1922(大正11)年5月25日(木曜日)の午後8時半、横浜在住の外国人のサークル、横浜リテラリー アンド ミュージカル ソサエティ(横浜文芸音楽協会)の例会がヴァン・スカイック・ホールで催された。
フェリス和英女学校の生徒らもコーラスを披露することになっており、ピアノ伴奏を務める音楽教師、ミス・モールトンと共に会場の右の窓側の席で出番を待っていた。
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ミス・モールトンはカナダ人で、早くに母親を亡くし9歳年上の姉に育てられた。
姉が牧師のミーチャム氏と結婚すると幼い妹も同居することになり、教会活動と音楽に親しみつつ成長した。
姉夫婦が伝道のため来日するのに伴い、20代後半を沼津、その後築地居留地で過ごす。
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一家は一時カナダに帰国したが、4年の後、ミーチャム師が横浜ユニオン教会の牧師に就任することとなり、1887年(明治20年)、35歳の時に姉夫婦と再来日。
ブラフ(山手町)66番を住まいとした。
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その後、フェリス和英女学校のブース校長に招かれて同校音楽教師に就任。
ピアノ・オルガン等の器楽と声楽の教育に取り組むこととなった。
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就任してまもなくミス・モールトンはトニック・ソルファ(字韻記譜法)が日本人の生徒に対して効果的であることを聞き、横浜でトニック・ソルファを教授していたミセス・パットンの門下生となって学ぶ。
これを声楽の授業に取り入れたことが奏功し、フェリスは次第に音楽において高い評価を得るようになった。
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以来、30年以上にわたってミス・モールトンは音楽のほかバイブル・クラスも担当するなど、音楽教育と伝道に力を尽くしてきた。
その間、姉はすでに世を去り、義兄ミーチャム師もカナダに帰国した。
彼女自身の髪の色もとうに薄くなったが、生徒たちに囲まれてピアノを演奏する務めは今も変わらない。
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ストロング牧師の司会進行によりプログラムは進み、いよいよミス・モールトンと生徒達の出番となった。
艶々とした銀髪に黒繻子の服、薄物のショールを羽織ったミス・モールトンに率いられて生徒達が登場。
ステージにはツツジの花が飾られている。
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“My Old Kentucky Home(懐かしきケンタッキーの我が家)”、次いで3部合唱の“Come Where the Little Bloom”が終わると、聴衆から大きな拍手がわき起こった。
ミス・モールトンはピアノから立ってにこやかに生徒達にアンコールを指示した。
アンコールの最後はキングスレーの美しい詩を曲にした“A Farewell(わかれ)”。
6人の生徒達による合唱が始まった。
♪ 私の美しい子よ、私はいまお別れする時に
♪ 御前に歌ってあげるひとつの歌もありません
♪ 別れの日のこんな沈んだ暗い空には
♪ どんなヒバリだって歌えないでしょう
♪ けれど別れる前に御前にあげる
♪ ひとつのさとしがあります
この歌詞まで来たところで、ごく軽いカタッという何かが触るような音がして伴奏が途絶えた。
聴衆の驚愕の表情に生徒達が驚いて振り返ると、鍵盤の上に銀髪を散らしてミス・モールトンが突っ伏している。
手は譜面台にかけたままであった。
ざわめきの中、二、三人の人々がステージに駆け上がり、間もなく医師が駆けつけたが、ミス・モールトンは心臓麻痺により既に息絶えていた。
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2日後の英字新聞に、C. G.とのみ名乗るミス・モールトンの同僚による追悼文が掲載された。
♪ われを世につなぐ糸 いつの日か断たれ
♪ 歌うこともはやかなわずとも
♪ われ喜び叫ばん
♪ わが王の御前に目覚めて
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ジュリア・モールトンはこの歌をよく歌っていました*1。
その熱のこもった声から、歌い手自身の魂の感動が聴く者の心に伝わってきました。
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5月25日木曜日、彼女にとっての「いつの日か」が訪れ、「彼女を世につなぐ糸」は断たれました。
これまで30年以上にわたり彼女が最善を尽くして働いてきたホールにおいて、なじみぶかいリテラリー・ソサエティーの会員の前で、彼女が音楽を指導してきた生徒たちが、彼女自身の熟練したピアノ演奏にのせて “わかれ”の歌をみごとに披露していたそのさなかに。
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彼女はこの歌を何度か親しい聖歌隊員の埋葬のために歌いました。
祈祷の奉仕の際には、独唱で、また合唱で、天から与えられた清らかな声で会衆を天の国へといざなったものでした。
彼女の音楽的魂は、ピアノ、ハーモニウム、教会のオルガンを才能豊かに演奏することを通して、神々しいハーモニーを創造し、駆使しました。
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そして40年間(ママ)にわたり横浜と神奈川における音楽の集いは、モールトン女史の輝かしい才能によって豊かなものとなりました。
それは常に、宗教的な奉仕や、慈善や、栄えある務めを目的として、もしくは友人たちのために用いられました。
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そして長年にわたり途切れることなく献身的な働きを通して指導してきた何千人のうちの最後の生徒たちとともに、自らこの世で演奏した音楽の最後のフレーズは見えざる聖歌隊の輝かしい旋律に溶け込んでいきました。
その聖歌隊は彼女を世俗的な成功の場面から直接、彼女がしばしば歌ってきたふるさとへと連れて行くために訪れました。
すなわち彼女が最後まで心を込めてお仕えしてきた主の間近へと。
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「あまりに突然」、「あまりに悲劇的」そして「あまりに凄まじい」―何が起こったのか知ったときの人々の驚きの言葉です。
きびきびとした熟練の演奏者が、わずか1秒の後、こわばった手を鍵盤においたまま、死の静寂に頭を垂れた屍となったのでした。
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「突然?」―その通りです。
「悲劇的?」―おそらくはその通りです。
けれども「凄まじい?」―それは全く違います。
彼女が絶対的に信頼していた主の優しい御手によって仕組まれた、すばらしい召し出しの細部のひとつひとつが、神の愛の輝かしい印を示しているのです。
それは最も慈愛に満ちた優しさに包まれており、ジュリア・モールトンをごく親しく知る栄誉に与った人々は、召し出しが、喜びに満ちたすばらしい瞬間に、突然に、しかも苦しみを与えずに行われたことはまさに最高であったと、彼女のこの世における巡礼のしめくくりとして真に最高のものであったのだと認めます。
これ以外の終わり方を彼女は望まなかったでしょう。
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4年前に彼女は癌に襲われました。
手術によって一時的には抑えられたものの、完全に除去することはできなかった病に秘かに冒されて、部分的な障がいを負うようになりました。
衰えつつある力をできる限り生かそうと彼女は懸命に務めました。
そのなかで栄光に満ちたゴスペルのレパートリーの一曲である“神なく望みなく”*2 のなかの「われ知る かつては 目見えざりしが目を開かれ 神をほむ 今はかくも」という力強いリフレインに安らぎが増していくことを見出したのです。
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40年間にわたり働いてきたミッション・ソサエティーをリタイアする年齢に近づいてきたことから、最近では友人にこう打ち明けていました。
避けられないことではあるけれど、何もさせてもらえなくなる日が来て、親しい人々が先立ち、ほとんど一人きりになってしまうことが怖いと。
どこでどのように自分の地上における命の「夕暮れ」を過ごせばよいのか考えるのは難しいと。
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しかし主であり、彼女が身を捧げて以来待ちわびてきた救い主であるお方は、人生を全うさせました。
主の御計画は確かに最高のものでした。
苦しみもなく、ただわびしく時を待つこともなく、生気を失いつつ無為に日々を費やすこともなく、他人に頼らねばならない恥ずかしさを偲ぶこともなく、「ただ一度の声」に従って、速やかにすっかり解き放たれ、一瞬のうちに地上での輝かしい行いから、天の国の溢れんばかりの歓びへと迎えられたのです。
自ら選べるものなら、同じように逝きたいと思わぬ人がいるでしょうか。
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私たちのコミュニティーにおいてすら耳新しいこの知らせは、やがて方々に散らばった何千というフェリス・セミナリーの卒業生の家にもたらされるでしょう。
それらすべての人々から感謝の声が湧きあがることでしょう。
「なされることはすべてすばらしい」神への。
♪ やみ夜のとばりやがてひらけ
♪ あまつあけぼのあらわれきて
♪ さかえ輝くインマヌエルの
♪ くにの光は照りわたりぬ *3
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人の世が長くわびしくともやがてやすらぎの時きたる
必ずや夜明けが訪れ、夜の闇は去る
全ての旅は終わり、疲れを受け入れる
そして天の国が、真の心のふるさとがついに訪れる
C. G.
*1“Saved by Grace (Some Day the Silver Cord Will Break)”(筆者訳)
聖歌640「いつかはさらばと」の歌詞は次の通り
♪ いつかは「さらば」と わが友すべてに
♪ 言う時ありとも わが心安し
♪ 御顔を拝して われは告げまつらん
♪ 「恵みにわが身も 贖われたり」と
*2“Does Jesus Care”新聖歌358 「神なく望みなく」(中田重治 訳)
*3“The Sands of Time are Sinking”日本聖公会 新聖歌432「神の国」
写真:ジュリア・モールトンの墓(横浜外国人墓地)筆者撮影
墓碑は次の通り
「フェリス・セミナリーにて34年にわたり音楽教師を務めたジュリア・A. モルトンの思い出に愛をこめて
1852年7月28日トロントに生まれ1922年5月25日横浜に没す
この墓は彼女の生徒らによって建てられた」
台石には、本文にも引用されている聖歌“いつかはさらばと”の一節が刻まれている
「われ喜び叫ばん わが王の御前に目覚めて」
参考文献
・横浜プロテスタント史研究会『横浜の女性宣教師たち』(有隣堂、2018)
・『フェリス和英女学校六十年史』(フェリス和英女学校、1931)
・The Japan Gazette, May 27, 1922
・『横濱貿易新報』(大正11年5月27日)