お陽さまブログ

食・自然・生き方・精神世界等についてつぶやきます。

今を大切に

2021-03-20 13:21:58 | 日記



明日があると盲目的に信じていませんか?

旅人は、背後にせまった虎に食い殺される寸前、松の木の根元から、一本の細い藤蔓が垂れていることに気が付きます。間一髪、藤蔓につかまり虎の難から逃れることができました。
この藤蔓はこれは私たちの寿命をたとえいます。
私たちはいろんなものを頼りにして、あてにして生きています。お金を頼りにして生きている人もあります。地位や名誉を頼りにして生きてる人もあります。しかし、どんな人も、一番あて頼りにしているのは自分の命でしょう。
今日は、会社に行って、明日は買い物に行ってと計画を立てて生きていますが、「明日も生きておれる」と自分の命のあることが大前提になっています。
「明日がある」と固く信じていますが、お釈迦さまは、私たちの命は、いつ切れるかわからない、か細い藤蔓なのだよと説かれています。盲目にならず何でも当たり前にならず、今を大切に生きて生きたいですね。

仏教辞典より


人智をつくす

2021-03-14 01:30:11 | 日記


時間の流れはどんなものでも止めることはできません。斎藤一人さん曰く、未来に向かって進んで行こう!ではなく未来は常に否応なく向かって来るもの!
と言われています。時間の流れを良く考えたら本当にそうだと思います。自分や周りがどういう状況でも常に一定で時間は毎日向かってきては過ぎて行く。今この瞬間も未来は向かって来ている。どんな時や状況でも向かって来る未来は必ずあるもの。1分1秒それを受け止めどう判断するかがいろいろな分かれ道のある未来を作って行くのでしょう。
人智を尽くして天命を待つ。のではなく、天命に任せて人智を尽くす事が大事な事のようです。似たようで違う事なのですね。
要するにおのずと常に訪れる未来に真摯に向き合い、正直に生きて精一杯考え行動することで如何様にでも未来は変化していくということなのかなと思います。

自分の国を愛する

2021-03-07 13:06:34 | 日記


自分の国を愛する事。他の国の文化や風習もまた素晴らしいし尊重し尊敬すべきものだと思います。しかしながら自国の素晴らしい日本という大地(島)をどれだけの日本人が知っている事だろうか?
私は自身もまだまだ半分も知らないと思います。コロナにより本当に大切で自分たちが生きて行くすべと心構えを考える良いきっかけとなりました。それは旅行や海外旅行もいけない中で身近な物をしっかりと見つめ大切にしなさいという天からのメッセージでもあるように思うのです。自分が生まれたところに感謝し精一杯生きる。普通に衣食住が出来るありがたさ。身近な大切な人達。それだけで何者にも代え難いとても幸せな事ではないでしょうか?
欧米に憧れをもち欧米がおしゃれ?
人それぞれですが、私はもっと自国を身近な物をしっかりと見つめて大切にしていきたいと思います✨

地球に感謝です🙏
ソワカ🙏

卑下慢

2021-02-26 02:01:26 | 日記




こんなに自分を下げられる私は偉いと思う心はありませんか?

卑下慢(ひげまん)とは、自分ほど、お粗末なものはありません。不出来なものですがどうぞよろしくお願いしますと深々と頭を下げることで、「どうだ、こんなに頭の低いものはいないだろう」とうぬぼれる心を卑下慢と言います。
何か仕事がうまくいったとき、周りから「すごいですね、さすがですね」と褒められた。それに対して「いやー、まぐれですよ」と答える。すると、相手が「本当にまぐれですね」と言ったら、カチンと腹が立ちませんか?
腹が立つということは、まぐれではないと思っているからです。「実力です」というとうぬぼれている奴と思われるので「まぐれですよ」と卑下して言ったということですね。
ケンカしたときに「ごめんわたしが悪かった」と謝り、相手が、「こっちも悪かったわ」と言ってくれたら、仲直りできます。ところが、「ようやく気が付いたの、あんたが悪いに決まっているでしょう」と相手がさらに突っ込んで来たら、「お前だって悪いだろう」と反撃したくなりますね。
自分を卑下していても、卑下することにうぬぼれる心がありますから、自惚れの心から離れきることはできないのです。

仏教辞典より。


我慢

2021-02-23 07:48:28 | 日記




本当は失いたくなかった友達や恋人とケンカして別れてしまった経験はないでしょうか?

できれば今でも仲直りしたい。だけどできない。それは、あなたの心に、強い意地やプライドがあるからです。
意地やプライドのことを、仏教では我慢といいます。自分が間違っていたと分かっても、どこまでも自分の考えを押し通す心です。つまり、「自分の考えは正しいのだから、絶対に謝らないぞ」と思う心のことです。
人は自分が間違っていたと分かっても素直にそれを認められず、自分の体裁を守るためにその間違いを押し通してしまいます。こんな心を仏教で我慢といいます。
この我慢は年とともに強くなっていくような気がします。
小学生の頃、友達とケンカして、「おまえとは絶交だ!!」と言っても、次の日になると「昨日はごめん……。やっぱり遊ぼう……」と仲直りできました。
中学生や高校生になると、そんなに簡単にはいきません。
「簡単に謝れるか」という我慢の心が強くなるからでしょう。
大人になってケンカすると、さらに仲直りが難しくなります。
お互いに向こうが謝るまでは絶対に謝らないと我慢は年を増すごとに強くなるようです。ちょっとしたことなのに、自分の非を認められず、離れ離れになる夫婦や友達、恋人はどれほどいるか分かりません。
「ごめんなさい」「悪かった」と素直に言えたら、かけがえのない人を失わずに済んだのに。そんな後悔が年とともに増えていきます。
私たちの意地やプライドは、大切な人たちを失ってまで守らなければならないほど大層なものなのでしょうか。
ほとんどの場合、後で振り返ると、くだらないことにこだわっていたと後悔するのです。
素顔の自分は本当は謝りたいと思っていながら、意地やプライドがじゃまをして言葉にできず、失いたくない人が自分から離れていくのを後悔しながら、どうしようもできずにいるのです。
そんな時、勇気を出して、素直に謝ってみましょう。勇気がいるかもしれませんが、大事な人を失う心の痛みと後悔に比べたら、大したことはないのではないでしょうか?

仏教辞典より。