お陽さまブログ

食・自然・生き方・精神世界等についてつぶやきます。

過慢

2021-02-22 01:33:13 | 日記




条件が同じなら本当は自分の方が上なのにと思う心はありませんか

次に過慢とは、同じレベルの相手に対して、自分のほうが優れていると威張る心のことです。例えば、テストの成績で相手が七十点、自分も七十点で同じとすると、「相手は親が金持ちで家庭教師がついている。でも、私は塾にも行かずに独りで勉強している。条件が同じなら、本当は私のほうが成績は上だったのに」と思う心です。
同じ成績なら、ライバルだと思って切磋琢磨すれば、お互いの向上になるのですが、「条件が同じなら」という言い訳を付けて、本当は自分が上だと相手を認めることができない心ですね。

人間は他人との競争ばかりを考えて来た結果お互いが疲弊してしまい両方ダメになる。本質は他でもない自分自身との我慢比べではないでしょうか。

お釈迦様の教え。仏教辞典より。


結果は後から。

2021-02-19 00:47:44 | 日記


結果を求めて動くのではなく、結果は自分の行動による報酬として宇宙から与えられるもの❓らしい。

今までの時代は結果に向かい頭で考え行動してきたが、これからの風の時代は自分のワクワクややりたい事をまず精一杯やった事が結果になる✨そういう生き方が大切なんだそうだ。たしかにそう思う。

もしかしたら、地の時代とか風の時代とかは本来は関係なく、魂の領域でいえば人間がこの世で生きていくというのはそこが本質なのかもしれないと思う。

100万円欲しいからこれをやる❗よく思われたいからこうしていこう❗とかではなく、自分の思いや心から湧き上がる思いや考えに素直に従えば結果、思い描く現実が与えられるのだろうと思う。

周りにはいくつもの小さな幸せとワクワクが本当に沢山あることにも気付く事が出来たらまたさらに幸せな結果が訪れ心安らかな日々がおくれますね😊✨

他人の目は気にしない

2021-02-14 17:42:56 | 日記



他人の評価に振り回されて疲れていませんか?

最初の「他人鏡」とは、他人の目に映った自分の姿ということです。
私たちは他人からどう思われるのかを、大変気にしています。
そして、少しでも他人の目によく映ろうと無理してよそ行きの仮面をかぶったりしています。
誰しも、よく思われたいという名誉欲がありますから、他人からどう思われるかを全く気にせずに生きていくことは不可能です。
しかし、他人の評価=自分の全存在と思っているとしたら、これは大変危険なことです。
なぜなら、他人の目という鏡は、あなたをちゃんと見て正当に評価しているのかというと、全くそうではありません。他人の目とは、その人の都合によってコロコロ変わるゆがんだ鏡なのです。
室町時代の有名な禅僧、一休宗純の歌に、
今日ほめて、明日悪く言う人の口、泣くも笑うもウソの世の中というものがあります。
この歌の意味は、今日まであなたはいい人ねと褒めていても、都合が悪くなるとそんな人とは知らなかった、だまされていたよと、途端に態度を変えて悪口を言いだすのが他人なのだよ、ということです。
たしかに、あの人はいい人あの人は悪い人とよく言いますが、その基準は何かといえば、それを言う人の都合ですね。自分にとって都合のいい人はいい人に思えます、自分にとって都合の悪い人は悪い人に思えてしまいます。
【都合によってコロコロ変わるのが他人の評価】

こういう話があります。フランスの英雄ナポレオンが、民衆を前にして喝采を受けている時、部下が「閣下、あの民衆の称賛をごらんください!」と言いました。
すると、ナポレオンは、民衆の称賛ほど当てにならぬものはない。ひとたび戦争に負けると、私を断頭台に送れと言うのだからと言ったそうです。
このように、人は、ある人が勢いのいい時は、「頑張れ、頑張れ」と褒めそやします。逆に、その人の旗色が悪くなると、手のひらを返したように非難します。これが「他人の目」という鏡の実態なのです。
「周りから悪く言われた、けなされた」=「あなたが悪い」ということではありません。
あなたの行いが、あなたをけなした人の都合に、たまたま合わなかっただけなのです。
逆に、あなたが周りから褒めはやされても、自分はすごいんだと舞い上がって有頂天になるのも危険です。
あなたの行いが、たまたま、あなたを褒めた人の都合に合っただけだからです。
都合が合わなくなると、そんなひどい人だったのか。だまされていたと、見方がコロリと変わってしまいます。他人の評価に惑わされてはいけないのです。

もちろん、周りからよく思われたいという気持ち自体は大事なことです。よく思われたいという気持ちが、善い行いをしようとする原動力になるからです。
だけれども、無理をしていい人を演じようとするのは、無意味で疲れるだけではないでしょうか。他人の評価というコロコロと転がる玉の上に、何とか上手に乗ろうとしても、いつ引っ繰り返るか分かりませんから、不安で疲れてしまいます。

ブタは褒められてもブタ、ライオンはそしられてもライオンという格言があります。たとえ褒められたとしてもブタはブタです。けなされたからといって、ライオンはライオンです。周りから褒められようが、けなされようが、あなたそのものは変わらないのです。

仏教辞典より引用。


幸せは自分で✨

2021-02-11 13:20:59 | 日記





幸せはただ待っているだけじゃ、何も始まらないよ。 外に出なきゃ、風を感じることはできない。宝くじを買わなきゃ、宝くじは当たらない。
幸せになろうと思ったら、自分から一歩踏み出すことです。自分が幸せだと、感じることが大事なんです。
小さなことでもいい。「今日のごはんはおいしい」「仕事が順調に終わった」「道端のお花がきれい」ってね。
他人から幸せにしてもらおうなんて、思っちゃいけないよ。

斎藤一人さんの言葉です。

ただ自分で一歩踏み出す。

自分から求めて行く。幸せは身近にいくらでもあるもの。小さな幸せでも気付ける心でありたいと思いますね😊✨

ソワカ🙏


愚痴はいうまいぞ

2021-02-06 00:14:58 | 日記

恨みや妬みや呪いの心を愚痴と言います




怒りの次におしえられているの愚痴というのは、妬みそねみ恨みの心を言います。
私たちは、自分よりも、優れている人を見るとねたましい心が出てきます。思いどおりにならなく失敗するとなんで自分だけこんな目にあったのだろうか自分がこんな目にあったのはあいつのせいだと相手を恨む心が出てはこないでしょうか。

立場の上の人に怒鳴られ、言い返すことも出来ないとき、恨みや呪いの心が出てはこないでしょうか。このような心を愚痴(ぐち)と仏教で説かれます。
このような心を、黒鬼にたとえて教えられています。腹黒い、どす黒いといいますように、汚いものをあらわすときに黒が使われることがあります。
愚痴の心は、自分でも嫌になる醜い心ですから、黒鬼と例えられています。

ヘビやサソリを見たときのようなゾッとする心

この愚痴は、他人の幸せをねたみ、相手の不幸を楽しむ、いやらしい心です。仲の良い友達が、自分よりも幸せそうに生活している。口では「おめでとう、よかったね」と言いながら、心の中では、素直に喜べない気持ちはないでしょうか。
災難にあって苦しんでいる人を見ると、お気の毒にと言いながら、ニヤリをする、人の不幸を楽しむ心がでてこないでしょうか

浄土真宗の親鸞は、

悪性さらにやめがたし
心は蛇蠍のごとくなり

といわれ、ヘビやサソリを見たときのようなゾッとする心だと言われています。
誰の心の中にも、うらみのろいの愚痴の黒鬼が住んでいます。この心が、いろんな悪を私たちに作らせているのです。私たちを動かしている心を見つめてきましょう。

今日は仏教辞典より引用させていただきました。