ロシアのウクライナ侵略戦争の被害が心配されているポーランド、知られていませんが、ポーランドは知られざる親日国です。
普通なら学校で教わっているべき歴史ですが、偏向教育の日本ではすべての教科書に記述がありません。
わたしも全く知りませんでした。
ですから今日はそのお話をご紹介したいと思います。それは次のような歴史があるからでした。
ポーランドは長い伝統をもつ国でありながら、三つの国に分割されて、歴史からその名が消えたことがあります。
1795年です。ポーランド周辺の三つの超大国、ロシア、オーストリア、プロシア(後のドイツ)に三分割されて、地上から消えたのです。
ポーランドには愛国者が多く、何度も独立運動をするのですが、そのたびにロシア政府などに摘発、逮捕されて、遠くの収容所に送られました。
ロシアは独立運動にかかわったポーランド人を政治犯等として次々とシベリアに送り込み、最も多かったときで10-20万人にも達したそうです。
1918年11月、第一次世界大戦が終わり、ドイツが戦争に負けました。
ロシアも一次大戦の参戦国でしたが、1917年の11月にロシア革命が起きて戦争が継続できなくなっていました。
オーストリアは当時、力を弱めていましたから、ポーランドにとって、まさにチャンス到来です。
ポーランドは100年以上を経て、ようやく独立宣言をしました。
最も喜んだのは、シベリアに拘留されていたポーランド人達でした。
ところが祖国に帰る手段はシベリア鉄道しかありません。
革命後に新しくなったソ連は、革命軍と反革命軍が内戦となり、混乱を極めていました。
革命政府はポーランドの人々が、シベリア鉄道を利用して帰国することを拒否しました。
ポーランド人は世界に訴えましたが、新しいソ連との関係もあって、どの国も、助けませんでした。
重労働や飢餓で、シベリアのポーランド人達の困窮は深まり孤児も増えてきました。
そこで、せめて子供達だけでも何とか助けようと、ポーランドの若者が「ポーランド児童救済委員会」を作り、彼らをシベリアから、ウラジオストックに助け出したのです。
ところが医療施設も不十分で、そこでも子供達に十分な手立てが取れません。
この救済委員会のリーダーは、アンナ・ウイルケビッチという女性でした。
困り果てた彼女は、上海の中国赤十字社を頼りましたが、断られてウラジオストックに戻ってきました。
その時に彼女は、自分の祖母や両親から伝え聞いた日本の話を思い出したのです。
何とか、彼女は船を頼み込んで福井県の敦賀に着き、東京に行って日本の外務省に嘆願しました。
今でも、そのときの彼女の嘆願書が残っています。
その一部をご紹介します。
「われわれは祖国から離れ離れになり、いまだ何の助けも得られません。このまま冬が来ると、子供達の命が奪われることは明らかです。子供を花のように愛する日本が、彼らの命を戦争の不幸から救ってくださるよう、私は切に願っています」
シベリアに拘留された人たちよりも、もっと遠くに流された人達は、樺太の収容所にまで送られました。
そこで彼らは、アイヌの人達との交流を深め、これを契機に日本という国を知ります。
それらの交流を深めて、日本は子供を大切にする国だという認識が、ポーランド人の間に広がっていったのだと思うのです
ポーランド人の子供達を救った日本の決断。
さて、そのポーランドの女性から嘆願を受け取った日本ですが、独立宣言をしたばかりのポーランドとの国交は未だありません。
ですから、断るのが普通でしょう。
仮に受け入れるとしても、決定するまでには長期間を要するはずです。
ところが当時、日本はたった16日でこれを受け入れると閣議決定をしました。
この時は原敬が首相でした。
又それに先立つ7月には日本は列国と足並みを揃えて、ロシア共産革命を牽制する為、シベリアに出兵しています。
原首相は暗殺され、1921年11月には経済通であり、「ダルマさん」の愛称で親しまれていた高橋是清が首相となりました。
まず、日本赤十字社が現地に向かうことになりました。
現地には、革命軍であるソ連赤軍がいますから、大変に危険な状態だったのですが、たまたま日本軍がシベリア出兵のために待機中だったので、そこにもお願いをしたのです。
そこで、日本の兵士達が「私達がやりましょう」と、どんどんシベリアの原野に入っては、小さな子供達を一人二人と抱えてウラジオストックに戻ってきました。
このようなことを二年間続けました。
そして1920年(大正9年)の7月23日極東のウラジオストックから陸軍の輸送船筑前丸で最初のポーランド孤児が敦賀に上陸しました。
その後1921年にかけて5つの孤児グループが敦賀に上陸し、2歳から16歳までの合計375人の子供達が日本に脱出できました。
これが第1陣です。子供達は栄養失調で痩せ細り、青白い顔をして多くは感冒、腸チフス、百日咳にかかっていました。靴を履いている子は殆どいませんでした。
この子供達は現在の東京都渋谷区広尾4丁目にあった「福田会育児所」に収容されました。現在の日赤本社病院に隣接する場所です。運動場や庭園もありましたので、子供達を収容するには適した所でした。
アムール川流域、後バイカル地域、沿海州地域には未だ孤児達がたくさん残っている、ということで1922年(大正11年)の8月7日から29日にかけて3回にわたって第2陣が到着します。
今度は1歳から15歳までの合計388名の孤児達と付添いの大人達39名でした。
今回は現在の大阪氏阿倍野区旭町の「大阪公民病院(現在の大阪市大医学部付属病院)付属看護婦宿舎」に収容されました。
新築の二階建てで未使用でした。庭園もありました。
受け入れの主体は日本赤十字社でした。
日本は勿論食事と衣服を与えました。
病気の子供達には治療を施しました。
お菓子やおもちゃ等も与えました。
1つ悲劇が起こりました。治療に当っていた看護婦の松澤フミさんは子供達の腸チフスに感染し、23歳で殉職しました。
松澤さんを慕っていたポーランドのある子供はいつまでも泣き続けていたそうです。
ポーランド政府からは1921年、松澤さんの名前宛に赤十字賞が贈られました。又1929年(昭和4年)には名誉賞が贈られました。
日本は763人の子供達を助けました。が、一人も死なせませんでした。
そして、元気になった子供達をポーランドへ順次、送り返していったのです。
第1陣の子供達は横浜から6回にわたり(12,000トンの諏訪丸で150人、9,800トンの香取丸で114人、伏見丸で106人、合計370人)をアメリカ経由で送り返しました。
第2陣の子供達は神戸から2回にわたり香取丸で191人、熱田丸で199人、合計390人を香港、シンガポール、コロンボ、マルセイユ、ロンドン経由で送り返しました。
横浜港から最初の船が出港しようとするとき、子供達は乗ろうとしなかったそうです。
看護婦さんやお医者さん、世話になった近所のおじさんやおばさんにまとわりついて、離れなかったといいます。
きっと、自分の父母のようにまとわりついていたのですね。
先に述べた、救済委員会の副リーダーは男性で、医学の心得があったそうです。
日本の対応に感謝しましたが、お礼に返すものが何も無く、代わりに大量の感謝の手紙がポーランドから届いたそうです。
その一通をご紹介します。
「日本は、わがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
にもかかわらず、わが不運なるポーランドの児童に、かくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じて、その恩を忘れることは無い。
ポーランド国民もまた、高尚な国民であるが故に、われわれは、いつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。
ここにポーランド国民は日本に対し、もっとも深い尊敬、もっとも深い感恩、もっとも温かき友情、愛情を持っていることを、お伝えしたい。」
この中に「ポーランド国民もまた、高尚な国民であるが故に、われわれは、いつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。」と書いてあります。
それから80年近い歳月を経て、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きました。
すぐにポーランドは復興支援に協力しています。
そして、その年の夏に、最も痛手を受けた被災地の子供達を、ポーランドに招いたのです。
大正時代に、日本で助けられたポーランドの子供達、約10人ほどが、おじいちゃん、おばあちゃんになって、今もご健在です。
その方達が、日本の被災孤児たちを招かれたとき、お別れのパーティの際に、ポーランド各地から訪ねてきたそうです。
なかには、車椅子で来た方達もいました。
そのとき、子供達にバラの花を一輪ずつ渡して、通訳を通して、何故、自分たちが生きているのか、偉大な日本人の功績を語って、子供達を激励したと言います。
平成14年(2002年)7月、天皇皇后両陛下が、東ヨーロッパ諸国を歴訪されたとき、ポーランドも訪問されました。
このとき、このおじいちゃん、おばあちゃんの三人が、どうしてもお会いしたいということで、両陛下との対面が実現しました。
このお年寄りも、大正の日本人に助けられた、当時の孤児の方達です。
86歳のアントニナ・リーロさんは、美智子皇后の手をずっと握って離そうとされませんでした。
実は、この方が、日本で助けられた時、病院に大正天皇の后、貞明皇后がお見舞いに来られ、小さかった彼女を抱いて励ましてくださったのを、かすかに覚えているらしいのです。
そのときの貞明皇后の手の感触、胸のぬくもりを今も忘れられないらしいのです。
ですから、美智子皇后にお会いしたとき、美智子皇后を通じて、貞明皇后の面影を重ね合わせたのでしょう。
その感動と感謝の念に、自分はようやく80余年の年月を超えて、日本の皇室に感謝の言葉を伝え得る喜びに打ち震えながら、美智子皇后の手をずっと握りしめていたのです。
この嘗ての孤児3人は日本滞在中に教わった「もしもし亀よ、亀さんよ」を日本語で歌いました。
両陛下と彼等との面会の場面は天皇、皇后の欧州歴訪の一環としてTVで放映されたので、ご覧になった方もいるでしょう。
以上です。
長くなりましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございます。
今まで知らなかった日本とポーランドの感動の歴史を知り、是非、訪れてみたくなりました、戦争が終わったらですが。
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