よそみち自転車操業~よそみちさいくるらいふ~

人生も自転車をこぐように、
ひとこぎひとこぎ…
あせらず、あわてず、
ゆる~く、少しずつ進んでいこう…

早過ぎました

2009年11月05日 | 家族
晩秋とはまだ呼べないような10月30日
義兄が天に召されました。
52歳と2ヶ月の短い生涯でした。

臨終の前日、
実姉から『その日』が「どうも近いらしい」と電話で伝えられ、
まるで信じることはできませんでした。
何しろ、1週間前に父母を連れて
見舞いに行った際には
かなり痩せてこそいたが、自力歩行をして
「こんな状態があと2、3年は続くかなァ」
などと、言って元気に見えていたのですから

義兄は1年半の闘病生活を
同い年の妻である姉と共に送っていました。
病が発覚してからは、苦しい治療もあったでしょうが、
いつでも周りに気遣い、辛い顔ひとつ見せませんでした。

しかし病魔は日毎に肉体を貪りつくし
家族の献身的な看護も功は奏さず
二度とその目を開くことはありませんでした。


ここにひとつの新聞記事があります。

実際に読まれた方もいるかと思います。

そして、この記事の拡大コピーが
通夜・告別式の会場に飾られてありました。
実はこの記事の中の『評伝』は義兄の書いたものです。


義兄は某新聞社のスポーツ記者でした。
その仕事ぶりを同期の方々から伺うと
「まじめだけど、不器用だった」と
皆同じように話してくれました。

そんな彼になんとなく憧れ、
尊敬もしていました。

しかし、クソ真面目で要領の悪い性格のせいか
仕事がいつも忙しく、
たまに遊びに行っても
「忙しくて、愛想もなくてスマンなァ」と
ゆっくり話すこともあまりなかったのです。

それでも何かと心配をしてくれ、
ボクの結婚の際には我がことのように喜んでくれ、
息子にも声をかけてくれ、
我が家の家族を気にかけてくれました。
ありがとうございました。


何も自分の人生まで
要領悪く生きることはなかったのでしょうが、
真面目すぎて、与えられた天命を
そのまま受け取ってしまったのでしょう。

臨終の直前までも、
「指を折って『字数』を数えていた」と聞きました。
最期まで一新聞記者であった
彼らしい最後と言えるでしょう。

不謹慎だけど
「ちょっとカッコいいよ」


告別式の日、
斎場から戻るバスの窓から
『Wレインボウ(二重にかかる虹)』が出ていました。

音痴だったという義兄が
唯一カラオケで歌ったことがある曲は
忌野清志郎の『雨上がりの夜空に』だったと姉が言っていました。
その忌野氏の葬儀当日(2009年5月5日)も東京の空に
同じ『Wレインボウ』がかかっていました。
忌野氏の死去から半年後、
義兄も同じ虹に見送られて旅立ちました。


こんなふうに呼んだことはないのですが、
兄貴、そっちへ行くのはまだそうとう先だと思うけど、
そっちで会ったら今までの分、きっちりと愛想してもらうよ。
その時は、清志郎の『評伝』読ませてくれよ。
締め切り、だいぶ先だなァ」

義兄・哲朗。
1957年8月生まれ。
2009年10月30日没。
享年53歳。
サイコーにEオトコだったぜ!ベイベー!!

安らかに…

















最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (楽山)
2009-11-05 22:02:30
そうだったのか。

なんともコメントのしようもない.

返信する
Unknown (ボケちん)
2009-11-05 23:40:39
若すぎる死で残念です。
私たちもいずれ直ぐに50代になってしまいますね。
この数年、幾度か息子の同級生のお父さんが亡く
なったと 拝みに行くこともありました。
みなさん働き盛りの30代40代のお父さんです。
自分は大丈夫だと過信しないで 家族の為にも健康で
いなければいけませんね。

お義兄さんのご冥福をお祈り致します。
返信する
ありがとうございます (PaNTaH)
2009-11-06 09:39:25
>楽山君
病気が見つかってからのこと、「体力づくりに自転車を買う」と言うので、多少アドヴァイスをしたのよ。
購入したバイクは、G社のエスケープ3。何度乗ったのかなァ。
今は次男があちこち走り回ってる。
近いうちに住んでいた千葉周辺を『追悼ライド』してくるよ。

>ボケちんさん
ありがとうございます。

若く、現役記者だったために、過去知る限りでは最大級に盛大な葬儀でした。それがかえって悲しみを助長しましたが…。
大学では水泳部に所属していたので、特別に水泳関係には親交も深く、『S木D地』『K島K介』らからの供花もありました。

それでも、早すぎる死はなんの自慢にもなりませんよね。
そういう意味じゃ、カッコ悪い話です。
返信する

コメントを投稿