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清水教会聖堂の存亡危機に思う

2019-10-10 11:45:46 | 日記
清水教会聖堂の存亡危機に思う

歴史的にも文化的にも貴重な教会の建物が、理不尽にも取り壊される恐れに直面し、今や、危機的な状態にあります。 司教・主任司祭、それに忖度するわずかな信徒委員によって、あらゆる良識と理性的な判断が一切踏みにじられ、一方的に進められています。

 思い余って、教会外の有識者の客観的な意見を聞いてみたところ、明解なコメントを頂きました。そして匿名を条件にその骨子を公表して、世に問うことに同意を得ました。ブログの形で広く拡散したいと思います。
 以下、その人のご意見を要約したものです。

① 「補完性の原理/原則」と言う<摩訶不思議>な論理をふり回す教会当局者の暴挙について、まず一言。
 聞いたこともないような言葉だが、要は、「信徒たちが判断し、意思決定する当事者能力がないとみなした場合は、教会当局者が、信徒の意思を確かめることなく、教会に関する事柄を信徒に代わって決定することができる」と言うような意味だ…と。
 信徒の意思を集約し、信徒の明解な意思決定を導き出すことのできる主体的で有能な信徒代表を、正当な手続きを経ることもなく、聖職者とそれに忖度した少数の信徒委員が強権で不当に解任しておいて、代わりに主体性のないイエスマンだけで秘密裏に、自分たちの都合だけで決めるのが、「補完性の原理原則」だと言うのなら、それは完全に時代錯誤の不正な教会運営というほかない。
直ちに、信徒の意思を代弁できる信徒委員を改めて選任し、信徒総会を開き、信徒の自由な意見を聞くべきであろう。

② 司教や主任司祭の側に、清水教会で<何を建て何を壊すかについて>、すでにはっきりした方針があるなら、それを全信徒に開示して、それに対する信徒の自由な意見を公の場で聴取し、多数の同意を取り付けなければならない。信徒の同意が得られない事態を恐れて、「信徒総会」で建設関係のことを話すことを禁じ、秘密裏に形式的に事態を憂い、介入と手続きを進め、一方的に決定し、強引に信徒に押し付けようとするのは、教会運営として<正しいやり方>とは言えない。

③ 聖堂を修理するにしろ、取り壊して新築するにしろ、相応の費用がかかる事業となる。その費用が信徒の負担になるのなら、その事業着工に先立って、計画の目的を明らかにし、プランの詳細と予算の数字を開示して、信徒の総意による賛同を得ることが必要になる。
また信徒の側は、同じ目的を達するために、具体的な対案(代案)を提示する権利があり、教会当局案と、信徒案とを平等に比べて信徒の判断にゆだね、信徒の選んだ方を最終案として採用するのが、教会当局者の正しい態度である。
 一旦決定がなされ、その費用の捻出を求められるのは、信徒であるから、教会当局案が採用されるためには、信徒案よりも合理的で、安価であることが必要である。

④ 具体的には快適で耐震性のある信徒会館(司祭館)の建設は必要であろう。しかし、典礼・祭儀の場(聖堂)をそれに付帯して新築するか、現在の聖堂を耐震補強するかは、費用対、効果の面から精査されなければならない。現在の聖堂を膨大な解体費をかけて取り壊し、信徒会館・聖堂を新築するより、耐震補強する方が、数千万円も安くなるという試算があると言う。
信徒は、それぞれの案の具体的詳細を知ったうえで、自分たちの選択意思をあきらかにする機会が与えられるべきである。その手続きなしに、強権的に教会当局案を押し付けられた場合、信徒はその費用負担に応じる義務はない。
特に、現聖堂の取り壊しが、大多数信徒の同意なしに強行されるような事態が起これば、「工事差し止めの仮処分を求める訴え」を起こすことを視野に入れなければならないだろう。

⑤ 現在の清水教会聖堂の歴史的、文化的価値を認めて、その保存を求める市民団体が結成されていると言う。その団体により短期間に約8000名近い署名が集められたが、主任神父・司教もその受理を拒否したと言う事実。しかし市民団体は、日本を含む世界の宣教地を所管する、ローマ・ヴァチカンの福音宣教省の長官、フィローニ枢機卿あてに、その膨大な署名を送付したとのこと。又、同教会の不当に解任された元信徒委員を含む有志信徒たちがから、事態を憂い、介入と善処を求める複数の嘆願書が、ここ相次いで長官のフィローニ枢機卿に送られたと言う。
教皇来日を前にして、教会側は信徒に対して、「補完性の原理・原則」などという、一般社会では到底受け入れられない暴論を引っ込めて、謙虚に信徒と向き合い、その声を聴くべきであろう。(Y・S)



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1 コメント

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Unknown (チコ)
2019-11-30 16:59:11
御聖堂の建て替えか存続かの問題で、主任司祭、司教様を聴く耳持たないとか、権限の乱用みたいなことをいうのはどうかなと思う者です。
確かに歴史的建造物かもしれませんが、祈りの場であるはずの教会が、主任司祭や司教様を批判する場になっているようで悲しくなります。
建物は建物でしかありません。壊されたらもう後には戻りませんが、もし壊されるようなことになったら、これから歴史を作って行けば良いだけのことです。
建物に執着して、主任司祭や司教様のお考えを批判し教会を二分させようとする方々は何者なのでしょう。
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