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戦争展

2019-09-24 15:59:57 | 清水の戦争展
太平洋戦争で孤児>になった子供たちは
今年は「清水戦争て」が20周年を迎えます。いろいろなテーマを取り上げ、そこから見えてくる「戦争とはなにか?」を考えてきました。
太平洋戦争で両親や保護者を失った孤児は12万人(1948年調査)ともいわれています。
今年は、この街で「戦争孤児」にはどのような人がいて、どのように生きてきたのか…知りたいと思いました。が調べようとするとかなりのハードルがあり、実際、当事者に会うことが難しいことが分かりました。一つは、80才以上の高齢者で、
その関係者を含めすでに亡くなっている人が多いこと、もう一つは、自分が「戦争孤児」だと言うことを家族にも隠してきた人が多かったので、今更話せないのです。

「自分が戦争孤児だと知られたくはない」
戦争孤児には民間の就職先もなかった高校以上の学歴を…と思った孤児たちは、新聞配達などをして、定時制高校に行けた人はま幸い。学歴があれば国家公務員試験を受けて真面な就職ができたからです。がそういう人は少なかったのです。

民間空襲被害者(孤児を含め)一切の保証がない.
元軍人軍属には戦後、手厚く生活保障をしているのに、一切の保証がない。孤児の中には、親と一緒に死んだ方がよかった…と思った孤児たちは、国が起こした戦争で孤児になった。しかし国は、まるで孤児などいなかったかのように生活の保障はなかった。国は、元軍人軍属家族にはのべ60兆円もの恩給を支給している。
欧米諸国では任官の空襲による被害者にも同じ保証をしている。日本はなぜ軍人軍属にだけなのか?
空爆などで身体障害を負った民間人には、維持斤50万円支給する救護法案を目指してはいますが、孤児は対象外なのです。


秋田での「涙のマリア様」イベントと、秋田教会の人に会って…

2019-09-17 15:15:49 | 教会
カトリック信徒・聖職者のの皆さま、カトリック関係者の皆さま、こんなことがありました、どう思いますか?

秋田 「涙のマリア様」のイベントに行きました。オーストラリア、アメリカ、ベトナム、韓国からも参加者があり、1日目が200人、2にちめは300人位だったでしょうか。
東京大司教、菊池大司教(新潟司教兼務)が来られミサや説教、聖体行列、ゴスペル・コンサートがありました。
菊池司教の話の中で、印象に残ったのは「苦しみを受けて、漫然と苦しまないこと。神の恵みのチャンスなので、「どうしてこの苦しみがあるのか…神からの意図を考えること、それにより、信徒は成長する」と。

秋田教会の友達がいて、帰りに秋田教会に立ち寄りました。その時に、事務所の女性と話しているうちに、主任司祭って何か? 司教って何か?を考えさせられました。
秋田教会で、新しい主任司祭が来た時、それまで大切にしていた「聖しつ」が秋田杉の独特の形の物だったのですが、その神父が「火事になるとまずいから金属のものにする」と、信徒の意見もろくに聞こうとせずに変えたので信徒が反発し、ついにその神父様は名古屋に異動した」とのこと。
その神父様は、「自分が希望すれば、信徒は従うと思っていた」…と。秋田教会でも聖職者は「自分の権限は大で、信徒の希望や気持ちを聴く必要はない」と思っていた…、この神父も「第二ヴァチカン公会議文書」を読んでいない、信徒と聖職者の関係が変わったことを知らないのではないか?
日本の聖職者も信徒も、公文書を読んで勉強するべきだと、強く思いました。

教会

2019-09-04 19:05:11 | 教会
清水のカトリック教会


清水カトリック教会は、1935年外国人の宣教師が、岡町の清水港が見える高台にある元徳川家康の「浜御殿」の跡地に作られました。
双頭のゴチック様式、木造檜造りの教会で、築後83年の日本建築でデザインもすばらしいと言われ、静岡県内には一つしかない日本建築の教会です。
「古教会の写真集」に掲載されていますが、内部の壁や天井の色はマリアン・ブルーと言われ、写真で見るよりも実際の方が美しいと言われています。
6年位前までは、この聖堂は大地震で「すぐに壊れるだろう」と言われていましたが、日本建築の専門家が詳しく調べたところ、柱の傾きもなく、天井をつってある木材もしっかりしていて、丈夫で優れた建物だと分かりました。ゴチック様式で天井が高いのですが寺とは違い空洞なので軽く、土台の柱が当時としては珍しくコンクリートで補強されていたので、戦時中(1944年頃)の3回の大地震(震度7~8)にも少しの影響もでていませんでした。

<戦時中の爆撃で、聖堂に駆け込んだ市民を助けた教会>
1945年7月7日の清水の大空襲と7月31日の艦砲射撃で、この街は焼け野原になりましたが…この聖堂だけは残り、傷ついた多くの市民がこの聖堂に駆け込みました。教会の宣教師と、親しくしていた近くの野沢医者がケガ人の治療に当たり、石の奥様は、近くの農家のい人たちが食べ物を医師に持ってくると、教会に運んで信徒と一緒にその人たちに食べさせ、多くの市民が助かったと証言した人がいます。
そのためにこの教会は「平和の象徴」として、平和巡礼の場・地として、夏の終戦の時期には一般市民からの訪問やイベントもあります。