らくらくさんは明るく生きる

日蓮正宗の信徒が信仰生活の中で思ったこと感じたことを綴ります。内容は個人の見解によるものです。よろしくお願いいたします。

介護についての学習会: 講師を依頼されました

2025年01月28日 | 日記

私の所属する労働組合で春に「介護についての学習会」という集会をする予定です。

そこで私は講師を頼まれました。たしかに介護の仕事(高齢者介護)は長かったけど・・・私なんかでいいのだろうか。と思っているしだいです。

誰でも高齢になれば当然体は衰えるので介護が必要になります。85歳以上の方で介護が必要な方はその全体の約6割とも言われています。自分の両親も高齢です。私の所属する労働組合の組合員さんのご家族にも高齢の方はいらっしゃいますし、今はまだでもやがて高齢になります。そしてそれは自分自身のことでもあります。

自分はよく知っているという人もなんだか想像もできないという人も、みんなが介護について考えなければなりません。避けては通れないのです。

というわけで、どんなお話しをしようかなあと思いを巡らしています。

ちなみに今回のこの学習会は組合員さん限定なので申し訳ありません。

なお、私が所属するこの労働組合は、例えば職場に労働組合があってもなくても誰でも入れる組合です。ユニオンって言ったほうが分かりやすいでしょうか。

組合員さんでなくても、もしこの学習会やこのユニオンのことを知りたいとか、興味がある方がいらしたらコメントでご連絡ください。きちんと対応させていただきます。

よろしくお願いいたします。

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令和7年1月25日 1月度 唱題行

2025年01月27日 | 日記

1月は毎日朝9時~10時にお寺で唱題行が行われています。

この日に私は唱題行に参加しました。

唱題は私たち日蓮正宗の信徒が日々何時でも行う実践の行です。

御歴代の御法主上人猊下様も仰せのとおり、この唱題行なくしては私たちは真の幸福に至ることはできませんし、唱題をする際は、自分の観念の世界に浸るのではなく、合掌し御本尊様を見つめ、雑念余念なく自分の心が眼の前の御本尊様と一体になるように励んで行うことが大切です。

自分が観念に浸るのはあくまでも自分の世界。そこから出ることもありませんし、その世界が変わることもありません。ということは、それでは御本尊様を拝しているのではなく、自分を拝してしまっていることになります。

自分自身を拝して「一生懸命信心しているのに・・・」と嘆いても、、、ですよね。

信仰そして唱題行は実践です。御本尊様を心からありがたいと信じ御題目を唱える。この実践がいろいろな困難を切り開く鍵となるのです。

さて、この日は唱題行の後、お寺の掃除と太鼓の練習をさせていただきました。

少し疲れましたが心地よい疲れでした。

ただ恥ずかしながら人情を言えば、1時間の唱題はきつい時がまだまだありますね。

頑張ってゆきたいと思います。

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令和7年1月24日 月参り

2025年01月25日 | 日記

私が所属するお寺では「月参り」と言って、御住職が毎月ご信徒さんのお宅を訪問して下さり、勤行やご先祖の供養をすることができます。

この「月参り」通して、「ご先祖の供養」はもちろん、「勤行のやり方を覚えたい」「子どもたちや友人・知人に信仰を伝えたい」など、御僧侶と私たちが親しく交わる時をすごすことで、信心で家族が和やかに楽しくすごしたり、その信心を後々の世代に伝えてゆく、また自分の信心を鍛え磨いたり、他の人に信心を勧める。これらのようなことの助けとなるのがこの「月参り」という機会になります。

もちろん、日蓮正宗に入信していない方も、ご信徒さんのお宅にうかがって同席していただくことは大丈夫です。

というわけで、他のご信徒さんのお宅の「月参り」に私も同席させていただきました。

お寺ではなかなか話せなかったことが御住職や他のご信徒さんとお話できたり。それに対する御住職や他のご信徒さんのお話しも聞けてよかったです。なかなか自分が聞きたいと思っていても言い出せなかったり、その機会のタイミングがつかめなかったりするので、今回誘われてよかったと思っています。ただ、ちょっとしゃべり過ぎたかなと、いつも何か違う感じを同席の方に与えてしまい、もしかしたら驚かれてしまったか・・・ということも頭をよぎっています。

ともあれ、自分が信心して疑問に思っていることや、信心している中での経験など、それを他の人と共有できることは励みになりますし、またそこから自分が何をどうしていったらよいのか考えることができるよいきっかけになることは確かです。特に一人でモヤモヤしてしまいがちな私のような人間にはありがたい機会でした。

信心がモヤモヤを晴らして明るく元気にしてくれるなんてありがたいことです。

夕勤行の後、夕食にカレーとおでん、その他果物やお団子もいただきました。

帰りに思いもかけず他のご信徒さんから御聖訓一読集をいただきました。

ありがとうございます。

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生涯現役支援セミナーに参加してきました

2025年01月22日 | 日記

昨日ハローワークで行われた「生涯現役支援セミナー」に参加しました。

今求職中です。

というわけで、これから何の仕事をしようか模索してるわけですが、体はまだ元気で体力にもそこそこ自信はあるし、当然、「社会に出て少しでも貢献できているというやりがいを感じたい」という気持ちもあってのこと。

けれどただそれだけではないです。それはこのセミナーでもお話しがあったことで、「年金だけでは暮らしが成り立たない」ということ。であります。

社会に出て「やりがい」を感じたいということと、「暮らしを成り立たせたい」つまりお金を少しでも稼ぎたいということを望むのですが、これって贅沢でしょうか?

そんなことはありませんよね。もちろん望外な望みが叶うことに賭けたりするのは馬鹿げていますので念のため。それから、それならじゃあお金を稼げる仕事、お金さえ稼ぎさえすればいいんだということでもないですよね。

どんな仕事でもまじめに仕事をして当たり前の暮らしができる。まあ人間なので私みたいな人は時々怠け心みたいなものが必ず出ますが、そうやっていけるのがいいのにそれがしづらい社会なので、私も含めみなさん頭を悩ませなければならないのです。

また、人間いつかは必ず働けなくなる時が来ますが、その後だって生きなければなりません。こう考えるとただ生きるだけでもたいへん。でも生きてゆかねばなりません。

とりとめのない感じになってしまったようですし、ハローワークさんのセミナーからはズレてしまいましたので、今日はこの辺で。

1月唱題行も明日から残りあと9日。お題目を唱え続けて行動してゆきたいと思います。

ご意見・ご質問等ありましたらコメント等にお寄せください。お待ちしております。

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令和7年1月19日 折伏推進僧俗指導会: 折伏について

2025年01月20日 | 日記

折伏推進僧俗指導会がありましたので同じ地区の別のお寺さんに行きました。

他のお寺さんの御僧侶から御指導を受けたりお話しを聞く機会は地方に住んでいるからか少ないです。だからとてもよい機会でした。

今回の指導会は総本山大石寺の宗務院教学部長、そして折伏推進委員であられる御二方の御僧侶から御指導を受けることができました。ありがとうございます。よかったです。

ところで、折伏(しゃくぶく)って何?と、折伏について何も知らない人は知らないと思います。当然です。日蓮正宗のご信徒さん、および今回の指導会にご参加された方々はすでにご承知でしょうし、でもそうでない方から「折伏?何それ?」とたまに言われることもありますので、ふつつかですが私なりに、一般の方たちにも分かるように、私の理解を書かせていただきます。

誤りや問題点、疑問等、または感想などありましたらコメント等に是非お寄せください。

折伏とは、国語辞典をひも解くと、「煩悩や迷妄をおさえ、悪人や悪法を折(くじ)き伏せること。」「衆生を教え導くための二つの方法の一つで、煩悩の克服を主眼とする。」とありました(精選版 日本国語大辞典 )。

「折(くじ)き伏せる」や「克服」と聞くと、何だか強く激しいイメージがしておよび腰になるかもしれませんが、折伏とは、日蓮大聖人の仏法(教え)がいかに尊いかということと、自分がその教えを信じて得た経験と感動を少しでも多くの人に語り、みんなが幸せになるために間違った宗教とか考え方、間違った価値観などを捨てて、正しい御本尊様をいただいて、その御本尊様に向かって一緒にお題目を唱えようと勧めること。こうだと思っています。

語る感動は、信心をはじめてから、家族を以前より大切にできるようになって関係も明るくなってきた、それまでいろんなことでモヤモヤしていたのが物事をよいこともよくないこともはっきりと見ることができるようになって自信をもって何事にも取り組めるようになったとか、自分の得たことでいいのだと思います。自分自身が体験して感動したその体験と感動を他の人に伝えるのですから。素直に正直ありのままを語るのです。

さて、国語辞典で折伏を見たわけですが、一方折伏の項目にはこうも書いてありました。

せっ‐ぷく【折伏・折服】
相手の勢いや理論をくじいて、自分の思うとおりに支配すること→しゃくぶく(精選版 国語大辞典)

「相手の勢いや理論をくじく」については、日蓮正宗は謗法厳戒ですから、誤った宗教や考え方、そしてそれで人を惑わすことを正すという意味ならば、当たっているように思います。しかしその後に続く「自分の思うとおりに支配すること」。これは違いますよね。

自分と言う人間の思うとおりに他の人を支配(考えや行動などを規定し束縛する)すること。これはおかしな宗教ではよくあることです。例えば、教祖が神がかって授かったお告げ(要するに教祖という人の妄想)ではじまった宗教などはほとんどそうでしょう。妄想とは、「人が真実でないものを真実であると、誤って意識すること。また、そのような迷った考え(精選版 日本国語大辞典)」です。人の妄想によって人を支配し、そしてその支配された人はそれを信じて、はたして現実にその人は幸せになれるのでしょうか。なれるわけがありません。それはどこまでも、なにからなにまで現実でない非現実の妄想なのですから。

お告げを例にあげましたが、教祖(教祖のような人を会長と呼ぶ団体もあります)という人の欲と置き換えてもいいでしょう。信じるものが、その人の欲のためならば、その人の欲をいくら信じても信じる自分自身は幸せになれるわけがないのです。当たり前のことです。

しかし人は何かにすがりつきたい必死の思いがあるからこそ、何かのきっかけで間違ったものを信じ切って身も心も委ねてしまう。そういう弱さがある。私もそういう弱い人間です。これを認めます。

しかし、これこそ折(くじ)き伏せなければならないこと。そういうことなのです。

弱さゆえに、知らず知らずのうちにも誤った宗教やその他いろんな間違ったものに心を支配されてしまう。結果として悩み苦しみは消えず、さらに間違った方向に進んでしまう。これを断ち切るには、正しい御本尊様に相対してお題目を唱え続けること。ここからはじめなければなりません。

『寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。』

『寂光の都でないなら、どこも皆苦の世界である。本覚の栖を離れて、どんな楽しみとなるだろうか。願くは「現世は安穏であり、後生は善処に生れる」と仰せの妙法を持つことのみが、ただ今生には真の名聞であり、後世には成仏の手引きとなるのである。すべて心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱え、他人をも勧めることが、今生に人界として生まれてきたことの思い出である。』

(持妙法華問答抄 御書300頁)

日蓮大聖人の教えは、人が自分勝手に想像しただけのことであったり自分はこうありたいと思うだけの非現実的な妄想や、誰かが自分のために願う欲を説いている教えではありません。その教えは私たちが今、これから先も、真に幸福になるための道を説いておられる教えであり、真実が真実としてきちんとあって、その真実が幸福であるための教えです。

大聖人の教えを信じて「南無妙歩蓮華経」と一緒に唱えませんかと、こんなに弱い私でも、少しでも多くの人に語ってゆきたいと思っています。

今回は写真はありません(すみません)。

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