「さいはてシリーズ」1回目です。
1回目は奥能登に流された平時忠です。
平時信の長男として生まれ、清盛の妻、時子の弟であり、清盛の義弟にあたる。出世を重ねるも、2度の失脚を経験するなど波乱に満ちた道のりながら、権大納言にまで昇進したことにより、政治家としては稀有の存在だったと言える。
平家一門では平清盛を補佐しつつも実権を一手に担った参謀で、平清盛亡き後、平家の実質的な指導者はこの平時忠であったと言われる。平家の全盛を誇ると、「平家にあらずんば人にあらず」といった有名な言葉を残した。
壇ノ浦で捕らえられたが、三種の神器の一つ「神鏡」を守った功績により、死罪は免れ能登に配流となる。その4年後能登の地で生涯を終えたとされる。
約800年前、珠洲市大谷峠に流されました。
当時の能登は想像を絶するところだったでしょう。
大谷峠は耕作地も少なく周辺沿岸部の生産物は塩でした。
大きめの五輪塔が時忠のお墓です。
ちょうど墓守に来ていた直系子孫の方と雑談が出来ました。
二十数代目になる様です。
というのも貧乏で紙が無かった時代があった様です。
県の文化財に指定されていますが、補助金はいっさい無し、墓の保全は猪対策もあり費用がかかる事が多いとの事。
また昔は土葬で何年かして掘り起こし骨を集め洗い珠洲焼の器に入れ埋葬した。
近年この珠洲焼の器の盗難が相次ぎその対策もあった。
当時は真言宗で1人一つの五輪塔。
後年、当時新興宗教の浄土真宗に変わったらしい。
南無大師遍照金剛から南無阿弥陀になったわけだ。
子孫の方は年配なのですが細面で何処かしらお公家さんのようでした^ ^
輪島にある時國家の事も聞いた。
あの太閤秀吉も権力と財力を持つと
清和源氏の流れとなっていた。
どんなに都に帰りたかったか。
その昔、海上交通しか無かった陸の孤島。
時忠の歌
能登の國 聞くもいやなりすずの海
また吹き戻せ いせの神垣