タイ語板  5枚目~!!  

ドラマ板 NHK大河ドラマ~ 篤姫  (4/4)

ドラマ板 NHK大河ドラマ~ 篤姫
ー ※M4以降 です。

M4;【タウンゼント・ハリスTownsend Harris 1804年10月3日 - 1878年2月25日】 とは

 タウンゼント・ハリスは、アメリカ合衆国の外交官、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使、民主党員、聖公会信徒。「タウンゼンド・ハリス」とも表記される。
江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。

タウンゼント・ハリスTownsend Harris
初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使
任期 1859年11月5日 – 1862年4月26日
大統領 ジェームズ・ブキャナン
    エイブラハム・リンカーン
後任者 ロバート・プルイン
個人情報
生誕 1804年10月3日 アメリカ合衆国・ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒル
死没 1878年2月25日(73歳没)アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国
職業 外交官
宗教 聖公会

 生涯
 苦学の末に貿易業を開始
1804年10月3日、ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒル(後のハドソン・フォールズに父ジョナサン・ハリスの★六男として生まれる。       家系はウェールズ系。

家が貧しかったため、小学校・中学校を卒業後はすぐ父や兄の★陶磁器輸入業を助け、図書館などを利用して独学でフランス語、イタリア語、スペイン語を習得し、文学を学ぶ。  その苦学時代の体験が、★長じて教育活動に目を向けることとなり1846年にはニューヨーク市の教育局長となり、1847年に高等教育機関「フリーアカデミー」(現・ニューヨーク市立大学シティ・カレッジ)を創設。自らフランス語、イタリア語、スペイン語を教えるなど、貧困家庭の子女の教育向上に尽くした。
 そのほか、医療や消防などの公共事業に携わる。1848年に辞職。

家業の経営が悪化したため、ハリスは1849年には★サンフランシスコで貨物船の権利を購入し、貿易業を開始する。 清、ニュージーランド、インド、マニラなど太平洋を中心に各地を航行して、★以前から興味を抱いていた東洋に腰を落ち着ける。 1853年には日本への第1次遠征を行っていたマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が清に滞在しており、★上海にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。

 アジアでの活動を経て初代駐日領事に
ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に運動し、1854年3月、台湾に関するレポート「台湾事情申言書」を提出。4月には寧波の領事に任命される。
アメリカへ帰国したハリスは、同年に日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命される。

ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。 また、★シャムとの通商条約締結も命じられた。     当時、イギリスの駐日公職者は母国政府から派遣された★エリート出身者がほとんどだったが、アメリカはハリスのような★在住の商人らに兼任させることが多かった。

ハリスは通訳兼書記官としてオランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856年に出発。 ヨーロッパからインド経由で4月にはシャムへ到着、バンコクにおいて通商条約の締結に尽力する。さらに香港経由で8月21日(安政3年7月21日)に日本へ到着し、伊豆の下田へ入港する。

 日米修好通商条約 締結、初代駐日公使へ
  ※※日米修好通商条約(外務省外交史料館蔵)
日本では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行・「井上清直」に入港を拒否されるなどのトラブルもあったが、折衝の末に正式許可を受け、「下田玉泉寺」に領事館を構える。                          ハリスは大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、江戸出府は留保された。

下田においては薪水給与や回比率などの問題を巡り和親条約改訂のための交渉が行われ、1857年6月17日(安政4年5月26日)には「下田協定」が調印される。 この頃からハリスは体調を崩し幕府に看護婦を要請した。幕府はハリスの籠絡を目的として芸者の「斎藤きち」を送り3ヶ月だけ看病に入っている(→唐人お吉)。

 ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可する。
ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田を出発し、下田の人々によって作られた手作りの星条旗を掲げ、公式の使節として200マイルの道程を江戸に向かった。

移動に際して東海道は幕府によって★一般の通行が規制されたが、ハリスが江戸に着く頃には★多くの群集が米国総領事の到着を一目見ようと集まった。 江戸では蕃書調所に滞在して登城の日取りが決められ、12月7日(旧暦10月21日)に登城し、13代将軍★徳川家定に謁見して親書を読み上げている。   将軍を前に、穏やかで落ち着いたハリスの態度は同席した日本人に感銘を与えた。

1858年(安政5年)には大老となった井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結された。
ハリスは軍事力を使うことなく、自らの決断力と幕府の役人達の協力を得て、条約署名という使命を果たすことに成功したのだった。

これによりハリスはブキャナン大統領より任命され初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して、1859年7月7日(安政6年6月8日)に江戸の★元麻布善福寺に公使館を置く。  ハリスは、日米修好通商条約に本国人の宗教の自由を認め、★居留地内に教会を建てて良いとする第8条を加えたが、これによって宣教師の来日が可能となった。

 長崎訪問、長崎米国領事選任と学校開設・ミッション支援
1859年4月下旬にハリスは長崎を訪問しており、5月初めに、既に長崎で活動を開始していたアメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家「ジョン・G・ウォルシュ」を長崎の米国領事に選任した。

ウォルシュは最初の長崎米国領事館を広馬場の日本人居住区に設立した。   ハリスは米国聖公会の熱心な信徒であるとともに、ニューヨーク市立大学シティ・カレッジを創設した教育者でもあり、日本で米国聖公会が学校を開設することの勧告と支援を行ってきた。 

このハリスの長崎訪問と同時に、プロテスタント日本初となる米国聖公会宣教師の「ジョン・リギンズ」が同年5月2日に長崎に来日し、ハリスの支援のもとで、長崎奉行の要請から聖公会の長崎私塾(★立教大学の源流)を開設し、同年6月25日に来日したチャニング・ウィリアムズとともに、英学教育を開始した。  こうして、ハリスは長崎でもアメリカの活動拠点の構築、整備、ミッション支援を進め、日本とアメリカとの外交基盤を整えていった。

日本宣教の将来の成功は派遣される初代宣教師の性行、態度、人格によるものである。(中略)学校を興し、英語を教え、貧民に施療することなどが有益である。従って日米通商条約は貿易の開始ばかりでなく、キリスト教の開教第一歩である。
— タウンゼント・ハリス/上海駐在の米国聖公会宣教師エドワード・サイル宛ての手紙

 開市の延期活動
  ※タウンゼント
  ※ハリス顕彰碑(善福寺境内)
1860年8月1日、アメリカ国務長官ルイス・カスに対して書簡で、通商条約により再来年に控えた江戸の開市(1862年1月1日の予定)の延期を進言した。実は下田に着任した当時、ハリスへの★襲撃未遂事件があり、以降も攘夷による在留外国人に対する襲撃や焼き討ちが相次ぎ、また孝明天皇からの条約勅許はいまだ幕府から出ておらず、現在の幕政下での開市は時期尚早と判断していた。

10月31日(万延元年9月18日)、ハリスは老中「安藤信正」と会談し、急すぎる開市の延期を希望していた幕府との思惑とも一致し、また翌1861年1月14日(万延元年12月4日)には★ヒュースケンが殺害される事件がおき、ハリスは確信に至ったと思われる。 5月2日(文久元年3月23日)、将軍家茂名での「七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書」が各国公使に出されると、ハリスはヒュースケン後任の「アントン・ポートマン」に翻訳させて5月8日(文久元年3月29日)付けでアメリカ本国へ★急激なインフレが進行している旨と併せて報告した。

8月1日(文久元年6月25日)付けでエイブラハム・リンカーン大統領、ウィリアム・スワード国務長官から家茂宛の書簡がハリスに届くが、内容はヒュースケン殺害の補償までは開市延期を含む一切の譲歩はしないというものだった。ハリスは幕府の正信や久世広周と交渉して補償の合意を取り付けた後、11月27日にオールコックに5年間の開市延期の自由裁量を得たことを通知、12月6日、家茂に面会してリンカーンの親書を直接手渡し、12月14日(文久元年11月13日)に幕府から補償が実行された。

12月28日、正信にはイギリス以外の各国の自国民にも併せて開市の延期を通達したと書簡で報告された。これは予定されていた開市のわずか3日前だった。この後、文久遣欧使節とイギリスとの間でロンドン覚書(1861年6月6日)、パリ覚書(同年10月2日)など、各国とも開市延期に同意している。

 帰国
1862年(文久2年)には病気を理由に辞任の意向を示した。 幕府はハリスに大変感銘を受けたとして彼の留任を望み、米国政府に任期延長を求める書簡も送ったが、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国。辞任の理由に関しては、ハリスの日記にかねてからの体調不良があることや、また自分とは党派が異なる共和党のリンカーンが大統領で、南北戦争の故郷の心配があったことなども指摘されている。★後任は「ロバート・プルイン」で、5月17日には着任して家茂に謁見している。

帰国後は業績を表彰され、1867年には議会はハリスに対する生活補助金の支給を可決している。 特に公職には就かず、★動物愛護団体の会員などになった。 1876年には保養地のフロリダ州に移住し、1878年2月25日に74歳で死去。★生涯独身であったため、姪が法定相続人となった。

ハリスが日本滞在中に書き残した書状や所有物等は、ニューヨーク市立大学の図書館に保存されており、その中にはハリスの日記や、公式文書、下田の総領事館に立てた米国旗もある。 現在も★ニューヨーク市立大学と下田市の交流は続いており、過去15年間、下田市の代表団が毎年同大学を訪問している。

墓所はニューヨーク市ブルックリン区のグリーンウッド墓地。ハリスの墓には、日本の石の灯篭が建てられ、桜の木も植わっており、墓石には彼の功績と日米通商条約締結の成功を称え、「アメリカ国民だけでなく日本国民にも満足を与えた」と記されている。

 没後の顕彰
1925年に下田の玉泉寺を訪れたアメリカの実業家ヘンリー・ウォルフはタウンゼント・ハリスの記念碑建立を思い立ち、★渋沢栄一に協力を依頼した。  渋沢はこの申し出を受けて記念碑の設計や資金集めに尽力し、1927年9月に記念碑が玉泉寺境内に建てられた。

 人物
  ※※ハリスの足湯(静岡県下田市)
アメリカ合衆国では、1847年設立のニューヨーク市「フリーアカデミー」(現在のニューヨーク市立大学シティカレッジ)の創設者として知られる。   現在もニューヨーク市立大学シティカレッジ図書館には、ハリスが日本駐在時に作らせたとされる最初の日本製星条旗を始め、書き残した書状や所有物などが展示、保存されている。

駐日領事時代に、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせるため、ハリスとヒュースケンに対して侍女の手配を行う。 役人はハリスを篭絡しようと芸者のお吉という名の女性を派遣した。 役人の意図を見抜いたハリスは★大変怒り、お吉をすぐに解雇している。 ハリスが生涯独身であったことなどから後世に誤った風説が加わり、昭和初期には「唐人お吉」としての伝説が流布し、小説や映画の題材にもなった。

大の★牛乳好きである。 ハリスが体調を崩した際、牛乳を欲しがったがなかなか手に入らず、侍女として雇われていたお吉が八方に手を尽くし、ようやく下田在の農家から手に入れ、竹筒に入れて運んで飲ませたという記録が残っている。 この記録によると、その価格は8合8分で1両3分88文と非常に高価で、当時の米俵3俵分に相当したという。 ★牛乳を公式に売買して飲用した記録は、日本ではこれが初めてだという。これを記念して、玉泉寺には「牛乳の碑」が建てられている。

ヒュースケン殺傷事件など日本の攘夷派の外国人襲撃行動に対し、イギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し共同して厳重な抗議行動をとったが、ハリスはこれに反対し、★抗議行動には加わらなかった。
下田では暇さえあれば★周辺を散策していた。(「ハリス・ロード」として現存👇 ;追記させて頂きました) 健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていたが、いざ交渉の場になると精力的になり下田奉行らを悩ませた。 また、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあった。

1856年(安政3年)に下田御用所において日本貨幣とアメリカ貨幣との交換比率について幕府側と交渉を行った際、ハリスは金貨も銀貨も「同質同量の原則」すなわち、1ドル銀貨は同じ質量に相当する一分銀3枚と交換すべきと主張し、一方幕府側は1ドル銀貨の地金価値は★双替方式により銀16匁に相当するから一分銀1枚であると主張し対立した。

最終的に★ハリスの主張が通され、日本で1ドル銀貨を一分銀3枚に両替しそれを金小判に両替した後に持ち出し海外で売りさばくと暴利が得られることとなり、短期間のうちに多額に上る小判が日本国外へ流失した。             その過程で★ハリス自身も小判を買い漁り、それを上海などで売却して利鞘を稼ぎ、私腹を肥した。
然る後に幕府に対策を助言し、★万延小判への改鋳によって混乱は終息するも、この過程でおびただしい金が日本から流出した(幕末の通貨問題参照)。

ハリスと同じ時期に日本で暮らした商人の「フランシス・ホール」は、その日記のなかで、いかにハリスが居留地の★アメリカ人の間で嫌われていたかについて書き、下品な噂話まで記した。
★アヘンについてアメリカ側から禁止にするように提案した。これはイギリスのアヘン貿易を牽制したためである。

 ペリー宛の手紙
ハリスは日米和親条約を締結して、日本との外交を切り拓いたマシュー・ペリーに対して複数回に渡って書簡を送っており、ペリーの偉業に対しての★尊敬の想いと自身が日本で経験する内容とともに日米和親条約に続く日米修好通商条約の交渉経緯を伝えた。

ハリスは江戸の蕃書調所で日本側全権の下田奉行・井上信濃守と目付・「岩瀬肥後守」と日米修好通商条約と貿易章程の交渉を終えて、幕府の用意した蒸気軍艦・「観光丸」で下田へ戻る途中に、条約文の合意までに到る経緯について想いが詰まった内容を長文でペリー宛ての書簡に綴った。

しかし、この書簡についてはハリスが手紙を書いた3日前の1858年(安政5年)3月5日に、ペリーはニューヨークの自宅で亡くなって読まれることはなかったが手紙は1858年12月12日付けのニューヨーク・ヘラルド紙の第8面に掲載され、ペリーに続き日米外交を先導したハリスの想いが手記によって米国民に伝えられた。

ハリスにはペリーから、ペリーの日本遠征の記録を「フランシス・M・ホークス牧師」が纏めた著作である『日本遠征記』が贈られており、1857年(安政4年)10月27日に下田からペリー宛てにハリスが日本に来たいきさつと、この贈られた『日本遠征記』を読み、自分の日本観との比較や今後の日本側との交渉の行く末などにも言及した書簡を送っている。

ペリーは自身の遠征に同行したジョージ・ジョーンズ牧師へ自身のサインが入った『日本遠征記』の初版本を送っているが、この書が★金沢大学附属図書館に所蔵されている。

 日本人への評価
私は、蒸気機関の利用によって世界の情勢が一変したことを語った。 日本は鎖国政策を放棄せねばならなくなるだろう。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえすれば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう。
— タウンゼント・ハリス 1856年 日本滞在記より

 他にもハリスは「★喜望峰以東の最も優れた民族」と好意的で、下田の町も「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」とそれぞれ日記に称賛気味に書いている。 しかし、風呂の混浴の習慣は謹厳なハリスにとって耐えきれないもので「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ。」と述べている。

 日米国際貿易開始の意義と勧告
ハリスは、1857年(安政4年)10月26日に幕府の老中堀田正睦との会見の席で、日米国際貿易開始の意義を語った。                      一つ目に、この50年来、西洋世界が大きく進化した原動力に、★蒸気船と電信機の発明がある点と、二つ目に、これらの発明により、世界を結ぶ距離が時間的に短くなった結果、交易が盛んとなり西洋各国が豊かになったことを説明し、日本がアメリカをはじめ各国と通商関係を結ぶことを薦めた。

さらに、ハリスは、江戸とワシントン間が★海底ケーブルで結ばれれば、ほんの一時間ほどで応答可能になるとも説明した。 既に、★1830年代に、大西洋に欧州とアメリカ間のケーブル敷設が試みられており、その後、1865年には上海にまで到達し、遣欧使節団もその恩恵に預かることとなった。

江戸幕府も1867、68年(慶応3、4年)には江戸・横浜間を電信機で繋ぐことを検討したが、明治維新により断念した。 次いで、★1871年(明治4年)に、上海と長崎間に海底ケーブルが敷設され、ついに日本はグローバルな通信網に加わることとなったが、ハリスは既に日本の将来を見据えて、通商交渉を行い、日本にアドバイスを行った。 (出展;/Wiki) 


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M5;【マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry、 1794年4月10日 - 1858年3月4日) 】 とは 

 アメリカ合衆国の海軍軍人。 最終階級は海軍代将(Commodore、当時の日本語呼称で提督)。聖公会信徒。兄はオリバー・ハザード・ペリー。

江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開港[※ 1]への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理 / 伯理)」と表記されていた。
  ※※「黒船来航」を参照

マシュー・カルブレイス・ペリーMatthew Calbraith Perry
渾名 蒸気船海軍の父
生誕 1794年4月10日アメリカ合衆国・ロードアイランド州ニューポート
死没 1858年3月4日(63歳没)アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク
所属組織 アメリカ合衆国 アメリカ海軍
軍歴 1809年 - 1855年
最終階級 海軍代将
墓所 アイランド墓地(ロードアイランド州)

  ※※日本の版画に描かれたペリー 嘉永7年(1854年)ごろ
  ※※1855-56年ごろのダゲレオタイプの写真

  生涯
日本来航まで
ロードアイランド州ニューポートで、アメリカ海軍大尉のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に三男として生まれる。                1809年、わずか★14歳9か月で士官候補生の辞令を受け、アメリカ海軍に入隊、1812年からの米英戦争に2人の兄とともに参加する。                   1833年にブルックリン海軍工廠の造船所長となり、                      1837年にアメリカ海軍で2隻目の蒸気フリゲート「フルトン」を建造し、同年★海軍大佐に昇進した。                                   1840年6月には同海軍工廠の司令官となり、代将の地位を得る。

1846年に「米墨戦争」が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮、後には本国艦隊の司令官に昇進した。

蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)とたたえられ、海軍教育の先駆者とされている。

 日本開国任務
  ※※ペルリ提督の像 東京都港区芝公園内 詳細は「黒船来航」を参照
  ※※ペリー上陸記念碑
1852年11月に、★東インド艦隊司令長官に就任、日本を捕鯨船の寄港地とするため交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令[※ 2]を与えられた。 同年11月、アメリカ合衆国大統領「ミラード・フィルモア」の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。  フリゲート「ミシシッピ」を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由した。

マカオでは「サミュエル・ウィリアムズ」を漢文通訳として雇い入れ、上海ではアントン・ポートマンをオランダ語通訳として雇い、フィルモア大統領親書の漢文版およびオランダ語版を作成した。                      また、上海ではミシシッピは旗艦任務をより新しい蒸気外輪フリゲートである「サスケハナ」に譲った。旅行作家「ベイヤード・テイラー」も途中で加わり、日本への渡航に同行する。(後にテイラーが著した冒険記が知人であるフランシス・ホールの1859年の来日へと繋がった。)

琉球では那覇において、イギリス海軍が琉球伝道を企図して1843年(天保14年)に設立した琉球海軍伝道会から1845年(弘化2年)に派遣されたハンガリー生まれのイギリス人「バーナード・ジャン・ベッテルハイム」と交流している。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀に入港した。                      7月10日、幕府役人の来訪を拒絶して、艦隊付米国聖公会牧師「ジョージ・ジョーンズ」の司式でプロテスタントとして日本初となる礼拝を行う。                             7月14日(6月9日)、幕府側が指定した★久里浜に護衛を引き連れ上陸、「戸田氏栄」と「井戸弘道」に大統領の親書を手渡した。 ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、★琉球へ寄港した。

「太平天国の乱」が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、                 1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦「サスケハナ」号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、                             3月31日(3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印した。 またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。その後、艦隊は香港に向かった。

 帰国と退任
日本開港の大任を果たした後、★体調不良に悩まされていたペリーは、香港で本国政府に帰国を申請し許可を得た。 艦隊の指揮権を譲って、ミシシッピ号を去り9月11日にイギリス船に便乗し、西回りの航路と陸路でニューヨークへの帰国の途に就いた。
インド洋、紅海、地中海を経てヨーロッパ大陸を鉄道で移動しウイーン、ベルリン、ハーグらで多少の滞在保養を得てイギリスへ渡り、リヴァプールから大西洋を航海、翌年1月12日にニューヨークに帰着した。                 東周りの航海で1月22日にニューヨークへ帰着したミシシッピ号の艦上で1月24日にペリーの東インド艦隊司令長官の退任式が挙行された。

 気象学への貢献
ペリーは嘉永6年(1853年)7月と嘉永7年(1854年)2月に日本の開国を促すために日本遠征(いわゆる黒船来航)を行ったが、その航海途中で1854年2月7日 - 12日の琉球から江戸湾に至る航路での風向・気圧、気温・水温、海流の流向流速を測定していた。
ペリーは航海時の嵐からの安全に意を尽くしており、アメリカの気象学者ウィリアム・レッドフィールドと交流があった。

「ペリー艦隊日本遠征記(Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)」の第2巻(1856年出版、全3巻)では、日本遠征時の気象観測データを用いたレッドフィールドによる太平洋の嵐の研究が含まれている。その中には1853年7月17日から28日まで日本を離れたサスケハナ号とミシシッピ号が遭遇した台風の位置記録と気圧計の記録、そして台風の特徴の分析もある。

 晩年
日本遠征記などの出版に注力をした。 また、★アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていた。1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳だった。 墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、娘アンナとともに納められている。日本はペリーが帰国した後、15年におよぶ動乱の幕末を迎えることとなった。

 宗教および宣教活動との関係
ペリーの日本開国の主目的は、日本との通商、カリフォルニア・中国(当時・清)間の太平洋航路での寄港地の構築(特に石炭補給地)、難破した捕鯨船員の扱いの改善などであったが、近年ではキリスト教の宣教活動に通じる「明白な神意(Manifest Destiny)」による信念も有力な考え方となっている。

アメリカが19世紀半ばのオレゴン紛争の解決や、テキサス併合、カリフォルニア編入等を介して、太平洋側に長大な海岸線を持つ国家となったのは、★キリスト教における「明白な神意」の結果であり、さらに太平洋を超えて中国へ進出する信念となった。
世界の動向からも、18世紀後半から19世紀前半にかけて、欧米(キリスト教世界)諸国がが非キリスト教世界に対する軍事的・政治的(外交的)優位性を確立して、経済的利得と経済的優位性を確保する時期でもあり、こうした状況に呼応してキリスト教の海外伝道は、軍事的・政治的(外交的)活動を後方から支援し、欧米の価値観を広める文化的活動の役割を果たすこととなった。

 ペリー自身も、★米国聖公会(監督派教会)に属し、「信仰厚く、航海中も毎日聖書を読むのを欠かさず、日本開国の命をもって、日本宣教の門戸を開く機会となる光栄ある使命」として考えていた。                        前述の通り、ペリーの第1次日本遠征(浦賀来航、1853年7月8日)の最初の日曜日(7月10日)の朝10時30分には、旗艦である「サスケハナ」において、米国聖公会従軍牧師ジョーンズによって日本来航後の最初のキリスト教(プロテスタント)の正式の礼拝が執り行われている。

 ペリーの日本との外交活動は、続くタウンゼント・ハリスに引き継がれ、ハリスは1856年8月に下田に着任し、総領事館(★柿崎村・玉泉寺)を開設し、1858年7月29日(安政5年6月19日)には、日米修好通商条約が調印されるに至った。ハリスがこの第8条に、本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする条項を加えることで、宣教師の来日が可能になり、翌1859年の米国聖公会の「ジョン・リギンズ」、「チャニング・ウィリアムズ」、長老派の「ジェームズ・ヘボン」、オランダ改革派の「サミュエル・ロビンス・ブラウン」、「デュアン・シモンズ」、「グイド・フルベッキ」の各米国人プロテスタント宣教師の来日に繋。

 人物
奴隷の帰国事業に尽力し、リベリアでは著名である。
ペリーを実見した「菅野八郎」は、身長を六尺四 - 五寸(約192 - 195 cm)と記録している。
大変家族思いで、子どもたちが喧嘩をしないよう、強く戒める手紙を書き残している。
公式な記録は残っていないが、鬘を着用していたことを複数の関係者が証言している。

水兵や海兵隊員、他の士官たちからペリーの威張った態度、挨拶や合図の声が熊のように大声で聞こえるので「★熊おやじ」(Old Bruin)と隠れてあだ名されていた。
1819年にはニューヨーク市にてフリーメイソンに加入した。
ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官「ウィリアム・アレクサンダー・グラハム」に提出していた。そこでは、以下のように述べている。
・任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は★大型の蒸気軍艦であること。
・日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、★目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
・中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「★恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
・★オランダ商館が妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
 
娘の「キャロライン・スライデル・ペリー」は、アメリカンジョッキークラブの会長を務めるなどアメリカ★競馬界の重要人物の一人であり、アメリカクラシック三冠の3冠目ベルモントステークスに名を残す「オーガスト・ベルモント1世」と結婚した。                                  「ベルモントパーク競馬場」の創設者「オーガスト・ベルモント2世」はキャロラインの子で、ペリーの孫にあたる。                              

アメリカ海軍航空隊のパイロット第2号である「ジョン・ロジャース」も、係累の一人である。 また、兄オリバーの孫に★慶應義塾大学英文学教師の「トーマス・サージェント・ペリー」がおり、その娘の「アリス」は、後に日米開戦時の駐日米国大使となる「ジョセフ・グルー」の妻となった。

 日本人への評価
強硬手段で鎖国の扉をこじ開けた一方で、ペリーは日本人の素養を高く評価していた。後年に出版されたペリー遠征記では、以下のように記している。

「日本の★手工業者は世界における如何なる手工業者にも劣らず練達である。もし、他国民との交流から日本国民を孤立させている鎖国政策が緩和されたならば、他国の物質的進歩の成果を学ぶ彼らの好奇心、それ(科学技術)を自らのものにする俊敏さによって、彼ら(の工業力)は間もなく★最も惠まれた国々の水準にまで達すると思われる。 日本人が文明世界の技能を習得すれば、強力な競争者として、将来の機械工業の競争に加わることだろう。」
マシュー・ペリー 1856年 ペリー遠征記より

 ペリーは他にも次のような日本人論を同著で展開した。
技術力
「彼ら(日本人)は外国人によってもたらされた★改良を観察するのが極めて早く、それをすぐに会得し、非常な巧みさと精確さで模倣するのである。(中略)★木材および竹材加工において、彼等に勝る国民はない。            彼等はまた世界に勝る一つの技術を有している。それは木材製品の★漆塗りの技術である。他の諸国民は多年に渡って、この技術において彼らと肩を比べようと試みたが成功しなかった。」

好奇心
「日本の役人は、いつも通り、その好奇心を多少控えめに表していたが、汽船の構造およびその装備に関するもの全部に対して、深い理解と関心を示した。蒸気機関が動いている間、彼等はあらゆる部分を詳細に調べたが、★恐怖の表情をせず、その機械について全く無知な人々から期待されるような驚愕を少しも表さなかった。(中略) 

また日本の★画家たちは機会あるごとに絶えず機械の諸部分を描き、その構造と運動の原理を知ろうとしていた。 艦隊の二回目の訪問の際、「ジョーンズ氏」(艦隊に同乗した天文学者)は、機関全体を正しい釣合で描いた完全な絵画を日本人が持っているのを見た。 機械の細かい部分も的確に描かれていて、他国で描かれてもこれ以上はできないほど正確で立派な絵画であったと彼は語っている。」

 女性の品位
「既婚婦人が常に厭わしいお歯黒をしていることを除けば、日本婦人の容姿は悪くない。 若い娘は良い姿をして、どちらかといえば美しく、立居振舞は大いに活発であり、自主的である。それは彼女たちが比較的高い尊敬をうけているために生ずる品位の自覚から来るものである。(中略)中国の婦人とは違って、日本の婦人は★男と同じく知識が進歩しているし、女性独特の芸事にも熟達しているばかりでなく、日本固有の文学にもよく通じていること度々である。」

 女性の権利
「日本の社会には、他の東洋諸国民に勝る日本人の美徳を明らかに示している一つの特質がある。それは、女が伴侶と認められていて、単なる奴隷として待遇されてはいないことである。 女の地位が、キリスト教の教義の影響下にある諸国と同様な高さではないことは確かだが、日本の母、妻、娘は、★中国の女のように家畜でも家内奴隷でもなく、★トルコのハーレムにおける女のように浮気な淫楽のために買い入れられたものでもない。」

 絵画芸術
「遠征隊の士官たちが持ち帰った絵入りの書物や絵画のうち数個が、いま我々の前にある。 日本人がそれに示している美術の性質をよく調べると、この注目すべき国民は他の点と同じように、美術でも驚くほど進歩していることが著しく目につく。」

 忍耐力
「地震(安政の大地震)によって生じた災禍にもかかわらず、日本人の特徴である忍耐力が表れていた。 その特徴は彼らの屈強な精神を露わにするものだった。落胆もせず、不幸にあっても涙せず、男らしく仕事にとりかかり、意気消沈することもほとんどないようであった。」

 遺産
  ※※伝来した機関車模型:嘉永年間渡来蒸気車
  ※※ペリーが江戸幕府に献上した「エンボッシングモールス電信機」。逓信総合博物館での展示(展示はレプリカ)。重要文化財。

 ペリー上陸の地である神奈川県横須賀市★久里浜「ペリー公園」には「上陸記念碑」と「ペリー記念館」が建てられている。
ペリーは、和親条約を締結後、安政元年(1854年)に、開港される函館港に下検分のためとして来航した。 来航150年を前に、函館に「ペリー提督来航記念碑」が立てられた。

浦賀来航(西暦1853年)の際に幕府に★旗を2本贈っているが、旗の種類および贈った目的は不明である。 ペリーの交渉態度が★高圧的かつ恫喝的と見られたせいか、「砲艦外交」と呼ばれる。
幕府へ電信機と模型機関車を献上した。 ★4分の1の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせ、人々を驚かせた[※ 3]。 同模型は、1872年(明治5年)に工部少輔の「山尾庸三」が京都博覧会で展示するため、正院に払い下げを求め、調査の結果、★幕府海軍所が保存していた時代に火災によって失われたことが判ったという。

電信機の電線を1 km程引き、公開実験を行った。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。 針金を通して一瞬にして言葉を送る機械に、当時の人たちは大変驚いた。このエンボッシングモールス電信機は逓信総合博物館(2013年閉館)を経て郵政博物館(2014年開館)に伝えられている。
1853年の来航時に旗艦「サスケハナ」号に掲げられていた星条旗は、1945年(昭和20年)9月2日の日本の降伏文書調印時に戦艦ミズーリ上に掲げられた。

 ペリー艦隊
  ※※ミシシッピ号
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦。日本人はこれを「黒船」と呼んだ。
一般には「東インド艦隊」と呼ばれるが、「フリート」 (fleet) ではなく「スコードロン」 (squadron) であるため、現代の軍事用語では「小艦隊(または戦隊)」に該当する。 ただし、当時のアメリカ海軍にはフリートは存在せず、軍艦の集団としてはスコードロンが最大の単位であった。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」[※ 4]と狂歌に詠まれたが、来航した黒船4隻のうち★蒸気船は2隻のみであった。

1旗艦:「サスケハナ」(USS Susquehanna)                      1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工
外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。
装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門
2「ミシシッピ」(USS Mississippi)
外輪式フリゲート:水線長70メートル、満載排水量3,230トン
装備 10インチ砲2門、8インチ砲8門
3「プリマス」(USS Plymouth)
帆船:水線長45メートル、満載排水量889トン
装備 8インチ砲8門、32ポンド砲18門
4「サラトガ」(USS Saratoga)
帆船:水線長45メートル、満載排水量896トン
装備 8インチ砲4門、32ポンド砲18門

 階級に関して
 ※詳細は「提督」、「代将」、および「代将 (アメリカ海軍)」を参照
ペリーの訪日当時の階級は“Commodore”である。 古来の欧州の海軍においては、個々の戦闘艦の指揮官であるCaptain(艦長 / 大佐)が平時の最上位であり、戦時に複数の戦闘艦が集められて艦隊が編成された場合の司令官としてAdmiralが任命されていた。

その後Admiralは階級として固定され、臨時に複数の戦闘艦の指揮官が必要になる場合には、艦長のうち最先任の者がCommodore(代将)としてこれを率いていた。そして、19世紀当時にはCommodoreも階級となっていた。   一方、欧州の海軍とは異なり、★アメリカ海軍においては設立以来1人のAdmiralも誕生していなかった。                             制度としては存在していたものの、Admiralに昇進するには議会の承認が必要であり、現実に最初のAdmiralが認められたのは★南北戦争中の1862年であった(この時点ではペリーはすでに死亡している)。

したがって、ペリーの肩書きもCommodore(代将)であり、Admiralではなかった。 アメリカ海軍においても代将は一時的な肩書きに過ぎず、ペリーは東インド艦隊の指揮をとるために代将に任命されたもので、任務が完了した後は正規の階級である大佐に戻っている。

大統領の親書には、ペリーはアメリカ海軍の最高位の軍人であると記載されていた。 当時の日本の文献では「水師提督マツテウセベルリ」との記載がある(合衆國水師提督口上書)。  提督は、清朝の最高位の武官の官職名であり、水師提督は海軍の最高位の軍人である事を意味する。                   ペリーの肩書きを表すのに、同じ外国である★清朝の武官名を借用したのである。 これ以降提督は海軍の最高位を示し、現代では英語の「Commodore」、「Flag officer」および敬称としての「admiral」の和訳語となっている。

 艦名
兄のオリバーの名前は、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートのネームシップとなるなど、これまで6隻に使われたが、最近までアメリカ海軍にはマシュー・ペリーの名前を持つ艦はなかった。 しかし、2010年に就役したルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦の9番艦がマシュー・ペリーと命名された。同艦は2011年の東北地方太平洋沖地震の救援活動に参加した。

 後世において(GHQ)
第二次世界大戦後、日本の降伏文書(日本の降伏)の際、右上の星条旗の星は31個あり、ペリーが日本に開国を要求した当時の星条旗である。
第二次世界大戦後、日本を占領したダグラス・マッカーサーと比較されることがあり、類似点がしばしば指摘される。

1941年12月7日(日本時間8日)、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の際に、ホワイトハウスに★31州の星条旗を掲げた。これはペリーのように再び日本を開国させるという意味合いである。
日本の降伏文書の際には、東京湾に駐留したアメリカ合衆国の戦艦ミズーリで、降伏文章調印に臨んだ日本国政府の代表の「重光 葵」は、二つの異なる星条旗が飾られていることに気づいたとされる。
48州の星条旗[※ 5]と31州の星条旗があったのだ。マッカーサーは、メリーランドのアナポリス海軍士官学校博物館から取り寄せ、第二の日本開国を演出したのである。

マッカーサーはそのミズーリその★92年前、すなわちペリー提督が4隻の軍艦を率いて日本にやってきたときに旗艦の「ポーハタン」が停泊したのと★緯度・経度がまったく同じ場所に停泊させた。
ペリーが日本に強制的に開国した当時の星条旗を飾られた理由としては諸説ある。 黒船来航そのものが、アメリカ合衆国の意向によって、日本(江戸幕府)は強制的に開国されたというそのまま意味となり、これは★事実上のアメリカ合衆国による日本占領と見なし、2度目の日本占領を成し遂げたという説などがある。

日本降伏の調印を終えたマッカーサーは米国民向けに演説をおこなった

今日、銃声は止み、悲惨な悲劇は終わった。我々は偉大な勝利を勝ち取った。きょうの私たちは92年前の同胞、ペリー提督に似た姿で東京に立っている。
— ダグラス・マッカーサー

 関連著作(訳書)
『ペルリ提督 日本遠征記』 鈴木周作抄訳、櫻井省三校閲、大同館、初版・明治45年(1912年)
『ペルリ提督 琉球訪問記』 神田精輝訳著、国書刊行会、1997年。復刻版で原著は大正15年(1926年)刊の私家版
『ペルリ提督 日本遠征記』 土屋喬雄・玉城肇訳、弘文荘(上下)、昭和10-11年(1935—36年)[注釈 6]。復刻版:臨川書店、昭和63年(1988年)
『ペルリ 日本遠征記』 土屋喬雄・玉城肇訳、岩波文庫(全4巻)、初版・昭和27-30年(1952-55年、復刊1990年・2003年ほか)
『ペリー提督 日本遠征記』 合衆国海軍省編、大羽綾子訳、法政大学出版局、初版・昭和28年(1953年)、別訳版。グーテンベルク21(電子書籍、2014年より)
『ペリー提督 日本遠征記』 宮崎壽子監訳、角川ソフィア文庫(上下、加藤祐三解説)、平成26年(2014年)。電子書籍も刊
元版『ペリー艦隊 日本遠征記』 オフィス宮崎編訳、万来舎(上下、加藤祐三・伊藤久子解説)、平成21年(2009年)

以上の原著は、歴史家のフランシス・L.ホークス(en:Francis L. Hawks)が編み、1856年に出版された公式報告書(全3巻組)
Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, 1856.〈アメリカ合衆国第33議会:第2会期中特殊刊行物第97〉

サミュエル・ウィリアムズ 『ペリー日本遠征随行記』〈第I輯・新異国叢書8〉雄松堂出版。新版・講談社学術文庫、令和4年(2022年)。艦隊の通訳官
『ペリー 日本遠征日記』 金井圓訳〈第Ⅱ輯・新異国叢書1〉雄松堂出版。ペリー自身の公務日記
『ハイネ 世界周航 日本への旅』 中井晶夫訳〈第Ⅱ輯・新異国叢書2〉雄松堂出版。日本滞在部分のみ
『ペリーとともに 画家ハイネがみた幕末と日本人』 フレデリック・トラウトマン解説、座本勝之訳、三一書房、平成30年(2018年)

ウィリアム・ハイネは随行のドイツ人画家で「遠征記」挿絵を担当

『スポルディング 日本遠征記』 島田孝右訳〈第Ⅲ輯・新異国叢書4〉雄松堂出版。ポーハタン号の書記官
『ペリー提督日本遠征日記』 木原悦子訳著、童門冬二解説、小学館〈地球人ライブラリー〉、平成8年(1996年)。編訳著(入門書)
『ペリー日本遠征記』〈豆州下田郷土資料館編〉京都書院アーツコレクション、平成11年(1999年)。文庫判(入門の図版書、主に原書2巻目)
チャールズ・マックファーレン 『日本1852 ペリー遠征計画の基礎資料』 同時代のイギリスの歴史・地理学者で参考にした文献

渡辺惣樹訳、草思社、平成22年(2010年)。草思社文庫、平成28年(2016年)

  関連作品
 映画
『サムライマラソン』(2019年、ギャガ、演:ダニー・ヒューストン)

テレビドラマ
『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:フレッド・ボサート)
『徳川慶喜』(1998年、NHK大河ドラマ、演:ジェームズ・バワーズ(声:岸野一彦))
★『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ、演:ニーノA)
『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ、演:ティモシー・ハリス)
『八重の桜』(2013年、NHK大河ドラマ、演:スティーブン・アッシュトン)
『青天を衝け』(2021年、NHK大河ドラマ、演:モーリー・ロバートソン)
『新・信長公記〜クラスメイトは戦国武将〜』(2022年、日本テレビ、演:ブレイク・クロフォード)

 脚注
 注釈
※1^  鎖港中の17世紀半 - 19世紀半、対馬(中国)、長崎(オランダ)、薩摩(琉球)の3つの窓口と呼ばれる外交窓口を開き、貿易を行っており、長崎では当時既にオランダを通じて金や銀を輸出し、アメリカからも毛皮などを輸入していた。その背景から「鎖国」の有無の認識が変わりつつあり、ペリーは「開国」ではなく「開港」を要求したと一部の教科書の表記も更新されている。
※2^  日本との交渉の任務は当初先代の司令官であるジョン・オーリックに与えられたが、オーリックは部下とトラブルを起こしたため病気を理由に解任され、ペリーがその任務を引き継いだ(ただし発砲は禁止された)。
※3^  但し、蒸気機関車模型の運転に関しては、エフィム・プチャーチンが長崎で披露した方が若干早かった(1853年8月24日)。これに立ち会った佐賀藩の本島藤太夫と中村奇輔であった。中村は石黒寛次、田中久重(からくり儀右衛門)と協力し、およそ2年後の1855年8月1日に、模型の蒸気機関車を作製、藩主鍋島直正に披露した。
※4^  上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。
※5^  日本占領時の当時のアメリカ合衆国は48州であった。
※6^  1856年に刊行したフォリオ版・全3巻の第1巻を全訳。原著の挿絵も収録(出展;/Wiki)



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