接触感覚のない経験とは、「イメージ」そのものである。そして、イメージと現実との不一致は自己を維持するための執着心を触発する構成素として、自律性を持っているかのように扱われる。そして私たちは、意志、発言、引きこもり、ヒステリー、頑固、容姿、役職、プライド、目的、目標・・・・などを形成し有機的(生命力を有すること)な個人を維持している。しかし、そこには一生命を観察し評価する人(これは幻術ではなく現実あり必ずその対象は存在する)がいて、その評価により観察対象は維持可能な構造を有することとなる。この生命の評価がなくては維持しているものは何にも意味のないものになってしまう。そして、維持可能な構造は観察者の「移ろう心」にゆだねられるが、「移ろう心」はコード化され、現在の言語にゆだねられ、必要であろう側面だけを削り出し言語とする。その言語により、意味のあるもの、興味のあるもの、攪乱であるもの、安定的であるものなどと評価され存在できるのである。
しかし、コード化は観察者の自己を維持するための相互作用の概念をあらわし、観察された領域で働く現象を表すのではない。観察者の人間的な意図の空間の中で生じたデータのもとに重ね描くことで観察者は対象の複製を創っているのである。そして言語は、ご存知のように不安定で、裏表があり、実に扱いずらいものだ。「心」を伝える言語の選択に追われ主義や体制、利益や支払に執着する自己を生み出しその結果、位相学的なものとしている。言語に操られる双方が存在することになり、言語が「心」を支配してしまうのである。
自己を維持するための情報とは観察者となり、観察対象となることによる言語での評価でしかない。幻術とはイメージと現実との不一致、接触感覚のない情報のことを言う。
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