度利用してきた。国から認められた援助やサービスは受けれるのだが、その度に普通と違うと感じてきた。

健常者である私が体調不良に見舞われ、救急車を呼んだことがあった。死を覚悟するほどの呼吸困難、全く起き上がれない。電話で話すなんて出来ない。両親がいたから、病院にまで辿り着けたが、いなかったら私はどうなっていたのか身震いする。

それくらい酷い症状にも関わらず、検査の結果は異常なし。錠剤を渡され自宅療養。その当時は、コロナが流行り始めたときだ。そう、パンデミックの時期である。

私の命は、自宅療養ならどうなっていたの?と。周りに話すと、それで亡くなった方もいたんだろうね……。とのこと。

命って、こんなに軽いんですか?

私は、ずっと制度利用を受けてきたことを引け目に感じてきたが、考えが変わった。制度で人をコロスことも救うこともできると。

他人は(都合のいいことしか言わない)と。

幼き頃から、感じてた違和感を私はアートで払拭しようともがいていた。

その中で、ずーっと私を象徴するオリジナルキャラクターがいる。名前は、菊地 照人 (きくち てと)と言う。その子が私のアバターというか、自己投影されたキャラクターなのだ。辛い気持ちも絵に反映させたら、その分泣いてくれた。

創作は、私をずっと優しく支えてくれた。

この内容を才能があるだけで片付けられたくない。私は、心の中で闘っていた。それが原因で独りになってしまっても構わなかった。その作ってきた作品に説得力があれば伝わるはずだと。私の身体がどうなっても、作品は残る。

だから、妥協したくなくて仕事に出来なかった。出来上がらなかったら悔しくなって必ず後悔するから…

障がいは治らない。でもアートで補助はできる。それが私の作品に込められている。

私が学生の頃に描いた壁画は、MKボウル上賀茂・パルケ上賀茂。それは、京都精華大学との連携事業としてデザイン学部の学生が作成した作品が4階フットサルコートの壁面に幅24メートルの巨大手描きアート作品が設置され2枚の絵は間違い探しにもなっている。デザインから制作まで全て私に任されたので、作者は私です。この壁画は実は障がいを持った両親に対する作品なんです。でなければ、描いていないし引き受けていないかもしれません。

母の色覚異常。つまり色が識別できないので、私にこれは、何色?と聞き、それに答えるのが日常でした。父は義足の為、普通に歩いたり走ったりできない。その補助を私は人生の中で、作りたかったのだと思う。


伝えるのは難しい。でも、伝えなきゃ伝わらない。その記述が読者である貴方に届いていて欲しいと願っている。


伝える術

2023-12-28 13:48:03 | エッセイ

ー伝える術ー

美術=絵というのは、安直な回答だ。

美術とは、美しくなる術であり。それを表現する為なら何だって美術になる。兎の色が白でなければいけないという制限の無いセカイではあるものの伝える術を怠ると、それは美術じゃなくなる。

なんというか。作者のエゴの押し売りというか。感動の押しつけみたいな……。

あくまで《伝える術を美しく表現する努力あっての美術》なので意味不明なセカイにする必要性は無いかな?と思っている。

私は、オリジナル作品も造るがその領域では伝えきれない部分を別の作品を借りることで、表現を試したりする。

いわゆるファンアートが好きなタイプ。

絵を描くのが下手だから、描いちゃダメ。表現しちゃダメ。なんて誰が言ったの?誰でも表現していいし、意外と簡単に手短に造ることができる。

かしこまって、美大なんか造るから私は、表現者じゃない……で勿体なく才能を潰してる気がしてならない。そして、説教する人も嫌い。あくまで誰でも表現していい。という自由意思は守ろうよっていうのは、巷の多様性と一緒だと思っている。

その個人の中で《伝える先が増えれば行き詰まったセカイを変える術》が生まれるかもしれない。



創作と社会 

2023-12-28 11:51:00 | エッセイ

ねむまーるとして活動を始めたのは、大学生の頃。美大だったこともあり、創作を主に勉強していました。この記録は、その延長線上にあるアウトプット行為です。

拙い文書ですが、沢山の方に見て、感じて、触れて頂けると嬉しいです。

 

ー創作と社会ー


私は、昔からアートで人と人とを繋げることが好きでした。


しかし、対人関係に疲れやすい私は、 友達から誤解を受けることが多かった。基本的に一人で行動をするのが好きだからだ。ベッタリした関係は好きではなく、お互いがラフに話せて、尚且つプラスになっていくコトを常に望んでいた。

 

その交流手段には、イラスト、ゲーム、アニメまたは、サブカルチャーに関するお話や出会いがてんこ盛りでした。


それを魅力的に思ってくれる人には、好意的に感じてもらえたが、 人は基本的に自分にとって都合がいい相手が好きだ。その交流の仕方が友情を育む方に繋がっていなかったのかもしれない…。お互いの為というより、今思えばワガママに付き合って貰える関係だったのかも。

 

そんな独りよがりな私は友達といる時でも、空気を読まない発言や行動をしていた。 そういうのも含めて受け入れてくれるから友達でいられていると思っていた。


しかし、徐々にその人とは、価値観が合わずに離れていってしまった。 久しぶりに関係を構築しようと、こちらから行動をしたが、結果は衝突する状態になり、 ついに絶縁してしまった…。


そのトラウマからか仲良くなれそうでも、 無理してまで関係を維持する意味を見出せなくなりました。


創作は(個性)だ。誰かにゴチャゴチャ言われても、何かが間違いなセカイではない。個性を社会的に表現できる自由がある状態こそ、アートだと私は考えています。


対人関係では、 個性を出し過ぎると相手に迷惑をかける場合があり制御しないといけない。何故なら歯止めが効かず、 暴走集団になってしまう可能性があるからだ。


だから、(個性)と(迷惑)は違う。なんでも個性だからといって迷惑をかけていいのなら世界が混沌としてしまう。


私は、アート活動を表現が迷惑とならないような立ち位置。または、個人同士が対人関係では成立しない所を補助するような役割として活動を続けていきたいと思っている。


相変わらず、私の行動は他人から見ればマイペースなようだ。 指摘されても無理に合わせようとは思っていない。 おおよその範囲内はモラルとして守るけど……

 

人に合わせてしまうと、自分の人生を生きてるとは言えない感覚があり、それがどうも性に合わない。疲れてしまうんだ…

 

本当に、良い関係を作る為にはどうしたら良いんだろうなぁと考えてはいるものの、合わないコトをしても身体を壊してしまうので、なるようになるしか無いのかも。

 

そして、それは今の日本では間違っているのかもしれない。多様性とは言いつつ同調圧力はあるので、皆んなと同じように出来ない私は生きづらい。


でも、現在生きにくいとされる日本が(生きやすい国) になる為の行動をしているかもしれない。皆んながマイペースに生きるのが軸になれば変わったりして…?

 

何が真実で、何が正解か分かりにくい世の中だからこそ自分と社会とが、無理なく生きれるその案配を見定めていきたい。