明治14年といえば、嘉右衛門がすでに実業界からすっぱりと身を引き、易に専心していた時期だが、寒さを避けるために熱海で静養していた。嘉右衛門の周囲には、彼の易話を聞き、また指導を受けるために、常に各界の指導的役割を担っている人物が出入りしていたが、このときもまた大隈重信、井上馨、伊藤博文の参議、4人の書記官、軍医総監らがたずねてきていた。
さまざまな易話がでたあと、話題が「下関事件」時の賠償金問題に移った。下関事件というのは、文久3年(1863)5月、朝廷による攘夷令を受けた長州藩が、下関を通過中アメリカ・フランス・オランダからなる艦隊を砲撃した事件である。この砲撃に怒った米・仏・蘭はイギリスを加えた欧米連合艦隊を組織。翌年の8月に下関を攻撃し、たちまち長州を降伏させた。これを「馬関戦争」という。
文明国の艦隊の威力を見せつけた連合国側は、戦後、長州に300万ドルの賠償金を要求した。が、交渉の任に当たった外交委員長の高杉晋作は幕府に肩代わりを要求。紆余曲折ののち、結局、賠償金は幕府が支払うことになったのである。300万ドルは連合国で分けられた。とくに要領がよかったのがイギリスで、下関事件とは無関係だったにもかかわらず、米・蘭を煽って馬関戦争に引っ張りだし、幕府からせしめた賠償金の銅銭を香港で売却して、さらに8倍の利鞘を稼ぐというえげつない商売をやってのけた。
ところがアメリカはやや事情が違い、本国の了解なしに賠償金をせしめたことに、時の大蔵卿が難色を示した。「これから友好関係を結ぼうとしている国から、そんな形で金をせしめてくるとは何事だ」といって賠償金を国庫に入れることを拒絶し、徳川幕府から得た78万ドルは、所有者なしという状態で市中の銀行に預けられたのである。
熱海で静養中の嘉右衛門に、伊藤博文がもちかけた相談というのは、「このときの賠償金を何とか取り戻すことはできないものだろうか」という虫のよい相談だった。伊藤は下関事件当時、イギリスに留学しており、帰国後、高杉晋作のもとで通訳として交渉に当たっていた。いわば当事者中の当事者のひとりである。
「わかりました。私はト筮に誓って、米国が償金を返還する方策を示してごらんにいれます」 嘉右衛門は伊藤に向かい、即座にこう答えたが、ただし条件があるといって、こう付け加えた。「賠償金はもともと当てのない金ですから、私の占断どおりにことが運んで米国から取り戻したら、その金は横浜築港の費用にしていただけますか」 伊藤としても、もちろん文句はなかった。
横浜の埋め立ては、先に述べたように、明治3年から4年にかけて嘉右衛門が行っていたが、それから10年も経ったこのころには、第2次埋め立てを行って港湾を整備しないと、次々と寄港してくる外国船をさばききれなくなるという状態だった。しかし、財政に余裕のない政府は、なかなか第2次埋め立てに着手できずにいたのだから、嘉右衛門のこの提案は、いわば渡りに船だったのである。
次回へ続く
●「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」 より抜粋
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