上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

鎌倉街道上道を歩く (高崎から藤岡)

2023年02月24日 | 山2023
 鎌倉街道は信濃、越後、陸奥方面から鎌倉へ通じた道で鎌倉幕府の御家人らが鎌倉へ向かう道として発展したが、今では道路改修・圃場整備・宅地造成など様々な事業で往時の姿が残っているところは少ないそうだ。
 鎌倉から上州へ向かう上道(カミミチ・カミツミチ、上の道)、下野へ向かう中道(中の道)、常陸へ向かう下道(下の道)が有名であるが、我が上州から鎌倉への上道を歩いてみることにした。『いざ鎌倉へ!』

 歩くにあたって次の資料を参考にした
 鎌倉街道を歩く(保存と活用のいま)   高橋光幸著  さきたま出版会:鎌倉街道上道の案内書
 旧鎌倉街道探索の旅 Ⅰ 上道・山ノ道編 芳賀善次郎著 さきたま出版会:鎌倉街道のバイブル
 上野国交替実録帳を読む(千年前の県政白書) 前澤和之著 みやま文庫:群馬県を知る百科事典みやま文庫
 五街道の旅:五街道はじめ脇往還・歴史街道など地図付きで詳しいホームページ 
 「隠居の思ひつ記」:迷道院高崎(めいどいんたかさき)さんの軽快で詳細なブログ



【1日目 群馬県】 2023年2月22日(水)快晴
 歩行距離:高崎城址~藤岡駅 26.8km(累計26.8km) 
 行  程:高崎市若松町P06:17---6:25高崎城址---6:40愛宕神社---06:53南高崎駅---7:00鎌倉街道記念碑---琴平神社---7:00西光寺・船橋歌碑---定家神社---山名八幡---08:51山名駅---09:11西山名駅09:16----松の木橋---吉良上野介井戸---11:00千部供養塔--鮎川---11:15農村公園---11:42白山神社11:55---12:05龍国寺---12:30葵八幡---神流川---13:10土師神社---本郷埴輪窯址---13:52群馬藤岡駅14:11===14:26高崎駅
駐車料金600円、藤岡・高崎運賃242円(紙切符は240円 suicaのほうが高い)


 
 鎌倉街道上道は群馬県高崎市から藤岡市で神流川を渡り、埼玉県神川町・所沢市、東京都東村山市・府中市から多摩川を渡り、多摩市・町田市、神奈川県横浜市を通り鎌倉へ至る
 高崎から北は旧中山道の元となる道だという(旧鎌倉街道探索の旅 Ⅰ 上道・山ノ道編)

 そういうわけで高崎城址を丁度日の出時刻の6:25に歩き始めた
 

 城址の後ろは高崎市役所
 平成の市町村合併後、階上の展望から見える範囲は全て高崎市だそうだ

 高崎城址から街中を南に向かうと愛宕神社の裏手に出る


 愛宕神社 和田城(後の高崎城)の鎮護神として創建



南高崎駅付近に御堂があった
御堂前に馬頭観音と庚申塔(猿田彦大神)、如意輪観音などの石塔石仏
御堂の中には大黒天などの石仏、
祠には日光月光と読める文字が刻まれているので中の薬師如来だろうか?
付近一帯の石塔・石仏を道路拡幅などの工事の折まとめたのだろうか?



鎌倉街道記念碑
上に県道71号城南大橋、右に上信電鉄に囲まれた小公園
左の歩道は「鎌倉橋」と名づけられている



琴平神社
写真を撮っていると近所の人に声をかけられ説明を受けた
曰く:日の出の時刻に来れば階段から社殿の奥まで一直線に日が差すそう
写真では判りにくいが、狛犬の下に天狗が2体配置されている



隋身門が変わっている
振り返れば、左右に仁王像がある



横から見ると、表に守護神、裏に仁王像
表は琴平神社への隋身門、反対側は荘厳寺への仁王門になっている



飯玉山 荘厳寺 みやび堂 本堂は修復中?
荘厳寺は明治の神仏分離までは琴平神社の別当だったので同じ境内にある様だ
飯玉山は飯玉神社と関係があるのだろう



荘厳寺の如真堂(観音堂?)


如真堂前に「地蔵菩薩建立縁起」とい石碑がある
昭和35年、近くの城南小学校校庭で石垣が崩れ死亡した小学生4人を供養した地蔵菩薩
別のところにあったものを如真堂新築の際ここに移設したらしい



荘厳寺から500m程行くと「秩父巡礼道しるべ」という標柱と馬頭観音塔がある
馬頭観世音の台石には、「左婦ぢおか(藤岡) ちゝぶミち(秩父道) 右髙﨑」と刻まれているらしい



さらに400m程進むと立派な弁天池のある真言宗神明山西光寺



西光寺の道を挟んで西側に「佐野の船橋歌碑」がある
石碑は摩耗して読めないが解説板によると馬頭観音の線刻と舩木観音の4文字が刻まれている
ここを下ったところが佐野の渡しで木橋が架かっている




道沿いに300mほど進むとあるのが「漆山古墳」
このあたりには多くの古墳やユネスコの世界の記憶に登録された日本最古の石碑(上野3碑)などがある



定家神社
鎌倉時代の歌人藤原定家が祭神


境内右手に御堂がある
中を覗いてみると仁王像2体、お寺にある仁王堂だ
よくよく見ると阿形と吽形が左右逆に配置されているが由来のようなものは無い

佐野の渡しから烏川右岸に渡り上信電鉄線沿いに進む道もあるが
定家神社によると戻らねばならないので左岸側の上越新幹線高架下側道を進んで
一本松橋で烏川を渡った


一本松橋から赤城山


橋から上流 浅間山が白く見える
川の右側に大きな石が見える
「川籠石」(こうご石)というそうで川を渡る場所や水嵩の目安にしたそうで、「川越石」とも書いたようだ
メモ:烏川三石



橋を渡り高崎商科大学の信号を左折すると薬師沢という小沢に出る
角に道祖神などある、祠は薬師堂か
ここを薬師沢に沿って登る



それらしい道だがこの先上信電鉄線で行き止まり



線路わきをよく見ると、右の白い標識のところに踏み石が両サイドにあり
渡った形跡があり先に歩道があるのでここを横断



さらに竹藪の中の小道を突破 古道を歩いている雰囲気は満点だが先が心配



台地の市営団地を抜けると山名八幡の裏手に出た
弁財天や三社がある


山名八幡宮


参道は上信電鉄を地下道を潜る


参道入り口の「たちわりの石」



山名八幡宮から上信電鉄線に沿って田圃の一本道を進んだ
右手丘の上あたりに上野三碑の山上碑がある
線路の反対側に山名古墳群があるのでそちらの道が正しかったかもしれない
芳賀善次郎は山名八幡から山名古墳群先で鏑川を渡り七興山古墳を結ぶルート(B)と
鏑川を1.5km上流で渡る2ルート想定しており上流ルート(A)を本道としている
Bルートでは鏑川中に渡河の目印とした烏川三石と同じ様な「猫石」というのがあるそうだ



上信電鉄西山名駅
ここまで約3時間、9.8km歩いたので駅のベンチで持ってきたお茶と菓子でティータイム


電車は来ないだろうと高をくくっていたら電車が到着
上信電車に会えるとは運がいいのだろうか?



構内には上野三碑の案内板が設置されている
西山名駅について調べると面白いブログに行き当たった
昭和5年に上信電鉄が鏑川に「山名水泳場」というのを開設し
田中絹代らの映画俳優などが来て賑わったそうだ
「隠居の思ひつ記」(鎌倉街道探訪記33)
嘗ては群馬県民の豊島園(これももうな無いが)カッパピアの原型がここにあったとは知らなかった
出発前にブログを知っていれば良かったと思う



西山名駅から突き当りを右折たところに石仏群
右の如意輪観音の台座には二十二夜と彫ってある



鏑川堤防 ここを右に行く
この先の旧道は工場が出来たため右に迂回したらしい



鏑川に架かる松ノ木瀬橋



橋の袂に御堂があり覗いて見ると
薬壺を持った薬師如来の様な石仏が収められているので薬師堂だろうか?


表には壊れた如意輪観音の石仏 これも二十二夜塔かな



橋から上流 遠くに白く見えるのは浅間山だろうか 左に荒船山



橋を渡り鏑川土手を嘗ての渡河地点まで戻り南下する
ここは鎌倉街道らしい雰囲気



吉良上野介屋敷井跡井戸
碑文の吉良上野介義央とは忠臣蔵の敵役
考えてみれば上野介の上野は群馬のことだが、吉良家の所領がこの地にあったことは今まで知らなかった
メモ:家系図では吉良上野介義央は江戸鍛冶橋の吉良邸で生まれたことになっている
   ・名門の子が田舎の陣屋で生まれたのでは恰好が悪いので江戸屋敷で生まれたことにした
   ・ここで生まれたというのは吉良家の領地であったことなどから地元の創作ではないか
   などの説がある
メモ:「上野介」は官位の呼び名で領地とは関係無いが
    「守」は長官、「介」は次官


国道254号を渡った先に道標がある
「日野金井 鬼石秩父」と読める



近くに石塔が3基
右から道祖神・庚申塔と読めるが左のものは判別できなかったが
「六字名号塔」らしい 



更に南下し上信越自動車道を潜ると南へまっすぐ伸びる農道
正面の三角山は武甲山?



振り返れば上信越自動車道越しに赤城山や上州武尊山が良く見える



鮎川手前の集落 養蚕農家だった建物が残る



集落のはずれに「千部供養塔」なるものがある
天明三年(1783)の浅間山大噴火の被災供養塔
「千部」というのは、供養のために千人の僧が同じお経を一部づつ読むことだそうだ


様々な石仏石塔が集められている



鮎川の渡河地点



鮎川を渡る橋 橋から下流



対岸から左岸側の渡河地点を見る
対岸左奥に千部供養塔がある



土手を下りたところに小公園がある
街道には休むところは少なくここでトイレタイム



凱旋馬頭尊の石碑
碑文は摩耗して読めないが明治31年3月とあるので
日清戦争(明治27~28年)で死んだ馬の供養塔だろうか?



すぐ先の交差点に道標
「左○○富岡 右鬼石秩父」と読める



「寿〇貴金石」と読めるが意味不明 大正五年九月吉日建立
調べてみれば「寿無金石」は「寿命は、金石のごとく不変ではない」の意味だが



庚申山手前にある白石神社
ここから坂道になるのでここでランチタイム
出発から5時間余り19km



庚申山登り口付近にある二十二夜塔と道祖神2基



「手づくり村」?


自動車教習所先で右の細い道が鎌倉街道らしいが竹藪で進めないそうなので迂回
ここが鎌倉坂と呼ばれている


龍田寺 迂回した道



龍田寺から東南東へ約1km行くと美九里小学校に突き当たる
手前の墓地に石塔石仏が集められている
付近の土地改良事業や道路改修などで邪魔になったものを集めたのだろうか


美九里小学校から300m程東北東へ歩いたところに葵八幡がある



葵八幡
木曽義仲の愛妾・葵御前を祀ったと云われている



すぐ近くの道標 上部が割れて落ちたのか元々2基か分からない
左の道標には「大字川除至」と刻まれている。もう1基の道標は 「向左○○ 右○○」で読めない



道祖神と馬頭観音2基



神流川左岸(上州側)渡河地点 向かう側は武蔵野国


本日の鎌倉街道はここで終点とし帰りの藤岡駅へ向かう



葵八幡まで戻り北へ500m進むと庚申塔や馬頭観音が集められた石塔石仏群がある
元々はどこにあったのか今では判らないだろう



土師神社(どし)鳥居 
石塔石仏群 左から5・6番目の蓮華台座上に如意輪観音があったはず


土師神社の祭神は相撲の神様で、当時野外相撲がおこなわれた場所を「相撲辻」と呼び、土師神社の相撲辻(土師の辻)は大阪住吉神社と石川羽咋神社とともに、日本三辻のひとつとされてる


土師神社本殿

風化して字が読めないがこれが相撲額か?





本郷埴輪窯址
土師神社の祭神は埴輪を生み出したともいわれる野見宿禰(のみのすくね)
地域は埴輪を製造する土師部が居住していた地域「土師郷(はじごう)」であると推定されている



諏訪神社


境内にある養蚕業研究・教育機関であった高山社創設者高山長五郎顕彰碑



終点 藤岡駅 ここまで26.8km 7:35
  


八高線で高崎駅まで戻ると駅構内に上野三碑のレプリカが展示してあった




 中山道を日本橋から信濃の岩村田まで全行程の3分の1ほど歩きましたが
 次は標高の高い和田峠を控え雪解けまで休止することに
 そこで、雪の心配のない上州を通る鎌倉街道上道を歩いてみることにしました
 江戸期に五街道が整備されると利用は少なくなり
 近年の道路改修・農地整備・宅地造成などの開発により消失してしまった所が多く正確な行程とはいきません
 それでも、沿線の神社仏閣、石塔・石仏など往時を偲ばせるものも数多く楽しい旅となりました
 地元の群馬のことでも知らないことが沢山あることに今更ながら気づかされました
 時間が許せば通しで歩きたいものですが家庭の事情もあり日帰りを繰り返すことになりそうです

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