施工管理表も人の思考も本来、単純なパターン(循環型の秩序)による常に行動過程の途中である。しかし、そのパターン(循環型の秩序)は行動過程おいての思考の複雑化が進むとき、断片化と安定への憧れが急激に速度を上げはじめる(日常の些細な会話の中でも感じることが出来る)。その中には「何か新しいものが生まれるのか、それとも始まりの状態に変化していくのか?」と感じることさえもある。
思考の複雑化の原因はおもに「曖昧な情報の記憶」だ。真の情報に飢える時、苦痛のあまりに情報より結果と原因を欲しがりある意味、思春期のような変化をもたらす。
パターンが微妙に狂いはじめ(無意識的に誰かの「思考」や「もの」に誘導され、無意識のうちに自分の判断を外注する思考、つまり逃げ道を創るような断片化を繰り返す)、そのことに気付かぬうちに日常に迎え入れる。その循環型の秩序は再び元に戻れる状態をつくれなくなり螺旋を描くようになる。幅広く広がった渦の中(複雑化する施工管理表や人の思考)でたいてい人は外注化された逃げ道があるゆえに悪者探しを始める(断片化の中の更なる断片化)。すると人は自己の安定のため、自己を守るために全体を見ることを忘れ、螺旋の中心にあったものを事の発端と初期値を訂正し、新しい思考のような振舞いを始める。そのときにはもはや思考の中に知性の看取は負のエネルギーとし働き、曖昧な情報と記憶に自己の意味を見失う。もはや微妙に狂い始めた頃とは打って変わり、他人の知性をただ否定するだけの「受け入れの出来ない思考」となりその否定はさらなる断片化を生みパターンを複雑化してゆく。調和を壊す「カオス」の出現だ。調和が壊れ変化が訪れるときそこには無秩序が発生する。しかしその無秩序は循環型の秩序の典型的パターンの一つでもあり、恐れるに足りない現実と向き合うことの出来る真実でもあり一瞬の出来事でもある。我々はこのとき地獄の暗闇のような現実に苦痛を感じるが、この無秩序が螺旋を描く中心、真なる「情報」だ。暗闇の中「ガイア」である。新しくとも古いわけでもなく、可能性のある変化として迎え入れることが出来る秩序の始まりだ。
思考とは、経験と記憶の中でしか育たない。しかし、経験と記憶の判断は各個人により角度が違う(同じような体験をしても文脈が違うように)。つまり、迎い入れる開かれた心と、新たな経験と知性の看取により知覚器官を育て、直感を育てる「ガイア」を産む「カオス」の良きパートナーとなる。そのためには「情報」という全体が関連しあう「情熱」と変える、こころの火種が必要になる。「情」に「報いる」または「in-formation(情報)」「形づくる」ための「情熱」が必要不可欠の根源であると私は疑わない。ローカルな部分では最上の「情」「報」を待ち望み、「情」「報」のないところでは「情」「報」に対し最悪な「情」「報」で返してくる。それは当たり前のパターンであり誰もが知っている。しかし皮肉なことに我々は固執化してしまう。つまり、縦割り(断片化)になった「情」に「報いる」ための「熱意」があるとするなら、思考の変換ではなく、迎え入れる思考(全体の行動過程、流動する思考)として経験と記憶として、ローカルな部分もあらゆる角度から通り抜けなくてはならない(実際には忍耐力と時間を要する)。螺旋を描かせているのは知性の看取であり、さらなる縦割り(断片化)を促すのも知性の看取である。「カオス」のパートナーである「ガイア」なら文脈にならない「レアマインド」の存在が重大な意味をもたらすことを知っているだろう・・・。
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