[ 明治の英雄 乃木希典 ]
【中村信一さんのFacebook投稿(2024.02.27)を再掲】
ロシア皇帝が感激した日本人の心意気
こちらの画像の建物は、中国・旅順に建つある「礼拝堂」なのですが……
この建物、日本人がロシア人の弔いのために建てた施設なのです。
「中国」にある、「日本人」が建てた、「ロシア人」を弔うための施設。
複雑な事情を感じさせる建物ですが、いったいどんな背景があるのでしょうか。
じつは、この施設はある人物が当時敵国であったロシアの人々を
弔うために建てたものなのです。
その人物とは、日露戦争で活躍した陸軍の大将 乃木希典 (のぎ まれすけ) 。
そして、礼拝堂がある旅順とは乃木が司令官となった日露戦争の陸戦が行われた土地でした。
旅順では、日露ともに多くの死者を出す過酷な争いが繰り広げられたのです。
1905年、苦戦の末に旅順での争いに、勝利をおさめることができた日本軍ですが、その被害は両国ともに甚大なものでした。
ですがそのような戦時中でさえ、乃木将軍は敵国のことを配慮していたことが知られています。
公の場でも「敵国の被害を忘れてはならない」
と述べるほど両国が負った莫大な被害に頭を悩ませていたのです。
そして、じっさいに乃木将軍は旅順にロシア兵を弔うための施設を建てました。
それが、冒頭にご紹介した礼拝堂です。
ロシア兵のための礼拝堂建設はなんと日本軍の慰霊より先んじて行われ、その事実に感激したロシア皇帝のニコライ2世は、自ら「参列したい」と発言しました。
その後も乃木将軍は、戦争の報奨金として受け取ったお金の一部を、負傷したロシア兵の治療に費やします。
こうした心からの援助により、敵だったロシア兵と乃木将軍の間に、国を越えた交友が芽生えます。
そして、乃木将軍の葬儀のときには匿名のロシア兵から複数点贈り物が届いたと伝わっているのです。
このように、乃木将軍の優れた人格によって、敵国同士だった日本とロシアのあいだに、心温まる友好が結ばれていました。
……しかし、乃木が戦争の被害と向き合い続け、敵対国にも敬意をもった言動をしていたことはあまり知られていません。
それどころか現代では、乃木将軍が軍国主義の象徴のように扱われ、乃木神社を参拝した議員が軍国主義を容認しているとしてバッシングを受けた事件すら起こったのです。
この事件からもわかるように、戦後になると乃木将軍の人間性は忘れ去られ、評価は大きく変わりました。
それは、乃木将軍を描いていた多くの本が、戦後日本を占領したGHQによって失われたからです。
(出典:『エピソードで伝える 乃木希典 武士道を体現した明治の英雄』, 中央乃木会理事, 56ページ)
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【中村信一さん】
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