聖心聖堂が優美なその姿を現してから早や12年となる1918(大正7)年6月6日木曜日)。
ペティエ神父の叙階50周年記念日当日である。
この素晴らしい日を寿ぐために、聖堂の入口には花と緑があしらわれ、祭壇にはユリの花がひときわ華やかに飾られていた。
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東京大司教レイ師による午前7時からミサから祝典の一日が始まった。
続いて10時、荘厳ミサの開始を告げる鐘が鳴り響く。
司式を務めるのはペティエ神父のほか、東京神田教会主任司祭シェレル神父、ヴァスロー神父、東京築地教会主任司祭ステイヘン神父。
聖歌隊にはプロテスタントの信者を含む居留地の著名なアマチュア音楽家らが特別に参加している。
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御堂を埋め尽くす人々の中には、カトリック信者ではない人々も大勢含まれていたが、彼らが素晴らしい音楽を楽しむためだけではなく、横浜において長きにわたりその善良さで知られた人物に対する尊敬の思いからこの場にきたこと集まったのは言うまでもない。
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聖歌隊の指揮を務めるのは、当地に一時滞在しているオーストラリア出身のバイオリニスト、デルモット氏。
オルガン演奏はサマトン氏、聖歌隊にはクリスティ、ゴールドマン、モリソン、パークヒル、ペイン、リュッグ、スザー、トウエィツ夫人らとアレアン嬢、ホタリン、キリロフ、マルチル、フィリップソン、サマトン、スザー氏等が参加した。
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居留地の名士、モリソン商会のモリソン氏の夫人は昔ながらの清らかさと耀きに満ちた喉を披露。
ペイン夫人の落ち着いた調子のコントランルトとゴールマン夫人の優美なソプラノが溶け合って見事なハーモニーを響かせ、アニエス・アルクィン嬢は“主は我らの牧者” を、思いを込めて歌い上げる。
そしてキリロフ氏によるベネディクトゥスもまた満場の人々を魅了した。
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演奏家にとって慣れ親しんだ楽器以外を扱うのは容易ではないはずだが、サマトン氏は聖心聖堂のオルガンを見事に弾きこなし、力強くしかも繊細な響きで御堂を包んだ。
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荘厳ミサを終えた午後2時。
信者を代表してルイス・スザー氏がペティエ神父に心のこもった祝辞をおくり、信徒からの寄付金3,000円を金一封として神父に贈呈した。
多くの友人らが神父の善行と自己犠牲を讃え、長寿を願いつつ熱い握手を交わす。
午後3時から園遊会が催され、その約2時間後、神の祝福のうちにこの記念すべき催しは幕を閉じた。
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当日、ペティエ神父の肖像写真と共に神父のこれまでの足跡が綴られた美しい記念の小冊子が教区民に配られた。
その最後は次のように結ばれている。
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ペティエ神父の自己犠牲は、彼が四半世紀以上にわたり教区民に無償で奉仕したこと、また教会の改築の費用を自ら負ったことに加え、教会とその会衆への私心のない真心からの、思いやりの記念として、いまも、そしていつまでも記憶されるであろう。
神父のこれまでの業績と、子のために苦労をいとわぬ父親のような心に対する深い感謝と尊敬、そして愛情の印として、教区民たちは50周年を迎えたこの機会に、教会の負債を清算するに十分な額の寄付金を神父に贈呈した。
これにより彼が教会のために願い、取り組んできたこと全てをかなえた後の最後の願いであった、教会の借金からの解放が実現した。
そして彼の生涯の働きに対して完全なる成功の王冠が与えられたのである。
追記:
叙階50周年を迎える以前から老齢を理由に辞意を示していた神父は、1919年3月、許されてフランスに帰国。
その後、フランス南東部サント ボームでホテルのチャプレンを務めたのち1922年よりフランス南部の都市モンブトン(おそらくは神父の属していたパリ外国宣教会の養老院)で引退生活を送る。
1928年に自らが洗礼を受けたシャトージロンの教会にて叙階60周年祝ったのち、1930年8月18日モンブトンにて帰天。
聖ラファエル墓地に埋葬された。
図版:
・ペティエ神父肖像写真『声514号』大正7年9月15日
参考文献:
・板垣博三『横浜聖心聖堂創建史』エンデルレ書店、1987
・The Japan Gazette, June 6, 1918
・The Japan Gazette, June 8, 1918
・『声511号』大正7年6月15日
・・声512号』大正7年7月15日
・パリ外国宣教会ウェブサイト https://archives.mepasie.org/fr/notices/notices-biographiques/pettier