○担ぎ棒に引き出しだけの小さな屋台
屋台は非常にコンパクトに作られていました。例えば、そばの屋台は、大きな担ぎ棒の両脇に引き出しのついた木箱をつけただけというもの。引き出しの中にはそば玉やどんぶり、箸のほか、つゆを温める七輪や鍋までが収納されており、それだけで店を営業できるようになっていました。
○新鮮な魚が手軽に食べられる「すし」や「天ぷら」
すしや天ぷらは、現代の感覚からすると豪勢に感じられるかもしれませんが、これらも江戸時代では庶民の味。小屋のような屋台で、とれたての江戸前の魚をさっと調理して提供されていました。特に、現代でも人気の高いコハダのすしは、当時の江戸でも小粋な食べ物として好まれており、「坊主だまして還俗させて、コハダのすしでも売らせたい」という俗唄も登場するほど。美男の多い坊主に、粋なコハダのすしを売らせればさぞかし売上げが伸びるだろうという意味で、その人気のほどがうかがえます。
江戸の町民に、ここまでファーストフードが受け入れられたのは、どのような理由があるのでしょうか。
①単身男性のニーズに合わせて発展
ひとつには、当時の江戸には独身男性が多かったという理由が挙げられます。1657年に起こった明暦の大火により、江戸の大部分が焼失してしまい、その復興のために地方から大勢の働き手が流入してきました。また、参勤交代により地方から出てきている武士もおり、単身の独身男性の数は相当なものだったと言われています。現代でもそうですが、1人だと外食したほうが効率的という面もあり、手軽に食べられる屋台のファーストフードがもてはやされました。
②火事を防ぐために自宅で調理をしなかった
大火で有名な江戸の町では、屋内で火を使うのが嫌われたというのも理由のひとつ。よほど大きな家ならばともかく、長屋に住んでいるような庶民は自宅で煮炊きをすることが少ないため、必然的に外食が多くなるという事情がありました。また、明暦の大火以降は、防火対策として広小路や広場が設けられ、道端にスペースができるようになりました。そのため、店が出しやすく屋台文化が発展していったのです。
③手早く食べたいという江戸っ子の気質
3つ目の理由として挙げられるのは、江戸っ子の気質。ご存じのとおり、江戸っ子はせっかちです。待たされるのを嫌い、手軽にさっと食べられる食事が好まれたという理由もありました。
このように、当時の社会情勢や町民の好みなど、さまざまな理由がミックスされ、発展していったのが江戸のファーストフード文化なのです。