教科書やマニアルにはない考え方。

これはいずれ本を書くためのメモみたいなものなので、理解不能・誤字脱字でいっぱいです(^▽^;)

施工管理工程表・・・【感知しない】から【感じる】へ その11

2013年04月14日 | 日記

 私は、人間は人生の旅路(道)というより川の流れのほうに似ていると感じている。歩幅でまたげるような小川でも、先を見通せない大河でも岩や落差(渦や滝または洪水そして、中州に取り残された一塊の水など)により変化をし、川という全体の中で再び一つになり大海原へと進んでゆく。そこに溶け込んでいる粒子は我々だ。岩にあたり波長を狂わせ渦となったり、何かに迷いただ一人ぼっちで中州に閉じ込められたり、今が最高の状態だと思っている時に急に重力に導かれるかのように落ちてゆくようなことを度々繰り返す。しかし、全体の行き先は大海原を目指しておりそこに何かがあるという幻想を抱く。その中の粒子たちはそのことをたいてい運命かのように口にするが、その意味をほとんどの粒子たちは知らず「外乱と乱雑」と出会うことは変化という苦痛の運命と感じていることだろう。しかし「外乱と乱雑」は川(社会や世界や宇宙)という活動する全体の流れであり、誰にも止めることの出来ない万物そのものの活動である。ということを前提とするならば、我々が経験し活動するの中での個人を含む万物の性格は、環境的因子や遺伝子的因子などで言い切れることではなく、循環型の秩序(雨→川→海→雲→雨→・・・)による思考と知性の変化(「外乱と乱雑」との出会い)の活動の過程に組み込まれた理性といえよう。

 思考と知性の変化の活動の過程は、他人にとっては矛盾した外乱になりうる可能性を持ってはいるが、それも全体の環境の一部である(気に入らない相手が存在する時、気の合う相手の存在よりも入念に観察をする。それは意識的に自分の環境の一部へ迎え入れているからである)。変化の活動の過程は、運命から自由を与えられるものであり決して運命とは感じない。もしも、運命と感じるとしたらそこには自由はなく苦痛だけが残る外部からの受け入れの出来ない「負のエネルギー」の消費となる。それも全体の環境の一部であるとしたら、「負のエネルギー」は中州に閉じ込められた水溜りのようなものである。「外乱と乱雑」を通して変化をし閉じ込められ身動きが出来ない状態となるが、再び「外乱と乱雑」は訪れる。増水や蒸発などの循環型の秩序により全体の環境の一部として変化をし自己に記憶と意味を与える(これも思考と知性の変化の活動の過程だ)。

 自己に意味を持つ人間は変化を恐れることを知らず、安定など求めない。なぜなら自由がその意味を超えて存在してからであろう。

 

『マルティン・ブーバー』

 彼は運命の存在を信じている。運命が自分を必要としていることを信じている。運命は彼を厳しくしつけたりせず、彼を待つ。彼は運命に向かって進むが、どこへ行けば運命が見つかるかは知らない。しかし彼は知っている。自分の全存在をもって進んでいかなければならないことを。どんなことも、彼の決定によっては起こらないが、起こることになっていることは、彼がみずから決定できるものを決定するときにのみ起こる。彼は種々のものごとや本能に支配される「取るに足りない、自由のない意志」を脇へ置いて、「偉大なる意志」に捧げなければならない。すると「偉大なる意志」は運命づけられた存在として定義されるのをやめるようになる。そうなると彼はもはや干渉をしなくなるが、同時に、ものごとが単に起きるがままにさせておくこともなくなる。彼は、みずからのなかから生じるものに、「世界の中に存在するという流れ」に耳を傾ける。世界によって支援してもらうためではなく、世界が望むとおりに世界を実現させるためである。

 


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