上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

奥州道中を歩く (氏家宿・喜連川宿・佐久山宿・大田原宿)

2024年05月26日 | 街道を歩く




【2日目 下野國 栃木県】 令和6年(2024)5月24日(金)晴

歩行距離:氏家駅~大田原市役所 29.5km 
行  程:自宅3:10==5:10西那須野駅前市営P(500円)・西那須野駅5:38==(418円)=6:02氏家駅6:10---14:10大田原市役所15:15=市営バス(200円)=15:50西那須野駅==17:55自宅



【氏家宿】

駅舎で身支度を整え氏家駅を出発
駅のベンチに忘れ物をし取りに帰る、置いた位置にあり事なきを得る




櫻野村の庄屋を勤めた村上家
門には五十里湖決壊による洪水の水位が残されている
「天和三年(1683)日光大地震で日光神領西川村の葛老山が崩壊し、男鹿川を堰き止め五十里湖出現。
四十年後の享保八年(1723)豪雨によりこの五十里湖が決壊し、瞬く間に鬼怒川岸の村々を飲み込み、死者は一万二千人余りに達したという。この門は300年前に建てられその洪水の痕跡を残している」




  
瀧澤家住宅
鐵竹堂、蔵座敷、長屋門が栃木県指定重要文化財に指定
屋根の上に白い望楼が突き出しているのは蔵座敷
「瀧澤家は、明治期に紡績業などで財を成した旧家であり、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、那須野原の開拓にも尽力した。」



十九夜塔 明治37年(1904)建立
手前の丸いのが、弘化2年(1845)の二十三夜塔・二十六夜塔
時代と共に日付が変ったのだろうか?月に3回の集会なら忙しい



寛政7年(1795)の馬頭観音と年代不詳の十九夜塔
前の十九夜塔が明治のものなのでこれも明治期のものか?




さくら市合併前の旧氏家町時代上野地区集落排水のマンホール
田園地帯らしく親子カエルが葉っぱの傘を被っているデザイン
よく見ると上と下では凹凸が逆になっているので裏返しかと思ったが文字は読めるので裏ではない



国道沿いに開かれた民家のバラが素敵な庭



 
狹間田の一里塚 江戸日本橋より32里  7:13 氏家駅より4.2km
民家の庭の一部になっている小社が祀られている
民家の入口には一里塚の指導標があるが個人宅なので入らず先へ行く



琴平神社
プレハブの様な建物の中に社があるのか味気ない神社




大黒天
左の大黒天台座の裏側に明治初期の水準点が刻まれている
「明治9年(1876)7月に布達し、翌8月から明治10年(1877)8月の1年間、内務省地理寮(国土地理院の前身)が東京-塩釜間の高低測量(現在の水準測量)を実施したときに高低標(現在の水準点)として利用した印である。」


勝善神
「馬頭観音:が馬の安全や健康を祈ったり、死馬の冥福を祈ったりするものであるの
 勝善神(そうぜんしん):主として馬産地において名馬の誕生を祈願する。蒼善神とも書く」



馬頭観音と寛政五年(1793)建立の二十三夜供養塔


ゆるく長く続く弥五郎坂 左はゴルフ場




早乙女坂古戦場跡
「天文18年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。」



早乙女温泉
日帰り温泉  木・金曜日定休日




奥州街道古道口


舗装されているが落ち葉が積もり苔むしている


旧道北側口
左に愛宕山神社



右手上に庚申塔



大谷石造の蔵が並ぶ



大小の勝善神が並ぶ中ほどに馬力神(愛馬の供養塔?)もある



左手の荒川が氾濫すると写真の上端まで浸水する恐れがある



荒川に架かるて連城橋で荒川を渡り喜連川へ


橋から荒川上流を望む、右上は喜連川城址「お丸山公園」の高さ49.5メートルの喜連川スカイタワー




【喜連川宿】8:20 氏家駅より8.2km



喜連川入口本町交差点



さくら市(旧喜連川町)のマンホール
3羽の鳥(ツバメ?)は「ハッピートリオ」という名の旧喜連川町のマスコット。 周囲は桜の花、下は町章「キ」




臨済宗円覚寺派慈雲山龍光寺 足利尊氏の創建
境内には喜連川藩主足利家歴代御墓所がある

 
足利家歴代墓所



旧喜連川興業銀行本店 大正二(1913)建築
現在は観光案内書「和い話い広場」 9時から営業で開いてなかった



旧旅籠山田屋跡 現在は「かぶらぎ時計店」


喜連川の街並み


喜連川脇本陣跡 現在は「割烹寿司芳川屋」



喜連川宿本陣跡
現建物は大正十五年(1926)築の旧喜連川警察署跡
以前は飲食店が入居していたようだが現在は空室で公衆トイレがある



笹屋呉服店
旧萬屋で創業250年以上の歴史がある呉服商



喜連川宿北側の桝形跡



内川に架かる金竜橋を渡る

内川下流


内川を渡ると右手に

金鶏山神社


県道と旧道の分岐に昭和六十三年(1988)建立の男女双体祝言道祖神
結婚祝いか何かに建てたものなのだろうか?(明石家さんまと大竹しのぶが結婚した年)




県道を離れ旧道に入るが、大規模な養豚場があり運搬時にこぼれた「たい肥」が散乱している



養豚団地を過ぎると未舗装の旧道

右手奥が凹地になっており古奥州道中らしく、南和田の一里塚があるらしいが藪で入れない
江戸日本橋より三十四里目 9:50 氏家駅より13.0km



森林地帯を抜けたところに馬頭観音など



曾根田信号



曾根田の信号を曲ったところに天皇御小休之際御膳水碑と男女双体祝言道祖神
こちらの双体道祖神も前記と同じ1988年建立



江川を宮下橋で渡る 流域には水田が広がる




下河戸(引田)の一里塚 江戸日本橋より三十五里目 11:00 氏家駅より17.6km
大谷石造りの蔵のある御宅の敷地内にあるそうだが、判らなかった
奥州道中の一里塚は無くなったものか個人宅内に残されているものばかりの様だ



ほほえみ仏
右から涅槃仏・微笑んでいる仏像・子供を抱いた仏像
どういう意味合いの石仏群なのだろうか?



さくら市(旧喜連川町)と大田原市の境



交差点に農産物直売所とラーメン屋さんがある
お昼近くだったが手前のコンビニで抹茶アイスを食べたので通過することに


交差点付近の佐久山案内看板



観音堂
参道には六地蔵尊・馬頭観音・勝膳神が並び、観音堂の前には念佛供養塔・地蔵菩薩などがある




【佐久山宿】 11:50 氏家駅から20.7km




虚空蔵尊堂
参道階段脇に文化十二年(1815)建立の二十三夜塔
参道階段口辺りが佐久山宿の江戸(南)口で番屋があった



佐久山宿の南枡形




八木澤家
庵看板には、「運用膏」 と記され、戦前まで膏薬を製造しており、戊辰戦争のとき薩摩兵が使用したという



厠(公衆トイレ)
せっかくの那須与一の壁画も前の「ゴミ捨て禁止」看板に興覚め
隣の大田原市消防団第五分団第二部前に標石「旧奥州道中 佐久山宿 下町」がある




村上英俊翁誕生之地碑 本陣跡
「村上英俊翁は、この地の出身で日本で初めてフランス語を修め何冊もの辞典を刊行するなど、幕末期から明治期にかけて活躍した学者である。明治18年(1885)には、日本にフランス学を創始した功績により、フランス大統領からジョン・ヌール・シュヴァリエ勲章が授与された。」
本陣跡であるとの表記や表示するものは無い



北の桝形


佐久山宿の街並みを振り返る



浄土真宗本願寺派 川越山無量寿院正浄寺
「鎌倉時代、健保2年(1214年)宗祖親鸞聖人が、東北御巡錫の折、佐久山宿箒川の川端の孫八宅に一宿しました。その際に聖人が孫八に阿弥陀如来の尊像を授与されました。(川越の阿弥陀如来)その尊像を安置するために孫八が御堂を建立したのが正浄寺の起源であります。」(正浄寺HP)
 箒川を越えてきたので川越阿弥陀如来?
 浄土真宗のお寺の屋根には特徴がある



箒川(ほうきがわ)
岩井橋から上流 奥に見えるのは鶏頂山?



桜観音
高橋医院看板の下に馬頭観音像などが並んでいる



天気が良すぎて日陰の無い舗装路を歩くのが辛くなってくる



真言宗智山派 西松山養福院



谷田川と聖徳太子碑
上流がイトヨの生息地


題目碑
祠の中に南無妙法蓮華経題目碑が安置されている



深川を深川橋で渡る
深川には国指定天然記念物ミヤコタナゴが生息している




地蔵堂
祠には、比較的新しい2体の地蔵尊と風化した1体、壊れた石仏が納められている




与一の里名木選 「国井宅の赤マツ
目通り周囲1.7m、樹高7m、推定樹齢約200年




磯家氏神様
手前の石塔の字は読めない、祠の中には何もなく荒れている



  
蒲蘆碑(ほろのひ) 代官山口鉄五郎の善政を讃えた碑
「土地の者は蜃気楼のことを 「ホロ」 と呼んでいた。当時親園地区は八木沢村と呼ばれ、代官・山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていた。 山口鉄五郎は水路を開消し新田を開発するなど農村の振興につとめ領民から深く親しまれていた。 人見伝蔵は著者 「那須野蜃気楼・蒲慮碑考」 の中で、中国の書 「中庸」 の中には 「政治は蒲や慮のようなもの」 という一文があり、 碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲慮に結び付けたものとしている。
 原文は奉書に隷書体で一行13字、13行に書かれている。この碑文には楷書で本文159文字が刻されている。」 


 
町初碑(国井家)大田原市指定文化財



百村川(もむらがわ)に架かる筋違橋



八幡神社
天保12年(1841)以来、加勢友助等によって開墾され、八幡神社はその鎮守として安政2年(1855)に勧請されたものである




【大田原宿】 13:55 氏家駅より28.2km

大田原宿新田木戸跡 大田原宿の江戸口



神明町交差点 奥州街道はここを右折するが本日はここまでする 
14:00 氏家駅より28.3km
この近くに「新富町3丁目」バス停があるがよくわからないので
市営バス始発の大田原市役所まで歩く



14:10に大田原市役所到着
バスは各時間とも15分発があるが14時だけは無く1時間待つことに


近くのファミレスで遅い昼食、味噌ラーメン&餃子を食べ時間まで過ごす



15:15分発のバスに乗り15:45西那須野駅東口着
西口の市営駐車場に止めてあった車で帰宅






晴天を恨んでは罰が当たるが、夏日に平坦な舗装路が続く街道歩きは辛い
日が永く爽やかな季節であるはずの5月なのに暑い(蒸し暑さは未だないが)
紫外線も強いので日焼け止めを塗っていても真っ赤に日焼けしてしまった

奥州道中もあと2日間位はかかりそうで、残りは秋に回すか思案のしどころ
そろそろ山歩きに変えなければとも思う今日この頃です

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 地図


参考1:「ちゃんと歩ける日光街道・奥州街道」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡:GPSログがとても参考になります
参考4:きままに歩く現地解説版など詳細な写真が豊富
参考5:街道歩き旅
参考6:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考7:レファレンス協同データベース(レファ協)国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、レファレンス(調べものの相談)のデータベース



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