今の最新の飛行機に慣れてしまうと、こんな時代もあったのかと自分でも感心します。
これからお話するのはJALの場合ですが
私が国際線チェックアウト(訓練が終了しフライトすること)した当時
最先端の飛行機、
それはB747でした。
通称ジャンボジェット
皆さんもご存じのとおり1階と2階があります。
それをつなぐ階段は螺旋階段でした。
当時は他の航空会社も含めてビジネスクラスは無く、ファーストクラスとエコノミークラスのみでした。
わたしが乗務した当初は2階はファーストクラス専用のラウンジでした。
1階席のファーストクラスのお客様がくつろげるスペースでした。
その後
「スカイスリーパー」と銘打った完全なベッドにもなるファーストクラス座席
1階のファーストクラスのお客様がプラス料金を払って離着陸以外
ベルト着用サインが消灯してからスチュワーデスが2階に案内します。
高いファーストクラス料金に追加料金を払って2階を使う方はあまりいなかったので
いつもガラガラ
航空座席にビジネスクラスが登場したのは、1980年に航空運賃の3クラス制が導入されたあとの1983年です。
エコノミークラスといっても今のようなツアー旅客は少なく、ほとんどの方がビジネスマンでした。
エコノミークラスはお酒も、映画を見るためのイヤホーンも有料。
はっきり覚えていないのですが、ビールと日本酒が1ドルで、ワインや水割りなどのカクテル類が1ドル50セント
イヤホーンが2ドル50セントだったような???
当時の1ドルは300円近かったような?????
遠い記憶ですが・・・
映画を上映する前にはすべての窓を下してもらうようにアナウンスを入れ、
客室のコンパートメントごとに順番に前からMOVIEスィッチを押し続け
映像が始まった合図のOKサインをもらったら、
次のコンパートメントの人が同じようにMOVIEスィッチを押します。
OKOKOKOKOK
B747ジャンボジェットにはコンパートメントがA・B・C・D・Eとあり
それぞれのコンパートメントにMOVIEスィッチがありました。
同時には、映画を開始するMOVIEスィッチを押せないシステムだったため、
コンパートメント毎に映像が少しづつ遅れていきます。
今思うと、なんとなくゆったりとしていて、いい時代だったなぁ~
あの頃のお客様の印象は優雅で紳士淑女の方達が多く、
企業戦士といった方も少なく、時間がゆっくりと流れていくような雰囲気を感じます。
当時お酒が有料だったこともあり
飲み物の管理、冷え具合とかも入念にチェックし、
カクテル類なんかを作るのも
慎重にていねいに
ひとつひとつ美味しく飲んでいただけるように努力していました。
後方のD・Eコンパートメントは220席くらいでした(はっきり覚えていませんが)
それに加えて、満席になることはとても珍しいことでした。
なのでエコノミークラスの座席でも隣が空席になることが多いためゆったりとくつろいで頂いたと思います。
いわゆる団体旅行や航空券とホテルがセットというようなパッケージ商品もあまりポピュラーではなかったと記憶しています。
そこを9名で担当していました。(これはハッキリと覚えています。)
それが7名から6名に減り。
そして最後は5名に減らされて
5人でで担当しますから
当然以前のような余裕はないわけです。
それから何年か後に、ビジネスクラスができました
当時はエコノミークラスと席は同じ
お酒と映画を見るためのイヤホーンが無料。
食事もエコノミークラスの機内食と同じもの
ただ
ビジネスはオードブルなどのお皿が一品多くトレーに追加されちょっと豪華でした。
もちろんお食事のチョイス(、ビーフ・フィッシュ・チキンなどを選ぶ)というのはまだなく一種類のみ。
全路線のエコノミークラスの機内食のメインはビーフステーキでした。
(結構立派なヒレステーキの回りにベーコンを巻いたもの)
ビジネスクラスとエコノミークラスの席の区別の仕方は
ボーディングが始まる前に、
地上係員に座席の何列から何列までがビジネスクラスなのかを確認し
プラカードで表示するだけでした。
エコノミーには普通エコノミー運賃を払って利用する旅客と、団体運賃のパッケージ旅客が同じ座席に座り、同じサービスを受けていたのです。
当然のことながら普通運賃を払う旅客から同じサービスに対する不満があがるようになり
これに応える形で中間の新クラス
いわゆるビジネスクラスが設けられることとなったのです。
ジャンボジェット導入の時にこの制服になりました。
ちなみにわたしはこの制服
制服が新しく変わったため実際に着てフライトすることはなかったのですが
訓練所で着用し記念写真を取りました
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2013.10に胃がん全摘の手術をしました。
国際線のお話をされていたので!
私たち夫婦はこんな体験をしました。
1992年「イタリア紀行とモナコの休日13日間」全日空ハローツアーでの出来事です。
成田発-NH-パリ-AZ-ローマ着 でした。ローマについて家内のスーツケースが出てきませんでした。いろいろ調べてくれたらパリの空港で荷物をロスしたそうでした。結局旅行中に出てきませんでした。
ところがラッキーなことが起きました。ローマでは申し訳ありませんでしたのでパリからの帰りのAZ便はCクラスにいたしました。でした、最初で最後のCクラスです。こんなことってあるんですね。
よかったですね~
荷物の件は大変でしたね。
当時はヨーロッパ乗り継ぎは預けた荷物が届かなかったということはよく聞きました。
いまはそのようなことは珍しくなりましたが。
ハプニングのおかげでビジネスクラス
不幸中の幸いですね。
今日は私の父親の事を少し、お話させて下さい。
私の父親は石油関係の仕事をしていたので、サウジアラビアなどの中東や東南アジア方面に出張が多く飛行機には良く乗っていました。そんな父親が大好きだったのはもちろんJALで、私が小さいときに覚えているのはグローバルクラブのタグ?をアタッシュケースに着けている嬉しそうな父親の顔です。「やはりJALが一番だ」と言っていたのも覚えています。ファーストクラスにアップグレードされた時も嬉しそうに話していました。もう40年以上前から飛行機に乗っていたので、きっとノンさんにお会いしていたのではと思っています。そんな父親は20年前にお風呂で倒れ帰らぬ人になりました。今でも生きていればJALの話やいろいろな国に行った話が聞けたのになぁ~と、そして一緒に海外旅行に行きたかったなぁと最近つくづく思います。
長い思い出話を聞いて頂きましてありがとうございました。
JALグローバルクラブのタグはよく覚えています。
なつかしいなぁ~
当時はビジネスクラスがなくエコノミーとファーストクラスだけだったのでJGCの方は3~5回に1度は空席があればアップグレードされていたと思います。
パクチーラブさんが思っていらっしゃるよりわたしは若いんですが(笑)たぶんお会いしているかもしれません。
何事もゆったりと優雅な時代でした。
客室乗務員としてお客様に育てられたという思いがあります。
素敵な方が多く、国際線はJALのみでしたからJALを愛し大切に思っていただいたようです。
わたしもそうですが亡くなってみると後から後からこうしておけば、ああしておけばよかったという思いがわいてくるものですね~
きっとお父様はパクチーラブさんを通して今の世を見てらっしゃると思いますから時間ができたら素敵な旅をなさってください。