プリンの一行日記

エンディングノート

こんばんは~(o^―^o)ニコ

今日は仲良し4人組で食事会をしました
マンションの自治会室で集まりました
どうしてもコロナウイルスについての話に
なりますね・・・・・これからどうなるのかしらね
いつも行くコミュニティセンターも4/19まで
閉鎖になりました
続けて大正琴、透明水彩画もお休みです

趣味について、お孫ちゃんについて、健康について
色々話していて父の話になりました
亡くなった後に、ノートが出てきたのです
今でいう「エンディングノート」です
友達のMさんがそれってエンディングノートのはしりじゃないの
そんなことで、ふと父を思い出していました

自由奔放に生きた父だと思います
門限に厳しく、食べる物は粗末にしない、好き嫌いをしない
お茶碗に米粒がついていたら叱られたし・・・・・
おかずを残すとお皿に入れるのは食べれるだけにしなさい
残ったものは飲み込みなさい~~~と叱られましたね
そんな父も18年前に亡くなりました・・・・・

遠距離介護をスタートしたのは2001年8月でしたね
姉と交互に実家へ帰っていました
どこが具合悪いのか分かりませんでしたが、一度検査入院
しました。結果は末期がんでしたが・・・・・
父の希望で退院しました(父には病名は伝えませんでした)
退院したころは、気分的に食欲もでて~あれも食べたい
これも食べたいと元気になりましたよ

なんの治療も無く薬も無い生活ですから、段々と体が・・・・・
痩せていくんです・・・・・
とても一人では心細く姉に一緒に介護しようとお願いをしました
2002年になってから、父は激痛で寝ることもままならず・・・
姉と一緒に起こしてあげては、苦しいと寝かしてあげて・・・
その繰り返しを何回もしました
掛布団をUの字に丸めて、父をその布団の中に入れて・・・
座りやすいように考えました
でも不思議と寝ると、笑顔になってニコニコして寝ていました
お迎えが来始めたのかと思うほどでしたよ
目が覚めると毎回「プリン、ここは天国かい(o^―^o)ニコ」と聞くように
なりました
3週間前位には食事ものどを通らなくなり、リンゴを絞ったジュース
だけを飲んでいました
瞳孔が開きだしたのか、昼間でもカーテンを閉めていました
明るすぎて目が開けられないと言ってました
大きな宿便が出たのはこの頃だったかな~
お腹に力なく自力では出すことが出来ませんでした
姉と考えて割りばしで少しずつ崩して出すことにしました
やっとの思いで出てきたときは、ビックリするくらい大きな
○○チでしたよ
亡くなる3.4日前でしょうか、急に父が葬儀屋さんに電話をしてくれと
まだ死んでいませんが、葬儀屋さんに来てもらって・・・・・
お葬式の段どりを聞いていました
自分の希望も言ってから葬儀代を支払っていました
でも、帰る間際に亡くなる前にお金は受け取れないと・・・・・
返してきました。
父には内緒で受け取りましたよ・・・
この後にお棺に入れる靴、背広、ネクタイ等決めましたよ

ホッとしたのか父が「薄墨羊羹が食べたい~♪」と入れ歯を持ってきて
でもやせ細った口にはうまく入れ歯が入らずに・・・・・
ここで笑ってはいけないんだけど、姉と大笑いしてしまったわ
入れ歯なしで美味しく食べていましたよ
末期の水と言いますけど、父は大好きな薄墨羊羹でした

父が亡くなって出てきたノートには詳しく
①葬式の仕方(お棺に入れる物)
②亡くなったことを知らせる人の名前
③喪中を書く人の名前
詳しくノートに記載されていました

父の介護は8ヶ月くらいで短い期間でしたが、姉と一緒に
泣き笑いの有る充実した時間でした
ノートは几帳面な父らしいな~と思いましたよ

長々と書いてしまって29日になってしまったわ
最後まで読んで下さってありがとうございましたm(__)m

では、おやすみなさい(@^^)/~~~






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コメント一覧

purin_july
まっころさん~こんにちは♪

ご主人のお義父様も一年後に亡くなられたんですね
まっころさんは続けて辛い思いをされたんですね
だから精神状態が不安になる時があるんだわ
心が癒えない間に又・・・
本当に辛かったですね

亡くなった母がよくご先祖様が守ってくれている~
とよく言ってました
両親ともよく墓参りに行ってましたよ
私は何かあると両親の写真の前で話をしています
まっころさんも守られていますよ~♪
makkoro88
こんにちは。
義父のことを思い出しました。
実は義父はダンナの後を追うように、ダンナの死からたった3年後に亡くなりました。
まだ現役でしたし、職場での定期健診も受けてたのに。
気づいた時には進行性の胃がんで。しかも手術では取れない場所だったらしく…癌発見から1年であっという間に。

義母は私の精神状態を気遣い、最後のお別れの時まで私に秘密にしていました。
「お義父さんなんか仕事休んでるなぁ、有給消化してるのかなぁ?」とぼんやり頭の片隅に違和感は感じてはいたのですが、私も死別から間がなくて日々のことで手一杯。
だから突然病院に呼ばれて、初めて状況を知った時、私は大泣きして崩れ落ちました。
その場の誰かにすがりついて「いやー!もう誰も死んでほしくないいいいーーー!」と叫んだ覚えがあります。
最後のモルヒネを打つ前の義父の恐怖と苦悶の表情が忘れられません。
あとで聞いたのですが、義父には最後まで事実を伝えてなかったのだそうです。(もちろん義父は途中で気づいていたとは思いますよ)
動ける間に義母と義父はたくさん二人で出かけていました。
「いままでで一番お父さんと一緒に過ごした1年だった❤」と義母が言っていました。
プリンさんのお父様のように準備はできなかったかもしれませんが、きっと良い時間だったのだろうと思っています。

さっき別のブログで‘亡くなった人、ご先祖様は必ず守ってくれてる’という話を読んだばかりなんですよね。
だからプリンさんのお父様はずっとプリンさんを守ってくれてると思うし。
ダンナと義父もいまここに居るんだわ!と思いました。
プリン
purin224さん~こんにちは♪

こちら今日は真冬です・・・雪が降っています(;^_^A
父の介護は姉と一緒だから出来たと思っています
検査入院だけで家で最期を迎えた父は、自分が意識が
あってどうなっていくのかを知りたい・・・
知らないままに亡くなるのは嫌だったみたいです
だから薬も注射も拒否続けていました
これは姉も私も介護しているのが辛かったです
あまりの激痛に私の手に爪をたてて我慢している姿は
見てられなかったですよ・・・
でも父は納得いく死に方をしたんだと、後でよかったと
思いました・・・(;^_^A

purin224さんもご両親の介護お疲れ様です
介護はされる側、する側で考え方も違います
お疲れが出ませんようにね
purin224
プリンさん。おはようございます。
プリンさんは、娘としてお父様の最後を介護して看取られたんですね。
お父様もとてもしっかりされてましたね。
子供のころの話は、同じですね‼️
うちもとても厳しくて、父が帰宅すると家の空気が一変しました。笑
月一度、父は当直で泊まりだったので、その日は、母もダラダラする日でした。
うちは、主人の父が病院嫌いで、胃カメラも絶対にしないと言い張り、結局は、胃ガン末期で、食事がとれなくなって入院しました。
義母も半身まひで介護が必要で二人同時に同室に入院させてもらいました。
母には、食事が出るのに父は、点滴だけで母には、父の状態は伏せていたので、何でごはん食べないの⁉️って不思議がってましたが。
そのうち、父もうわ言を言うようになりました。
入院したお陰で最後までお風呂に入れてもらったり、私たちも毎日会いに行けました。
しゅは、次男で長男が独身なので、今は長男が義母の介護しています。毎日ヘルパーさんが来てくれてデーサービスも、行ってます。
プリンさんは、自分て介護されて、本当にすごいです。
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