ようこそ浄徳寺のブログに 

真宗高田派の寺院です。お寺に興味を持ってみてください。
念仏を喜び、真実の教えのご縁を頂きましょう。 住職

浄徳寺ブログ

2024-06-25 18:45:39 | 日記
浄徳寺本堂内と本尊阿弥陀如来立像です。

 浄徳寺は、鎌倉仏教の親鸞聖人を宗祖としている、真宗、浄土真宗の一宗派である真宗高田派の 末寺です。真宗高田派は、本山を専修寺(せんじゅじ)といい、今から800年程前に、関東下野 国(栃木県二宮町)で親鸞聖人が創建されました。その後、550年程前に、現在の三重県津市一 身田に本山を移し、三重・愛知・福井を中心に全国630ほどの末寺がある宗派です。  この写真は、浄徳寺の本堂内陣です。寺の開基は元禄元年で、本尊は江戸時代に作られた阿弥陀如来立像で、とても優しいお顔をしております。南无阿弥陀佛 合掌

修正会 (年の最初の法要です。)

2021-01-01 15:50:32 | 日記
修正会法要


皆さま、大晦日・元旦と正月を楽しく迎えたこととお伺いいたします。 元旦の朝は、新年明けましておめでとうございますと家族や友人に新年のあいさつをして新年を祝います。 この新年のあいさつの意味も、明治維新という歴史のなかで改暦が行われました。1872年(明治5年)12月3日をもって1873年(明治6年)1月1日とした外国の太陽暦(新暦)を採用して、元旦の意味が少しずつ忘れられながら変わってきたようです。 現在の日本人の元旦観は令和元年から令和2年に移るにすぎません。
現在の私たちの年齢は満年齢で記入しますが、満年齢とは生まれた日から誕生日がくるたびに一つ加える数え方を言います。 現在では、ほとんど使わなくなりましたが明治以前は数え年で歳を数えており、昭和24年に「年齢の数え方」が法律で決まるまで日常的に使われていた数え方なのです。 数え年は、お母さんの胎から生まれて産声をあげたときに一歳と数え、そしてその年を一歳、翌年を二歳というように数える年齢をいいます。 
一年の終り、大晦日の夜は「お歳とりの日」として家族全員でご馳走を食べて過ごし、翌日の正月元旦に誕生日を迎えたのです。 つまり、元旦は家族全員の誕生日、日本国民すべての人の誕生日ということです。だから家族全員が故郷に帰って、新年の挨拶をします。その「おめでとう」は「お芽出とう」の意味です。新しい芽・つまり、年を一つとりました。家族そろってお祝いしたのです。
満年齢はお母さんのお腹にいるときの「いのち」は教えられませんが。数え年年齢は、お母さんのお腹にいる時も命としていて数え、数え年年齢は単に歳が一つ多いいのではなく、お母さんの胎内の命も、人としての「いのち」として大切にしたのだと思います。
最後に、本年もお寺へお参りくださり、阿弥陀さまのはたらきを聞き続けてくださいますことを願っております。阿弥陀さまのはたらきを聞いて「南無阿弥陀仏」とお念仏申す生活と、そうでない生活では大きな違いがあります。ご一緒に真宗の念仏者としての生活を送らせていただきましょう。

報恩講(宗祖親鸞聖人の御正忌法要)

2019-12-19 19:57:01 | 日記
浄徳寺報恩講

真宗高田派三重27組の寺院から出勤をお願いして、浄徳寺の報恩講(開山親鸞聖人の御正忌法要)を毎年12月の第2日曜日に厳修しています。 報恩講の導師は、住職と副住職が交代で執行しており、今年は副住職となり、住職とは一味違った雰囲気を出してくれました。よく読みこなしているのか、住職も感心している次第です。真宗、浄土真宗と呼ばれている親鸞聖人を開山としている各派は、この報恩講法要を一年間で一番重い法要ですので、昨日の婦人会によるおみがき会から始まって一番の頑張りどころです。

報恩講おみがき会

2018-12-08 20:55:12 | 日記
毎年12月第2日曜日に浄徳寺報恩講法要が厳修されるので、前日の午後から婦人会のメンバーで輪燈、菊燈などのおみがきと、内陣、外陣の大掃除です。
最後はお餅をいただき、副住職の楽しいご法話で終了しました。明日は頑張るぞ。

浄徳寺歓喜会法要(盂蘭盆会法要)の厳修

2018-09-25 08:52:21 | 日記

 真宗高田派では、盂蘭盆会を歓喜会と申します。それは亡くなったご先祖様達のご縁をいただき、仏法に会わさせていただくからです。このご縁は尊いものです、日ごろから仏法とのご縁を結びたいと思っている人など、坊さんだけで(あやしいかも)普通はいません。しかし、苦しいこと、悲しいこと、辛いことなど泣きたくなる時、仏法とのご縁を結びたいと思うかもしれません。亡くなった方々からご縁をいただき、寺の本堂に導かれることは、亡くなった方々へ感謝せざるをえません。仏の救いは、いま生きて悩み抜いている人々が対象なのです。
 今年は、高校3年生と中学3年生の孫が、7月の下旬に高田本山専修寺で得度式を受け、正式に真宗高田派の僧侶となりました。浄徳寺の8月の歓喜会が僧侶として最初の出勤となりました。浄徳寺住職として、二人の若い僧侶に御開山親鸞聖人の御教えを正しく伝える仕事が増えたことになります。二人も高田派の僧侶として大きく育ってほしいと考えています。檀信徒はじめ寺族の方々に感謝申し上げます。これからは浄徳寺の法会法要も、にぎやかな出勤となればよいなと思っています。南无阿弥陀佛 合掌

真宗高田派本山専修寺の両御堂が国宝指定となりました。

2017-12-14 10:36:05 | 日記
 真宗高田派本山専修寺の如来堂(にょらいどう)と御影堂(みえいどう)は、平成29年12月に三重県では建造物として初めて国宝指定(その前は重要文化財でした。)されました。多くの方々のご参詣を待っています。

 真宗高田派本山専修寺の如来堂(国宝)で本尊阿弥陀如来立像がご安置です。


 真宗高田派本山専修寺の御影堂(国宝)で開山親鸞聖人像がご安置です。京都以外で日本で一番の巨大建設です。



真宗高田派・高田山専修寺について

親鸞聖人は関東各地を御教化中に、明星天子の夢のお告げを得て、54歳のとき栃木県真岡市高田の地に一宇を建立し、専修念仏の根本道場とせられ(後に専修寺 本寺と称します)ました。
 ご本尊には、長野の善光寺からお迎えした一光三尊佛をご安置し、聖人門弟の中のリーダーであった真仏上人が管理に当たられました。ここを中心とした教団は、関東各地の檀信徒の中で最も有力な教団となり、京都へお帰りになった聖人からは、しばしば自筆のお手紙や、ご自分で書き写された書物などが送られ、関東の門弟及び檀信徒の御教化にもますます取り組まれておりました。
 その後、真仏上人を中心とした関東の門弟、檀信徒の教団を高田教団と呼ぶようになり、そして次第に発展し、専修寺は本寺と呼ばれ全国的に崇敬を集めるよう になりましたが、それを一段と飛躍させたのが第10世真慧上人で、東海、北陸方面に教化を拡げると共に、朝廷の尊崇を得て、専修寺は皇室の御祈願所ともな りました。一身田の専修寺はその真慧上人が伊勢国内の中心寺院として建てられたものでしたが、関東の本寺が兵火によって炎上したため、歴代上人が一身田に 居住されるようになって、ここが本山として定着しました。
 一身田専修寺の伽藍は2度の火災に遭いましたが、りっぱに再建され、住持には皇族をお迎えして、門徒の崇敬はますます高まりました。数多い親鸞聖人のご真筆類は、今も大切に伝持され、教団の誇りとなっています。


● 真宗高田派本山専修寺 のホームページへ  クリック!

真宗高田派本山へ浄徳寺の檀家さんとともに清掃奉仕作業に行って来ました。

2017-10-13 13:24:12 | 日記



 10月12日に真宗高田派本山専修寺に檀家さんとともに清掃奉仕に行って来ました。半日ですが皆一生懸命に作業する姿は有難いものです。奉仕作業の後は、住職の案内でご対面所、御影堂、如来堂の順で見学し、昼食は高田会館でいただきました。久しぶりに本山に行かれた方もおられ楽しい一時を過ごさせていただきました。対応してくれた本山職員に感謝、専修寺に感謝、阿弥陀さんに感謝 合掌
 

浄徳寺で真宗高田派法主殿の御巡教が執行されました。

2015-06-27 20:24:33 | 日記
浄徳寺で真宗高田派法主殿の御巡教が執行されました。


「御巡教について」  真宗高田派では真宗高田派第24世鸞猷法主殿が退任し、新たに真宗高田派第25世慈祥法主殿が誕生したわけですが、新法主殿として親鸞聖人から続く高田派の法脈を受け継ぐ身として、高田派寺院を回り寺族、檀信徒に新法主殿としてみ教えを伝えるのを御巡教といいます。

 平成27年6月27日(土曜日)午後3時から、当山浄徳寺本堂において、近隣組内寺院9箇寺の寺院の住職、寺族、檀信徒が、新法主殿の御調声で勤行した後に、法主殿から参加者に対して新法主としてのお言葉をいただきました。当山で新法主殿をお迎えできたことは、法主殿に感謝するとともに、浄徳寺檀信徒の今までの努力のたまものでもありますので、皆様に深く感謝したいと思います。合掌 南无阿弥陀佛 浄徳寺住職

真宗高田派の歴史と教え

2014-09-06 10:03:53 | 日記
真宗高田派の本寺(栃木県二宮町高田)の如来堂(本尊 一光三尊佛)


真宗高田派の本寺(栃木県二宮町高田)の御影堂(親鸞聖人座像ご安置)


 根本道場下野本寺と一光三尊佛  
 高田教団が下野高田の如来堂を中心として起こったことは皆さん高田門徒の方はご存知ですが、如来堂はやがて高田専修寺として寺院威容をととのえました。
 寛政六年(1465)第十代中興真慧上人が教腺強化のため本山を伊勢の国一身田に移されるに際し、下野の専修寺(せんじゅじ)を本寺(ほんじ)と
呼んで本山と区別することになりました。
 下野の本寺は、聖人の御在世の昔を最もよく伝える聖域として、昭和42年、国の史跡に指定されましたが、古くから真宗の根本道場と言われ、全真宗念仏門徒の故郷であります。こうした聖人直接の御旧跡を護持しているのは高田のみであり、根本教団の威光を輝かせています。 
 この本寺の如来堂に安置する本尊は、聖人の夢に現れて長野の善光寺から貰い受けたと伝える一光三尊佛であります。
 聖人が自ら親しく御恭敬あそばした尊像として現存唯一のものであり、永く秘仏として扉を閉ざされていましたが、第17代円猷上人の時代になって初めて本山に出開帳され、爾来17年目毎に出開帳を仰ぐことになりました。
 そもそも真宗の御本尊は観無量寿経の「住立空中」の仏にたかどったものと言われていますが、そこに見えているのは正しく三尊佛でありまして、弥陀一仏といっても、阿弥陀仏の右手が慈悲(観音)を、左手が智慧(勢至)をあらわしていることから、逆に阿弥陀仏一仏が三尊佛をあらわしているともいえるのであります。聖人みずから御恭敬あそばした御本尊が三尊佛であることは、このように見てきますとむしろ自然なことであります。
 私達は一光三尊佛の中に、聖人の深い願行を仰がずにはいられないのであります。   

「念仏高田」と高田門徒は呼ばれてきました。その言葉に示されているように、信行具足の念仏重視の傾向であります。今日の真宗教団に、称名念仏を信後の報謝行として、信心の蔭に追いやろうとする傾向があります。
 それは高田の宗風にそぐわないところなのです。それは親鸞聖人のお心にそぐわないことと考えます。聖人は「教行証文類」にも行文類の次に信文類を次第せられており、御和讃にも「弥陀の名号となえつつ 信心まことに得る人は 憶念の心つねにして 佛恩報ずる思いあり」とし、まず念仏を称えるということがあって信が展開するのです。高田の宗義は、この行信のお心を正しく相続してきたのです。
 従来、高田の宗義をけなして「半鎮半台」と言われてきました。これは、高田は半分は浄土宗鎮西派で半分は天台宗の自力念仏宗だという意味です。
 しかしながらこれは、念仏重視の宗風を表面的に受け取って非難したものなのでしょうが、むしろ、こういう非難こそが、念仏を置き去りにして、真宗教団の衰弱化を進めます。


以前、真宗高田派本山専修寺で、作家の五木寛之さんと対談する本山執事であったころの浄徳寺住職

2014-09-05 16:27:13 | 日記



住職が本山執事・高田派総務のとき、作家の五木寛之さんの百寺巡礼「滋賀・東海」第4巻の取材で「念仏する心という原点」という題で、五木寛之師と住職が対談したときの写真です。この対談内容は関東圏のフジテレビBSで放映されました。



ライオンズクラブで講演をする住職 内容は、住職が刑務所篤志面接委員をしている関係で、収容者に対する薬物依存の対応と悩み相談などの現場の実情を講演させていただきました。