On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■「横浜外国人学校」新校舎視察会

2021-04-28 | ある日、ブラフで

横浜に住む外国人家庭において子供の教育は長年にわたり頭の痛い問題であった。

日本語以外のことばを母国語とする子供たちのための本格的な教育施設が乏しかったのである。

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そこで彼らは本国同様のパブリックスクールを設立するために奔走し、1887年(明治20年)、ブラフ(山手町)179番地にヴィクトリア・パブリックスクールを開校させたのである。

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英国人の子供たちの多くがこの学校でスクールライフを謳歌した。

居留地の名士ウィーラー医師の子どもたち、シドニー、ジョージの二人も、関東大震災の体験を綴った『古き横浜の壊滅』の著者O. M. プールもヴィクトリア・パブリックスクール出身である。

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しかしこの学校は設立当初から財政面での困難を抱えており、結局その問題を解決できずに短命に終る。

1894年12月8日のジャパン・ウィークリー・メールに次のような短い記事が載った。

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ヴィクトリア・パブリックスクール

人々から深く愛された者は、長く患った末に死を迎える―これは自然の摂理と言われている。

そうするなかで、愛される者は迫りくる死というものに少しずつなじんでいくのである。

ヴィクトリア・パブリックスクールの場合もこれに当てはまる。

長年にわたり病に苦しんできたために、死は衝撃というよりむしろ救いとして訪れる。

そして恵み深い女王陛下を記念するものとして英国人コミュニティが注いできた愛情に満ちた思いすらも、このできごとをひどく嘆いてはいない。

私たちはこの問題についてこれ以上語るべき言葉を知らない。

挽歌も墓碑もないままでこの失敗を葬らせてほしい。

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ヴィクトリア・パブリックスクールが閉校して以降、ブラフには小規模ながら英米系外国人児童のための教育の場がいくつか作られた。

しかしいずれもコミュニティからの組織的な援助を受けられなかったため経営困難に陥り、長く続いたものはなかった。

§

1917年頃に英国人マンダー嬢が始めた山手73番地の学校もその一つとなるかと思われた。

生活費も賄えないほどの薄給に甘んじていた教員たちが、ついに見切りをつけて全員帰国してしまったのである。

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これは英米系外国人児童のための学び舎が横浜から消え去ることを意味していた。

約40名の生徒達が教育の場を失う事態に直面したのである。

§

この時、クライスト・チャーチのストロング牧師が立ち上がった。

もともとマンダー嬢の学校を支援していた彼は、学校を存続させるだけではなく、これを機により本格的な教育機関を作り上げようと動き出したのである。

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1919年7月23日、ストロング牧師の呼びかけにより学校設立に関する会合が開かれた。

マンダー嬢は出席しておらず、新たな校長として上海大聖堂学校の元校長フレーザー嬢の名が挙げられた。

打診したところ、教師4名を雇い、適切な給与を支払うことを条件に承諾済みだという。

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資金面では個人や企業からの献金を募るほか、学校債の発行などが検討された。

生徒の親の多くが外国企業の従業員であることから、これらの企業による支援が期待された。

子供たちに十分な教育を与える機関がなければ親は横浜を去ることになり、企業は経験豊かな社員を確保できなくなる。

もし彼らが残ったとすると、教育不足の若者という負の遺産を得ることになり、いずれにしてもコミュニティにとって不幸な結果を招く。

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会合ではストロング師、ウィリアム・マーティン氏、ジョージ・ベル氏、H. G. ハミルトン氏の4名が設立委員として任命された。

その後メンバーは6人、さらに12人へと拡大する。

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1920年5月、理事会が学校を正式に買収し、フレーザー校長のもと、新たな教師陣とストロング牧師による英国式教育がスタートした。

元々学校のあった山手73番地に加え、クライスト・チャーチの牧師館(山手234番地)の一階を校舎として使用していたが、後者は一時的に借りていたに過ぎず新たな場所を探す必要があった。

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選ばれたのは山手76番地Bに建つ2階建ての建物である。

敷地約420坪。

その一部を整備すれば運動場も設けることができる広さである。

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1921(大正10)年9月12日(月曜日)、新学期を間近に控えた「横浜外国人学校」において新校舎視察会が開かれた。

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午後4時、生徒の父兄や寄付や学校債購入など財政面での支援者に加え、英国総領事ハミルトン氏、英国大使館商務顧問クラウ氏、ユニオン・チャーチのマンチェスター牧師、東京アメリカンスクール校長や教師数名を含む約200名が続々と校門をくぐり、フレーザー校長をはじめとする教師陣と学校スタッフ、理事会メンバーらに出迎えられた。

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建物内は新築と見紛うばかりにみごとに改修されていた。

広々としたエントランスホールを進むと、教室が4室とクロークと手洗い場がある。

それぞれの教室には輸入物の真新しい机が並び、正面には「黒板」ではなく生徒たちの健康に配慮して目に優しい「緑板」が取り付けられていた。

2階には教室としても使用可能な図書室のほか、校長と教師のための部屋が3室、食堂とバスルームなどがある。

現在の生徒数は56名であるが、100名まで増えても十分に収容できる立派な校舎である。

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心地よく整えられた教室や、あけ放たれた窓の向こうに広がる港の風景に目を見張りつつ、人々は、開校に向けて尽力してきた理事らに心から感謝の言葉を贈った。

「横浜外国人学校」はコミュニティの祝福のうちに、ここに新たな一歩を踏み出したのである。

 

図版(上から)
・The Japan Gazette, Sep. 13, 1921
横浜外国学校新校舎
校舎として使用するため、出資者を代表して理事会が買収したブラフ76番地Bの建物。秋学期は明朝スタートする。
筆者注:1915年発行のDirectoryには、ブラフ76番地Bはオーストリア=ハンガリー帝国領事館の所在地と記載されている。

・The Japan Gazette, Aug. 27, 1921
横浜外国学校
9月17日(水)ブラフ76番地Bの新校舎にて学校再開。
授業料(1学期):プレパラトリー 50円、一般 10歳未満 70円、10歳以上 90円
理事会にて入学願書受付中。
願書書式の問い合わせは名誉理事代理D. Mackenzie(横浜市山下町26番地、私書箱219号)まで。

参考文献Sep.
・The Japan Advertiser, July 26, April 20, 1919
・―, May 6, 1921
・The Japan Gazette, July 25, 1919
・―, May 15, 1920
・―, May 19, Sep. 13, 1921
・The Japan Weekly Mail, Dec. 8, 1894
・The Japan Gazette Directory, 1915

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