上下2巻、ページは上下2段、字は小さめ
こんな事があったとか、誰がこうだったとか
延々と700ページに書いてあるように思い
読むのを躊躇していました。
実際には全ページ大きな抑揚もなく、しかし徐々に引き込まれていき
機が熟すというのでしょうか
何年も放置してありましたが読んでしまいました。
歴史小説ではなく、記録小説というらしい。
話は大正から終戦まで淡々と?進む。
沢山の人が登場して皆個性があった。
さぞ著者は多くの関係者に取材したのだろう。
大正9年から昭和21年ビキニ環礁にて原爆実験の標的艦で沈むまでの長門に関わった人達の物語。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/ae/4bc06ab6c041787ac87fe48709f80590.jpg?1583212722)
若くして志賀直哉の文体と人に魅せられ、亡くなられる日まで長く敬し親しんだ。同じ道を歩んですでに独自の仕事を完成した先輩に、瀧井孝作尾崎一雄網野菊の三氏がある。学んでしかも離れ、自分なりの物を何とか創り出せるかどうか、それが「わが文学」の未完成の道程かと思ふ。
青年期体験した戦争と、あの戦争で死んだ人々を忘れることが出来ず、三十年来様々なかたちでそれを書いて来た。折々「右」のやうに言はれるけれど、問答無用神がかりの右翼には嫌悪を感じてゐる。ただし、左の一見論理的な神がかりに対しても同じ嫌悪感を持つ。戦後文壇の主潮に迎合しなかつた者を右と呼ぶなら、それは只評者の御勝手である。
この文章は本に挟んであったチラシにあったもの。
私の中学、高校時代は日教組全盛時代だった。
中学の歴史の女性教諭なんかは当時(ソビエト)のモスクワにも行くバリバリのコミュニストだったと思う。コミュニストが悪いと言っているのではなく。
戦争に行った人々は皆んな「悪」で天皇制を否定していた。
歴史は歴史として教え、思想を入れるべきではなかったハズだ。
私は著者に対して漠然と相容れない思想の持ち主と思っていました。
「青年期体験した戦争と、あの戦争で死んだ人々を忘れることが出来ず」
とあるように
この小説には多くの人が描かれている
忘れてはいけない!との思いが伝わってきた。
著者は青年期、人生で一番輝き眩しい時に体験したと。
尚の事忘れ去るなんて出来ないだろう!
亡くなった人を忘れることは「第二の死」
と言われその人が再び死ぬことを意味する
序章より
私どもが物識りかるたで遊んだ昭和五年はロンドン軍縮会議の年で「睦奥と長門」の長門が完成して十年目にあたる。妙な縁だが、軍艦長門は私の生地広島市に近い呉海軍工廠において、私と一と月ちがいの大正九年十一月に誕生している。
義父の兄高木正治は、東京商大を卒業後、戦争中の昭和十七年九月三十日第九期補習学生として築地の海軍経理学校に入り、祖父から数えて三代目の主計科士官になった。同年同月同日、私も第二期の兵科予備学生として海軍に入った。義父は目が悪くて、希望の海兵へ進めず、建築家
になって、戦後平賀譲の長男謙一と同じ建設会社につとめていたが、二年前病歿した。戦艦が各国海洋戦力の象徴であった時代は疾くに終わってしまったけれども、私は自分と同年同郷の長門の一生を、一つの物語として書き綴ってみたいと思う。
私の父は四男坊であったが家を継いだ。
1人は病死、2人は海軍に志願して空と海で亡くなっている。
父はそれが無念でせめてどこでどう戦死したのか知りたくて数度厚生省に行ったがハッキリした事は判らなかった。
その叔父さん達が生きていればと思う事がよくある、残念でならない。
母の兄妹で戦争未亡人になったおばさんはしっかりと三人の息子を育てた。
すこし前のこの国にはそんな人ばかりだった。
忘れてはいけない。
忘れてはいけない事が多すぎる。