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“ 嵐が吹き消した 恵みのろうそくを 再び取り上げ、それに新しい明かりを灯さなければならぬ。” 教皇ヨハネ二十三世

『学校いじめ』報道を見て

2006-11-12 23:28:02 | Essay

教育は「支援」である。というか、支援しか出来ない。
やるか、やらぬかは、結局のところ個人の選択でしかないのだから。
そして、学校教育に、人格錬成を期待するのは愚かなことである。
所詮、子どもは知性獲得の過程の、ごくごく初期段階にあるのであり、知性を獲得するまでは「子ども」でしかない。
詰まるところ、「犬さん猫さん」なのである。
よって、ここまで学校に白紙委任を行なわない時代においては、学校教育に外部の者が介入を行なう時代においては、学校教育が混迷してしまうのも無理からぬことである。
言葉遊びの感こそあるが、まさしく「教育」ならぬ「狂育」である。

・・・ということを、以前に話したら、多くの学校の人々が同意していました。
学校いじめ事件で、教員の責任問題が問われたり、単位履修ミスで学校の不手際が問われたり。学校教育関係の話題には事欠かない。ここ一、二ヶ月はいろいろございました。私自身は、後者の履修問題は学校の責任だとは思うのですが、前者のいじめなんちゃらは、正直学校に責任を問うことは誤りだと思います。
代用教員としての経験から、冒頭に挙げた視点からみつめれば、ですが。

いじめられる。これはもう人間なら、大人であれ子どもであれ当たり前のこと。
いじめる。これも同じこと。
ですが、それへの対応はまさしく人間一人一人で異なります。
かつて、私はいじめられたことありますが「私のコブシが光って唸る!」ぐらいの勢いで逆襲しました。相手の頭を割ってしまい、「やりすぎだ」と、私が怒られました。我ながら、たくましすぎた小学生でした。
巷を騒がす、今の事件の子は、自殺という対応を選んだようです。・・・情けない!誰に相談することもなく、歯向かうでもなく、耐えるでもなく、ただ逃げただけ。なんと女々しいことか。
誰かに助けてもらおうとする。助けてもらえなければ、違う世界に逃げるなどと、とんでもないことです。
子どもは弱いから、などと理由にもならない。人間は本質的に弱いもの。強くなろうとするところに、美点があるのです。

けっきょく、救える人間は救えますが、救えない人間は救えない。
Aという道を選んだ人間に、Bという道はもう視えはしない。その選択の責任は、本人にしかないのではないでしょうか。
あるいは、本人とその近親者にのみ・・・にしかね。
同情は大切ですが、過ぎた同情は、害悪でしかない。

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