2月24日 台湾から来日された台南市南安國小の元校長先生が長野市立若槻小学校の再建された金次郎像に御対面されました。
2010年に生徒が触っただけで崩れ落ちてしまった若槻小学校の二宮金次郎像。たった一人の生徒が「勉強の神様がいなくなった。」とつぶやいたことに校長先生を始め関係者が奔走して寄付を集め、9か月後には再建がなされました。
もっとも安易な方法は取り壊すことだったと思います。二宮金次郎像には必ず寄贈者がいらっしゃって、ほとんどが故人となっています。寄贈者のご子孫関係者を探すのは大変なご苦労であったことと推察します。
太平洋戦争終戦までは台湾にも小学校を作り、日本人の教員を送って日本式の教育をしており、小学校には二宮金次郎像も設置していました。現在も残っているものは少ないですが、台南市の南安國小には金次郎像が残っており、突然訪問した筆者にも当時の校長先生からご案内して見せて頂きました。
その元校長先生が長野にスキー遊びに来日されましたので再建された金次郎さんに対面していただきました。以下は信濃毎日新聞記事です。
長野県の八ヶ岳山麓をコトコト走る高原列車のJR小海線に岩村田という駅があります。昭和20年頃この駅の駅長さんをされていた五十嵐金次郎さんが自費で駅前広場に設置したものが壊れてしまったのだそうです。筆者はこんな逸話を持つ金次郎像を2008年4月に青木近戸さんのご自宅の庭に見つけました。
昭和の初めのころ国策で埼玉県日高市に日本全国から入植者が集められ開墾が始まった。住民は生活の苦しさから昭和9年に二宮尊徳の報徳仕法を実践するために「日高報徳神社」を設立した。しかし、折角開墾したこの土地はその後の太平洋戦争において陸軍の飛行場に没収され、住民は高萩地区と高麗川地区に分けられてしまった。
戦後、飛行場は解体されたが元の高萩新宿区と高麗川新宿区に分断されたままであった。そこにあった報徳神社も別々に高萩報徳神社と高麗川報徳神社の二つに分社した。
その後、夫々の社殿は地元民に大切にされてきたが昭和49年(西暦1974年)に報徳神社建立40周年記念誌を出版するに当たり苦労した長老たちの生きてる間に二宮金次郎像を作ろうという話が持ち上がった。紆余曲折しながらも神社とは切り離して「ふるさとづくり委員会」として住民有志と区内の企業様の協力と寄付で手作りしてしまいました。思えばこの金次郎さんも今年は齢50歳になるんですね。