私の想い・・・美瑛・京都・横浜・鎌倉・・・・・・

写真と詩や文章で、美瑛と京都、横浜などについて私の伝えたい想いを書きます。                    

私と美瑛との出会い ④「写真を撮る楽しみ」

2015-02-08 21:42:27 | 回想ー美瑛

 全国を旅行してときには、いつもカメラを持っていました。でも、それはひとり旅がほとんどであったので何となく旅のお供に持ってあるいた程度のことでした。それが美瑛のすばらしい風景と拓真館での故・前田真三氏の写真に出会ったことが、写真が自分にとっての最高の趣味になりました。

 春・夏・秋・冬のどの季節に来ても、その時の風景は美しく、毎年同じ作物を作らない畑の景色など、虹やダイヤモンドダスト(冬)など特異な自然現象も見せてくれる場所でもあるのです。写真のお手本が拓真館に展示している作品であり、それは写真の構図や表現の教材でもありました。

 旅に出て「なぜ、カメラを持っているのだろう」の答えがこの美瑛でわかりました。そして、フィルムのカメラからデジタル一眼レフの使っているカメラも代わりました。もともとは、高校生時代に写真部に所属しモノクロ写真の撮影から現像まで自分でしていたので、写真の知識はあったのですが、デジタル時代に入ってNikonのデジタル一眼レフを購入してからは、あらためてメーカーの写真講座に参加して写真の面白さやその深さを学びました。

 私にとって美瑛は風景写真を撮る楽しみを教えてくれたところでもあります。そんなにも親しみのある場所なので、一枚の風景の構図を決めてシャッターを押すときは「はい、いい顔(表情)して」と風景に声をかける気持ちで撮っています。

 北海道の主要な観光地を周って、観光地としては無名に近いころに美瑛に出会えたことは、今との違い(ほとんど変わらない風景ですが)もわかり、とても嬉しいことです。

 写真の楽しみを教えてくれた美瑛に感謝の気持ちでいっぱいです。


私と美瑛との出会い ③「丘は富良野ではない」

2015-02-01 16:01:02 | 回想ー美瑛

 1981年ドラマ「北の国から」の連続版放映の頃にロケ地である麓郷地区に何回となく行きました。その頃はドラマに出てくる丘の景色の全てが富良野市麓郷地区の八幡丘の景色であると思っていた時期がありました。しかし、美瑛の丘のように起伏の大きな丘はありませんでした。ある夏の時に友人と現在のJR富良野線に乗って、旭川から富良野方向に乗ってみると北美瑛のあたりから起伏の大きな丘が見えました。「もしかして、ここでは」と美瑛駅に降り立ち。駅舎内にあった観光案内所の人に聞いてみました。すると、「ドラマに出てくる丘はここです。全てが富良野に思われてしまうことが多いのです」と言っていました。また、美瑛の人たちにしてみれば、美瑛とわかる演出が少ないのでちょっと悔しくも思っていたそうです。

 その頃の美瑛は、駅前の商店街は整備前でした。また、今は舗装されている道は砂利道で車が通ると砂ホコリが舞うような状況でした。そして、レンタバイクを利用して丘を巡りました。見るものすべてが新鮮で「自分の探していたのはここだと」熱い想いがしました。心象風景とも言える自分の心が探してた風景が美瑛の丘です。十勝岳や大雪山を見渡す新栄の丘からの景色は、強い荒々しい山々と優しい丘たちが見渡せ、美瑛らしいホッとする大好きな景色です。

 それから、1987年に自動車運転免許を取ってからは、行動範囲が広くなり美瑛の写真を撮る機会が多くなりました。

 そういえば、今は見ることがないですが、富良野国道に「撮ってもいい丘、美瑛」と書かれた看板を見かけたことがありますが、私自身は気がついていなかったのかもしれませんが、コマーシャルにも使われる風景だったので写真愛好家には関心ある景観のひとつだったのかもしれません。

 1987年に日本の風景写真の第一人者「故・前田真三氏」の美瑛の写真を展示する拓真館ができてからは、この丘の美しさが全国に知れ渡ることになりました。

                                                           (続く)


私と美瑛との出会い ②「ある人との出会い」

2015-02-01 12:36:31 | 回想ー美瑛

 北海道が大好きになった私は道内を回るようになりました。最初は自動車免許を取得する26歳までは列車とバスの乗り継ぎ旅行で、広い北海道での1日の移動は限られたものになりました。でも、その頃の国鉄時代は、今は廃止になっているローカル線も残っていたので車窓からの様々な雄大な景色が思い出に残っています。根室標津まで列車があったころ、その路線に夜に乗ったときに大雨と雷に遭遇したことがあります。広い大地に鳴り響く雷鳴と稲妻は、都会では体験したことのないスケールの激しさでした。何から何まで大きく自然のすごさを感じました。

 春夏秋冬の四季を問わずに、北海道に行くようになりました。食べ物も海の幸・山の幸、その美味しさは北の大地ならではのものです。その食べ物が私の好みにもあっていました。そして、22歳のころに札幌に住みたいと思うようになりました。その頃はドラマ「北の国から」や歌手の松山千春さんがブレークしている頃でもあり、自分の想いは強くなるばかりでした。しかし、仕事がなければ住むこともできないしと考えて、その土地の特色を感じて生活したいと思い地方公務員になろうと考えました。

 そんなある冬に青函連絡船に乗って函館に渡り、乗り継ぎの特急「北斗」に乗って札幌に向かいました。その日は、札幌雪まつり期間中ということもあり、指定席が取れずに混雑のため自由席の床に座っていました。東室蘭まで行けば次の急行は室蘭発なので乗り換えれば空いていると考えていました。すると、隣にいた男性の人と話が弾み、その列車のことを教えてあげて一緒に乗り換えました。その人と札幌まで車中で様々な話をしたのですが、自分が札幌に住みたいことや地方公務員になりたいことも思わず話してしまいました。そして、運命の輪が周りはじめたことが起きました。札幌駅につくと名刺をいただき、なんとその人は札幌市役所の職員の方でした。もちろん、30年以上の今でもお付き合いがあります。

 そして、両親の反対があっても2回の札幌市職員採用試験を受けましたが、合格することはできませんでしたが、また運命の輪が動き始めました。それは、一緒に受けたウオーミングアップのつもりで受験した東京都職員採用試験に合格してしまったのです。悩んだ末に、「こちらに来るにしても様々な経験があったほうが良い」とその人の勧めもあり、東京に勤めることにしました。

 しかし、北海道に住みたい気持ちはかわりませんでしたが私の将来を考えていただき、わざとそのようなアドバイスをしてくれたのだと思いました。今の自分を方向づけしていただいたことにとても感謝しています。

 そして、美瑛に出会うことになります。

                                                                                                                                 (続く)


私と美瑛との出会い ①「北海道との出会い」

2015-02-01 09:48:07 | 回想ー美瑛

 私は18歳で就職し、それからは収入を得るようになってからは休暇をとって全国を旅しました。「知って見て感じる」それがいつの間にか好奇心になり、最初の木曽路から始まり一番南は沖縄八重山の島々まで、良くテレビなどの旅番組に出てくる場所はほとんど行ったと思います。

 旅に出るようになってからは、その頃は旅先の記録するようにフィルムのカメラで写真を撮っていました。

 20歳の頃に初めて北海道に来ました。でも、飛行機で千歳空港に降りてそのままバスで札幌市内へ移動しました。札幌に滞在してみて感じたことは「リトル東京」とも呼ばれていましたが、東京と変わらずの都会だなと感じていました。ところが、列車で網走まで移動してみると今までにない北海道の大きさを感じることになるのです。東京で暮らしている自分には「何もなく広い」と言うイメージが先行してしまいました。全国を旅してみて、北海道の風景の雄大さに圧倒されたのです。その「何もなく広い」という言葉は都会慣れした自分からその基準で思わず出てしまった言葉です。

 そして、網走から知床五湖へ向かいました。天気に恵まれて五湖の全て(当時は全て見れた)を散策したときに、雄大な知床連山を見て自分の存在があまりにも小さく感じる程の美しさから、身体に電気が走るような衝撃的感動を覚えました。その次に同様な感動をしたのは摩周湖です。霧の摩周湖と言われほど山上湖で霧の日が多いのですが、こちらも快晴で透き通る青い湖面に自分が吸い込まれるような美しさに感動しました。よく言う「神の存在を感じる」場面でした。

 北海道「北の大地」はどこにいっても自然の大きさと豊かさを感じる場所です。そのころの自分は今に比べて純粋な気持ち(笑)だったかもしれませんが、自分の旅経験や日常生活からの概念を変えてしまうほどの衝撃でした。「何もない」でなく「ここには自然の豊かさと恵みがある」そして、ここに住み人たちはその恩恵を受けて生活している。こうして私は北海道が大好きになり何度も通うようになりました。

                                                                (続く)