そしてもう一つ。原田武夫です。
これ、面白いなぁ(笑)
殿=家広さんらしい柔らかくも鋭い切り口で。
やっぱり血筋なんだろうな~
習近平の下りが面白いですよ!
小沢一郎氏、受け答えがやっぱりstatesmanだよね。
今のところ理解者が全くいないのが・・・これまた「これからの浮上」を物語っているようにしか思えないのですが。
そこに目をつけちゃう家広さんがすごいと思いますね。
さすがTokugawaです。
http://net.keizaikai.co.jp/archives/11026
https://www.facebook.com/iisia.jp/posts/759144310823459
政界45年、15期と現役最長の政治家・小沢一郎氏。自民党離党後、細川護煕内閣、鳩山由紀夫内閣と近年2度の「非自民」政権交代を実現させた立役者である。四半世紀の間、常に永田町の話題の中心にいた小沢氏に徳川宗家19代の政治評論家、川家広氏が鋭くせまる。
今回登場の小沢一郎氏は、現役ながら歴史上の人物でもある。政界でのキャリアが半世紀近く、しかもその間、政権中枢にあって日米交渉と湾岸戦争、自衛隊のPKO派遣といった歴史的事件の当事者として活躍したかと思えば、一転、大自民党を割って出て、15年の間隔を置いて2度も非自民政権を打ち立てているのだ。そんな小沢氏に、まずは駆け出し時代を語ってもらった。
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小沢一郎(おざわ・いちろう)
1942年生まれ。岩手県出身。慶応義塾大学卒業後、日本大学大学院を経て1969年、27歳で衆議院初当選。現在15期目。議院運営委員長、自治大臣、官房副長官、自民党幹事長を歴任。新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表、国民の生活が第一代表を経て2013年、生活の党代表に就任。
全くの素人として選挙に出馬
川 初当選は1969年ですか。
小沢 そう。昭和44年、12月27日。佐藤内閣の最後の頃だね。
川 以来、いくつの内閣を見てこられましたか。
小沢 佐藤、田中、三木、福田、大平、鈴木、中曽根、竹下、宇野、海部、宮澤、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田、安倍、と。全部で25かな。2年も持たないね。
川 お父さまの佐重喜さんが亡くなって、当時大学院生だった小沢先生が出馬を要請されるわけですが、いつかはそうなると思っていましたか。
小沢 いや、僕はそのつもりはなかった。親父が弁護士だったせいもあるけど、弁護士なら時間もあるし、お金に困らないし、そんな、わりあい安易な気持ちで弁護士を目指していて、司法試験の準備をしていたところで亡くなった。
川 当選されてからは、すぐ田中角栄先生のところですか。
小沢 当時は佐藤さんが長くて、官僚出身の首相が続いたこともあって、代表的な党人政治家の田中さんの門をたたいたんです。
川 角栄さんは、どんな方でしたか。
小沢 そりゃ、おっかないよ、最初はおっかないよね。だけど、とても気さくな、面倒見の良い、やり過ぎるくらいの人でしたね。良い親父さんでしたよ。でも選挙には厳しかったねー。自民党の候補にしても、スッとはならなかった。田中の親父もね、最初から「よし、俺が面倒見よう」とは、ならなかった。「ちゃんとやってこい!」と言われて、半年くらいしてからかな、僕が地元でいろいろやって、「まあ、そんじゃあ、よかろうか」となった。
川 社会人になって、すぐに政治家ですね。
小沢 僕は社会人やっていないんだもの。大学院に入って1年で親父が死んで、その年の暮れに選挙に出ることにした。ほかの2世議員は、たいがい秘書とかやっていたけど、僕はいっさい経験していなかった。だから、全くの素人という感じでした。
川 角栄さんの政治手法は。
小沢 当時はまだ自民党の全盛期だから、内外の情勢が非常に安定していた。だからコンセンサス社会で、「足して2で割る」で結論を出すというやり方でした。田中先生、竹下先生、金丸先生と、この「足して2で割る」の達人なんですよ。でも手法は違って、田中先生はバンバン、自分から積極的にボールを投げたり喋ったり動いたりして、人の真意を探って、正確に足して2で割る。竹下先生は、何だか分からないけど、いろんな人の話を聞きながら、足して2で割る。金丸先生はその中間でしたね。田中先生が違うのは、当時の自民党政治のやはり先を見ていた。例えば官僚を使うのが上手だって言われましたよね。官僚の発想と全く違うことをやるわけじゃなくて、行き着く先を早く察して実行するから官僚は抵抗しない。流れを察して、政策を実行していくところは抜群でしたね。
印象に残るのはニクソンと小平
川 田中さんと国家観や外交に関しては話をされましたか。
小沢 当時は、政治家には理念や国家観というのは、あまり要求されなかった。ただ、彼が国会議員になった最大の理由は初出馬時のキャッチフレーズ「若き血の叫び」のとおりでした。1年の半分を雪に閉じ込められた新潟で育った若者でも、安定した豊かな生活ができるようにするのが、政治の役目だと。これが自民党政治の考え方でもあったわけです。
川 外交面ではいかがでしたか。田中さんと、直接やりとりのあった政治家、例えばニクソン米大統領については何か聞かれましたか。
小沢 ニクソンとは交渉はやっていましたが、個人的な話についてはないですね。ニクソンとは僕のほうがむしろ、2時間くらいじっくり話をして、感銘を受けました。ニクソンというのは、大変な男だと思いました。
川 さまざまなニクソンの伝記を読むと、褒めるにせよ腐すにせよ、頭が良く、読書家で歴史好きだったという点ではみんな一致しています。
小沢 彼もたたき上げだからね、世界認識はしっかり持っていました。ちょっと他のアメリカ人とは違う認識です。それからやはり、きちっと筋道の通った議論をします。ウォーターゲート事件のせいで任期半ばで辞めたにもかかわらず、ニクソンは最後まで共和党のボスでした。
川 ニクソンも田中角栄も、外交に関しては中国との国交正常化、ソ連とのデタントと、同じ所を見ていました。
小沢 育ちも似たようなもので、どっちも苦労している。ニクソンは弁護士になったけれど、そういう意味では、人生哲学的なものは共有するかもしれないですね。
川 中国の指導者で印象に残っているのは。
小沢 やはり小平だね。彼は明るいし。周恩来さんは身体が悪かったせいもあるけど、暗かった。共産党の官僚のトップに徹していたけれど、そのとおりの人なんだろうね。
日米交渉に駆り出され外交経験を積む
川 政治家としてのキャリアの話に移りますが、第2次中曽根内閣で、初入閣ですね。
小沢 そうです。でも、もう少しで中曽根さんに切られるところだったんですよ。
川 どういうことでしょうか。
小沢 中曽根さんが総選挙で大勝して、幹事長だった金丸先生が「中曽根さんは総理総裁を当分、やっていていいね」なんて喋ったわけだ。でもやっぱり党則のある民主主義の世界だから、僕は反対した。「『当分いい』はないですよ、金丸先生、それはダメだ」と。それで皆が良いという時は総裁の任期を1年間延長できるようにしたけれど、それ以上はダメと決めた。それで睨まれて、僕は外された。そうしたら金丸さんが、首相官邸に乗り込んで「小沢は総務局長、議運委員長とやってきた、汗をかいてきた奴を外すんだったら、誰も言うこと聞かんぞ、ふざけるな」とやってくれた。それで中曽根さんもまあ、しょうがないと言って。
川 就任されたのは自治大臣ですが、閣僚経験はこれ1回きりですね。
小沢 これ1回。同期生は全部、4回でしたが。
川 自治相は地味ですが要職ですよね。
小沢 要職というほどではないんだ。ただ、やはり、旧内務省だからね。内務官僚というのは優秀だ。僕も国と地方の関係について勉強できたから、これまでよく分かっているようで分かっていなかったのが、分かるようになった。
川 次が官房副長官でしたね。
小沢 竹下内閣の時。竹下さんは、大臣をやった僕を副長官にするいわば降格人事になるのを気にしていて、なかなかはっきり言わなかった。閣僚をやってから副長官なんかになったのは保利茂と藤波孝生ぐらいのものだったからね。
川 当時官房長官だった小渕恵三さんが頼りなかったからでしょうか。
小沢 うーん、それは分かりません(笑)。あの時は日米交渉で、しんどかった。最初が建設交渉、それから牛肉・オレンジ、テレコム、FSX戦闘機でした。建設とテレコムでは、アメリカに行って、10日くらい、もう、ギャンギャンやって、良い経験になりました。
川 外交は自称国際派よりも、内政で実績を重ねてきた人の方が、実際には得意ですよね。妥協を重ね、信義を大切にするタイプの方が多いので。ただ、旧田中派の方たちは、わりとアメリカを怖がっているところがあった。そこで物怖じしない小沢先生にということではないんですかね。
小沢 (笑)。いやー、面白かったですよ。彼らの良いところは、いくら議論して喧嘩しても、終わったら、お互い「よく仕事したね」って言って別れるところ。日本人は恨みつらみの話になっちゃってダメですね。
川 官房副長官には日米交渉のために就いたのですか。
小沢 いや、それは結果としてそうなっただけです。
川 幹事長の時に、第1次湾岸戦争が勃発しました。今、ISIS(イラクとシリアのイスラム国)でイラクが再度、沸騰しているわけですが、当時はどう受け止められましたか。
小沢 あれは、サダム・フセインの一方的な侵略だから、準国連軍の多国籍軍が結成されて攻めていったのは、当たり前。だけど、後がいけません。特に第2次湾岸戦争の時のブッシュ・ジュニアは、どうしようもなかった。バグダッドが陥落したら、大変だよ。アルカイーダがイラクの原油を抑えることになるから、かなりの経済的な影響が出る。だけど、モタモタしているうちに落ちる可能性もあると思う。
(後編に続く)
(文=川家広 写真=葛西 龍)
前編では、小沢一郎氏の政界デビューから自民党政権中枢時代までを紹介した。後半は、最初に自民党を倒して細川連立政権を樹立した時から下野まで、そして民主党政権、日中関係、そして集団的自衛権の問題など、筆者が思いつくままに投げ掛けた問いに、秘話を交えつつ答えてもらった。
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小沢一郎(おざわ・いちろう)
1942年生まれ。岩手県出身。慶応義塾大学卒業後、日本大学大学院を経て1969年、27歳で衆議院初当選。現在15期目。議院運営委員長、自治大臣、官房副長官、自民党幹事長を歴任。新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表、国民の生活が第一代表を経て2013年、生活の党代表に就任。
細川政権はもっと持つと思っていた
川 第1次湾岸戦争を経て、自民党を割って出ることになりました。政治改革と国連軍への平和維持活動への参加が争点だったと記憶しています。あの時、自民党にそのまま留まって、重要な法律を通すという選択肢はなかったのでしょうか。
小沢 直接的にはその2つが大きな争点としてあったんだけど、自民党に留まっていたら、日本の議会制民主主義はいつまでたってもダメだと思った。2大政党制を確立することは政界に入って以来の夢で、誰かがやっぱり、やらなきゃならないというのが根底にありました。自民党にいれば、左団扇で楽だったんだけどね。損得で言えば、損な道を歩いたみたいなものだけれども、僕は後悔していません。
川 もし自民党に留まっておられたら、今でも最高実力者なんですね。竹下派七奉行も、ほかにも現役の方はおられません。
小沢 多分ね。七奉行どころか、同期生もいないよ(笑)。
川 1993年には、政権を倒すことに関しては周到だった印象があるんですが、政権を獲ったその後については考えておられたんでしょうか。
小沢 いや、考える余裕なんかないよ。いつも言うんだけど、明治維新の時だって、維新の連中も徳川幕府を倒した後のことを考えていたわけじゃないでしょう。その点はパワーゲームなんだ。
川 細川さんが日本新党をつくったことをニュースで聞いたらしいですが、細川さんとは親しくはなかったんですね。
小沢 知ってはいたよ、彼も自民党時代は田中派だから。普通の会話はしていたけれど、よくは知らない。何かやるっていう話は聞いていたけれど、具体的には分かりませんでしたね。
川 それから約1年後に細川内閣が発足しました。小沢先生はこの大政変の大功労者だと思うんですが、細川政権はどれくらい持つと思われましたか。
小沢 僕は持つと思った。民主党みたいに、下の雑巾がけをしない人ばかりじゃないから。そんなにひ弱ではなかった。ただ、8党派の連立だから、ガラス細工みたいなところがあった。細川さん、サッと辞めちゃったけれど、あれ、辞めなければ、もっと持ったね。自民党がボロボロになっちゃって、そしてもう一度、新しい自民党が再生してくると。こっちの寄せ集めも、そのうちに、きちっとしたグループにしていく、そういうのを夢見ていた。
川 私は小沢先生のことは、もっとリアリストだと思っていました。ちゃんと夢で動いていらっしゃるんですね。
小沢 (笑)。
羽田内閣崩壊から村山内閣誕生までの舞台裏
川 その後で、羽田さんが出てきますね。羽田内閣は超・短命で気の毒でした。
小沢 羽田にはやめておけって言ったんだよ。もっと落ち着いた時に、僕が支援するから、こんな時に首相なんてやるもんじゃないって。あの時、羽田さんは外務大臣で、海外旅行をしていたんだ。その間に、次に内閣については一切任せろって、僕は強引に一任を取ったわけ。それでミッちゃん(渡辺美智雄)を口説いたのさ。もう時間がないって僕は一所懸命言ったんだけれど、ついにその日の12時まで、決断なし。あの時決断していたら、渡辺内閣でしたね。
川 そうしたら、もう少し持っていたでしょうね。
小沢 うん。もう少し持っていた。ミッちゃんが「よし、俺がやる」って言えば、5人や10人はついて来るからね。決断できなかったのは、残念だった。ミッちゃんについては、2度残念なんだよ。宮沢さんがやる時も、ミッちゃんに決めたんだよ。それが翌朝、ひっくり返っちゃった。
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2大政党制を作るのが夢だった。
損な道を歩いたけど後悔はないよ。
川 羽田内閣は2カ月で崩壊しましたね。その時のことを。
小沢 自民党が不信任案を出して、社会党が同調するみたいな動きがあったでしょう。それで羽田が解散するって言い出して、それで僕は官邸に行って、「よし。お前さんが総理なんだから、解散なら解散しよう」と言って、それで新生党の本部に指示を出したの。「これは解散になるかもしれないから、用意しろ」って。そうしたら、ぶわーって広まっちゃって、石破(茂)君だの岡田(克也)君だのが羽田のところに来て「解散しちゃダメだ、ダメだ」と言って、他の連中も夜中じゅう一所懸命やったから、羽田がフニャってなっちゃった。それで社会党が羽田に「いったん辞めなさい、そうしたらまた首班指名で担ぐ」って言ったんだよ。それで羽田、その気になっちゃった。僕は「馬鹿なことを言うな。総辞職した奴を担ぐなんてこと、あり得ないじゃないか」と言ったんだけど、ダメ。それでしょうがないから海部さんを首班指名でと、西岡さんが言い出したんだよ。
川 変な人でしたね、西岡さん。
小沢 なかなか意地っ張りでね。で、海部さんがぐじゃぐじゃ言って、なかなか決めない。それで失敗しちゃった。造反も出たから、スパっと決めていれば、勝ったの。あれで決めていれば、三木派の何人かがついて来ていたし、勝っていた。
川 あの時の争点って何だったんでしょうか。単に権力、ポストが欲しいだけで離合集散するものでしょうか。
小沢 社会党と自民党は、そうだった。同根だからね、このままだと自分たちの55年体制が完全にダメになると。旧体制、アンシャン・レジームが崩壊すると思ったんでしょうね。そこで社会党の村山富市、野坂浩賢がひっくり返っちゃって自民と連立を組んじゃった。まさかとは思っていたけれど。それを容認する日本人もどうかしています。
首相は鳩山さんしかあり得なかった
川 次に野党の再結集に成功したのは今世紀ですが、なぜご自身で民主党の党首として、そのまま総理を目指さなかったんでしょうか。
小沢 いや、そのつもりだったよ。だけど検察が無茶苦茶やって、マスコミが犯罪者扱いをしてくるから、これじゃ選挙に勝てない。自分の責任で選挙に勝てないといけないと思ったから、代表を辞めたの。指揮はとりましたよ、最後まで。辞めなくても勝ったんだけど、万全を期さないといかんから。
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総理になるつもりだった。検察とマスコミに犯罪者扱いされるまではね。
川 鳩山さんというチョイスについては。
小沢 いや、あの時は鳩山さんしかいなかったもの。菅さんだとか野田さんだとかは思いもつかなかったし。
川 2009年の総選挙で民主党が圧勝した時、議席数をご覧になって「勝ち過ぎた」とおっしゃったという話があるんですが、本当ですか。
小沢 勝ち過ぎっていうことはないんだけど、何でもかんでも当選しちゃったからね。修行をまだ全然していない人が全部、代議士になっちゃった。今の自民党もそういう傾向はあるらしいけれど、上がまだいるから。あの時の民主党は、国会の経験が全然ない人ばっかりがなっちゃったでしょう。
川 鳩山内閣誕生直後の大訪中団は、国会議員を150人連れて行かれましたよね。鳩山総理が東アジア共同体を唱える一方で大訪中団を率いて行ったので、アメリカをないがしろにした中国接近と見られたのでは。
小沢 それはね、アメリカ人の見方が単純なんですよ。今でも僕のことを反米親中だって言っているみたいだね。そんなだからイラクでもアフガンでもひどい目に遭うんです。ベトナムで負けて、まだ分からないのかと(笑)。
川 副主席時代の習近平の訪日時に、天皇陛下への謁見を実現したのも小沢先生の尽力があった。
小沢 そうそう。あんなに日本にとって誇らしいことは、ないんじゃないの。次のトップが何としても天皇陛下にご挨拶させてくれって言うんだから。
川 ということは、習近平も今の日中関係は嫌なんでしょうね。
小沢 良いと思ってないですよ。だけど、中国は国内的に、政治的にも経済的にもしんどいんじゃないかな。民族運動もそうだし、改革開放の矛盾として貧富の格差が出て来てしまった。だから今、弾圧しているでしょう。だから外にも強く、と。
川 集団的自衛権の閣議決定の少し前に、テレビの取材では公明党に対して「これで良いのか」という内容のことを言っておられたと記憶しています。
小沢 ぶら下がり取材で言ったんだ。集団的自衛権が合憲だとやると、公明党、創価学会が今まで言って来たことと全然違っちゃうんじゃないか、だから心配なところじゃないのか、そんなことを言ったような気がする。
川 自民党に対しては、そういうメッセージは送らないんですか。
小沢 自民党なんて、あんなのは放っておけばいいんだよ(笑)。いろいろごちゃごちゃだけど、鵺みたいなものなんで、大人のズルさと賢さを持っているから、大丈夫だよ。
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