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人生の想い出ーその13昭和の想い出・13『幻のインターハイ・返還の年』その3

2023-08-03 18:42:10 | 人生の想い出
 

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昭和の想い出ーその13

『幻のインターハイ・返還の年』その3

 

その2からの続きです。

 

 

 

 

 

選抜大会と日の国旗大会

 

そう、大事なこと書くのを忘れていましたてへぺろ

 

中学校卒業の翌日から目黒高校に通うことになったのですが、春の高校選抜大会に向けて連日練習試合をしていました。

 

僕たち新一年生はそこで先輩たちのサポートと、一日中声を出して応援していたので、すぐに声が枯れたのを覚えています。

 

 

で、数日後には九段下の日本武道館で全国高校空手道選抜大会が行われて、目黒高校が優勝しました。

 

僕が目黒高校に入学した年の3年生は、目黒の先輩たちから“弱い”と言われていたそうなのですが選抜大会優勝したんですよびっくりマーク叫び

 

選抜大会優勝のご褒美として、沖縄旅行に行ったんですね~音譜今、思い出しました。

 

だからアレは、沖縄合宿というよりも沖縄旅行に近かったと思います。

 

練習試合とかもしていたかもしれませんけど。。。自分たちは見ていただけなので覚えてません口笛

 

※選抜大会優勝後の沖縄合宿改め沖縄旅行

 

結局、僕が一年時の目黒高校は『選抜大会』の他に、熊本県で行われた第一回『火の国旗全国高等学校空手道優勝大会』も優勝しました。

 

この“日の国旗大会”は面白くて、空手の中では唯一の“勝ち抜き戦”なんです。

 

試合メンバー以外は学校に残って練習していたんですけど、『目黒優勝!』の一報を聞いた時は素直に嬉しかったです。

 

勝ち抜き戦なのでドラマチックなんですよね~とても音譜

 

決勝戦で、先鋒を務めていた3年生のポイントゲッターだった先輩は、膝に水が溜まっていて思うように動けず敗退。

 

そのまま勢いに乗った相手校の先鋒が、目黒の副将まで勝ち進み“目黒もここまでか!?”の場面驚き

 

目黒の大将を務めていた深井兵吾先輩が、相手の大将までをゴボウ抜きしての逆転優勝だったそうです。チュー

 

深井先輩は、身長160センチと少し位と恵まれた身長ではないにも関わらず、その年のインターハイ個人戦で優勝されていました。

 

当時の月間空手道で、決勝戦の写真が掲載されていましたが、相手は身長180センチを超えた巨漢で、さながら映画『死亡遊戯』でのカリーム・アブドゥール・ジャバールと闘うブルース・リーのようでした。

 

そんなこんなで、優勝した時は良いのですが・・・・

 

 

※数少ない建て替え前の実家の写真(2~3年生頃)

 

先輩たちは、関東大会とインターハイ団体戦は優勝できませんでした。

 

目黒高校では優勝以外は例え2位でも“負け”なので、試合後に待っているのは“千本突き蹴り”なんですね。

 

・左手の逆突き千本

・右手の逆突き千本

・左足の前蹴り千本

・右足の前蹴り千本

 

合計で4千本ぶっ通しでするんですけど、時間にしてどれ位かは覚えていませんが、それはそれは壮絶でした。

 

1年生の時に、先輩たちが千本突き蹴りをしているのを見て、“やりたくないな~”と素直に思ったものでしたが、結果的には目黒至上最多回数する事になります。波悲しい波不安波滝汗波笑い泣き波真顔

 

 

スキー合宿での悪夢
 

僕たちの代は、僕を入れた推薦組が10名いたのですが、入学式後に体験入部などで入る一般からの入部者は0でした。ぐすん

 

入学式の日に1名欠けて、5月に1名、6月に1名、7月に1名欠けて、3年生が引退した夏には6名になっていました。

 

2年生になっても1年生扱いだった僕たちの中から5月、更に1名の脱落者がでて部員5名になりました。真顔

 

一つ上の先輩たちの代は、14名いたのですが推薦組が7、8名の他は一般からの入部だったらしいです。あと、3年生が引退した後に出戻ってきた人がいたので、3年時には15名でした。ゲッソリ

 

先輩3人に対して僕たちは1人、そして新1年生も15名もいたので、ちょっぴり淋しかったです。ウソですイヒ音符

 

淋しさなんて感じてる余裕もないのがホントのところでした口笛音譜

 

※新1年生を入れて春休みのスキー合宿

 

1年生の春休みには、空手道部なのになぜかスキー合宿に行きました。

 

その時に、ちょっと浮かれて調子こいていた僕たちの代は、山の上から下までのレースをしたのですが、かなりスピード出していたんでしょうね。

 

雅庵の皆川くんが激しく転倒しました。

 

 

 

 

僕は、転倒した皆川君を追い抜いて滑り降りて行ったのですが、実はこの時皆川くんは膝を大けがしてしまっていました。

 

手術をしてボルトを膝に入れなければならない程の大けがで、1年後にはそのボルトを抜く手術をしなければならず・・・滝汗・・・。

 

戦力としての皆川くんは脱退せざるを得ず、僕たちの代は実質4人になっちゃいました。波ゲロー台風ポーン雪笑い泣き波

 

一番辛い1年生を耐えてきたのに、運動神経が良い皆川くんはよい選手になるような気がしていたので、ここでの皆川くんの脱落はホント辛かったです。

 

皆川君と仲が良かった藤井君は僕たちの代では唯一の180センチ越えでしたが、5月に脱退してしまいました。

 

 

 

目黒至上最強の代

 

数々のインターハイチャンピオンや学生チャンピオン、国体優勝者や世界チャンピオンなどを輩出してきた目黒高校空手道部の名将、村上先生ですが、その村上先生をして“目黒至上最強の代”と言われている代が2つあります。

 

目黒至上最強の代の一つは、中達也先輩の代だそうです。

 

強すぎる代とも言われていたそうですが、気性が激しい人ばかりの代だったので反則負けも多かったそうです。

 

そして2つ目の目黒至上最強の代は、僕たちの一つ上の先輩たちの代です。

 

戦歴だけで言えば、間違いなく目黒至上最強の代だと思います。

 

・東京都大会優勝

・高校選抜大会優勝

・日の国旗大会優勝

・関東大会準優勝

・インターハイ団体戦優勝

・インターハイ個人戦優勝と準優勝

・インターハイ団体防具組手3位

加えて目黒高校に練習にきていた都立目黒の選手女子個人型優勝

 

沖縄県でインターハイ終了後に行われた祝勝会で飲んだ、オリオンビールが美味しかったです爆  笑ウソですびっくりマークびっくりマーク真顔

 

 

そして翌年、僕たちは先輩たちが持って帰った優勝トロフィーキラキラ🏆キラキラを返還してまわる事となるのです。笑い泣き

 

 

続きます。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて

 
※皆川くんとの間にいるのは村上くん。右側で麺をすすっている後輩の小泉くんは翌年のインターハイチャンピオン。
高校卒業後ボクサーに転向して日本一位までいきました。
 
 
 

人生の想い出ーその13昭和の想い出・13『幻のインターハイ・返還の年』その2

2023-08-02 18:47:39 | 人生の想い出
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昭和の想い出ーその13

『幻のインターハイ・返還の年』その2

 
その1からの続きです。
 

 

現在の名称は目黒学院中学高等学校となっていて、男女共学で中高一貫コースや進学コースなどもあるようですが、当時の目黒高校は男子校で中学校はありませんでした。

 

 
進学コースなどはなく、同じ敷地内に普通科と機械科の校舎がありました。
 
あまり偏差値が高い学校ではなくて『シリメ』と呼ばれ、偏差値が高かった都立目黒高校を『トリメ』と呼んでいました。
 
 
勉強での進学率は低い高校でしたが、運動部に力を入れていて運動部推薦で大学へ進学する人が多かったです。
当時強かったのは、相撲部、ゴルフ部、ラグビー部、空手道部などでした。
 
いろいろあって、当時名将と言われていた梅木監督がラグビー部を追われて野球部の監督になった年でもありました。
 
僕の中学の同級生は、梅木監督を追ってラグビー部に入部しようとしたところ、野球部の監督に就任したことを知って、野球部に入部してました。
 
『俺は梅木先生に指導されたくて目黒に来たから』みたいなことを言っていました。
 
 
カリスマ指導者だったんですね~キラキラ音譜
 
 
野球部に入部した同級生は、毎日4時起きだか5時起きで頑張っていましたほっこり
 
梅木先生はもう旅立たれたそうですが、偉大な指導者でした。
 
 
※何年か前に撮った写真
 
 
僕よりも上の年代の方は、目黒高校と言えばラグビー部というイメージだったと思います。
 
それくらい有名で、松尾雄治さんも目黒高校のラグビー部出身です。
 
でも、実は空手道部もその筋では有名で“空手やってて目黒を知らない奴はモグリ”なんて言われるくらい空手道部も有名でした。
 
目黒高校空手道部出身で一番有名なのは、中達也先輩じゃないでしょうか。
 
中先輩以外にも、凄い人がゴロゴロ居たりします滝汗ゲロー滝汗
自分たちが高校3年生の時には、よく中先輩がいらっしゃってサンドバッグを蹴られていました。
 
ジャニーズのような端正なお顔立ちに、数々の武勇伝をお持ちの方で“かわいい顔した悪魔”の通り名で有名な方ですが、後輩の自分たちには優しく接して下さいました。
 
卒業するころには、ご飯に連れて行っていただいたこともあります。
 
その中先輩ですら『2億円もらっても目黒時代には戻りたくありません』と言われていました。
 
 

先日、目黒出身で仲良くしてもらっている後輩と酒をのでいる時に、僕は目黒高校時代で『一番楽しい時間は寝ている時間だった』というと、その後輩は僕と逆の発想で『目黒時代は、夜眠るのが嫌だった』と言っていました。

 
理由を聞くと、『朝がきてしまうから』でした。
 
同じ境遇でも、人によって考え方ってここまで違うんですね~。勉強になります口笛
 
そんな目黒高校空手道部でしたが、戦績は凄かったんですよ。ホントにキラキラまぁ、僕らの代はアレでしたけど笑い泣き笑い泣き笑い泣きあせるあせるあせる
 
僕らの代って、ちょっと特殊な代だったんです。
 
というのも、当時の空手道部の顧問であった村上先生のご子息が同級生にいたんです。
 
先生も辛かったでしょうし、息子も辛かった、僕たちも辛かった笑い泣きあせる・・・誰のせいでもなくて、そういう年だったんですてへぺろ
 
※目黒高校の校庭は本当に狭くて、テニスコート1面分くらいです。
 
 
目黒高校の練習メニュー
 

・朝練

 
通常時は、朝練(自主練だけど1年生は週2~3回必須)で7時だか7時半位~、ベンチプレスとかしていました。
 
試合2週間だか3週間前になると、毎朝7時からの全体朝練習になります。
 
1年生は先輩たちが来る1時間前には到着していなければならないので、始発電車とかで学校に行っていました。
 
朝の自主練は僕たちが3年生になると廃止されて、毎日朝7時からの全体練習になりました。びっくり
 
加えて、先生の家に寝泊まりするプチ合宿もちょくちょく入る様になりました。ガーン
 
まぁ、ほんと弱かったのでしょうがないんですけどぐすん
 
 
※体育館へと通じる階段を見ると憂鬱になるんですよ。
 
 

・昼練

 
昼休みは体育館での昼練習。
 
1年生がサンドバッグ突きをして2年生が指導するのですが
 
『お前たちが出来てないんだから』と3年生から言われ
 
僕たちは2年生になってもサンドバッグを突かされたりしていました波笑い泣き波真顔波笑い泣き波
 
楽になってないやん
 
1年生がサンドバッグ抑えてましたてへぺろマヂすかチーン!?
 
 
当時の先輩たちの祝勝会の写真みたら、1年生がきれいな手をしていて、僕の手は拳部分が赤いカサブタになっていましたゲラゲラ
 
ずっとではありませんでしたが。そんな時もありました。笑い泣き
 
最近になって先輩から言われたのは、先生からの指示だったそうです口笛
 
兎に角2年生になっても全然楽にならなかったので、僕と皆川君も辞めるに辞めれなくなっちゃったんですよね~凝視
2年生になっても、3年生から『お前たちは1年生のままだ』なんて言われたりしたもんだから、2年生の5月に辞める同級生もいました。
 
自我というか自覚が芽生える前に3年間が終わってしまったというか波凝視波
 
先生が、息子の代を強くしようとし過ぎて色々してくれたことが逆効果になってしまったようですウインク
 
 

・放課後練習

 
メインの練習です。
 
僕が2年生までの練習時間は2時間~2時間半程度だったと思います。2年生まではですけど・・・( ;∀;)・・・。
 
練習内容はたしか、縄跳び~ストレッチ~移動基本~ジグザグ~基本組手~応用組手~(試合)
 
他にサーシとかチューブトレーニング、ピンポンダッシュ(いたずらじゃないよにっこり)とかあったような・・・
 
試合が近くなってくると、試合の割合が増えていくような感じでした。
 
今、考えてみると練習時間自体は2年生までは、そんなに長くなかったように思います。先輩たちが強かったのでチュー
 
でもですね、皆さん“寸止め空手なんて、結局寸止めなんだから”ニヤニヤとか思っていませんか?
 
先輩の機嫌が良い時はソフトコンタクトなんですけどね、、、うさぎ、、、。
 
週に数回は・・ゲッソリ・・ですよね。
 
お陰様で、腹筋は鍛えられました笑い泣き
 
口の中はしょっちゅう切れていたので、みそ汁飲むのがシンドかったです音譜うーん
 
前歯で唇を貫通したときなんて、水を口に含んで口を膨らませると、穴が開いた唇から、水がピュ~っと出てきたこともありました笑い泣き
 
それから暫くして、マウスピースが導入されました拍手拍手拍手
 
 
そんなわけで、その3に続きます。
 
 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて

 
 
※2年時の空手道部スキー合宿にて
 
 
 
 
 

人生の想い出ーその12昭和の想い出・13『幻のインターハイ・返還の年』その1

2023-08-01 19:01:13 | 人生の想い出
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昭和の想い出ーその13

『幻のインターハイ・返還の年』その1

 

※高校入学式前の沖縄合宿にて
 

高校入学と空手道部

 
ガラの悪そうな人たちですね~、でも皆んな根は優しい(?)人たちなんですよ不安・・・ガクガクブルブルチーン・・・
 
中学校の卒業式の翌日、僕は目黒高校の最寄り駅中目黒駅にいました。
 
たしかその頃は、練習試合の真っ最中だったような気がします。
 
面接官だった目黒高校(現目黒学院)の空手道部顧問に、『卒業式の翌日から空手道部の練習に来なさい』と声を掛けられていたんですね。(それが運の尽きでした)真顔
 
 
春休み中で、まだ入学式も終えていないので正式に入部したわけではなかったのですが、初日からヘビーな3年間が始まりました叫びドクロドクロドクロ叫び
 
目黒高校での3年間は永遠にも思えるほどに長い。。。永い時間でした。
 
 
今でも目黒の1年生時代は3年間に匹敵するほどの体感でした。
 
 
上の写真、向かって前列左から空手道部顧問の村上先生と、新3年生です。
二列目が新2年生、3列目が僕たち新1年生で当時は10人居ました。
 
僕は右から4番目にいるのですが、左隣の人は中学の型のチャンピオンといわれていた鈴木君で、理由は忘れましたが年齢は一つ上でした。
 
 
この沖縄合宿を終えた数日後に入学式を迎えるわけですが、入学式当日には鈴木君は居ませんでした。
 
入学式に最初の脱落者が出ましたゲローアベシ滝汗早すぎないすか?
 
 
 

中目黒の雅庵のわらび餅はおススメです!

 
でも、今思い起こしてみると入学式前だったので、入学式後よりも若干優しかった?と思います。
 
何が大変だったの?と聞かれると困るんですけど、逆に大変じゃなかったことを思い出しても出てこない程に大変でした。
 
肉体的にはもちろんですが、精神的な方が圧倒的に大きかったですね。
 
上の集合写真で僕の右隣にいるのが皆川君です。
 
現在は中目黒と池尻大橋の中間くらいの実家で『雅庵(みやびあん)』を経営されています。
 
雅庵は、わらび餅が有名で“芸能人御用達”とも言われていて、僕もいただきましたけど、プルっプルでめちゃ美味しいので、オススメです!
 
贈り物などでも喜ばれると思いますよキラキラにやり音譜
 
 
で、そんな雅庵の皆川君とは、高校1年時に同じクラスだったんですね。
 
写真から見ても分かる通り、皆川君は一番背が低かったんですけど、根性はありましたね~。
 
どこもそうですけど、昭和の運動部は、経験した人にしか分からない程に理不尽な世界でした。
 
 
辛かった1年生の時に皆川君と二人で話していたのが
 
 
『辛いよな~...辞めたいよな~...』
 
 
『理不尽過ぎるよな、でもここで辞めたら“逃げた”と思われるのもしゃくだから、一番辛い一年生を耐えてから辞めてやろう!
 
 
そんな会話をして励まし合っていました。
 
 
他の同級生たちは空手推薦で入学していたのですが、僕は一般試験で入学していたので辞めたかったらいつでも辞めれたんですね。って、ホントはそんな簡単には辞めれそうもない雰囲気だったんですけど笑い泣き
 
 
 
 
当時の練習メニューは、朝の自主練習(一年生は週に2、3回は必須)
 
昼休みは昼練習なので、弁当は昼休み以外の10分休みに食べてました。(ラグビー部とかも昼練でした。)
 
この昼練習が一年生にとっては地獄でした。
 
 
膝が床に付かない程度のギリギリまで腰を落として、サンドバッグの中段突きをひたすら繰り返すんですよ不安
 
サンドバッグは1年生の人数分はないので、二人一組で前後半に分けてサンドバッグを突く人と持つ人に分かれるわけです。
 
 
1年生が手を抜かないように、2年生が目を光らせて指導(?)してくれるのですが、きつい体制でサンドバッグを突いていると足がブルブルを痙攣してくるんですね、で辛くて腰を浮かそうものなら有難く足蹴りを頂戴するという笑い泣き
 
 
ずっとサンドバッグを突いていると、手の皮がめくれてくるんですね、だからサンドバッグには歴代の空手部員たちの血がしみ込んでいました。
 
 
最初は良いんですけど、辛いのは翌日からでした。
 
 
人間の身体って凄いですよね、翌日にはめくれた拳の皮は、カサブタになっているんですよ。
 
 
 
手は治ろうとしているんですよ。
 
 
そこに翌日サンドバッグですよ、奥さんびっくりマーク笑い泣き
 
も~何と言っても一発目ですよ、痛いのはびっくりマークゲローも~ポーンこんな感じですよチーン・・・
 
 
カサブタが硬くなっているので、痛いんですよ。とっても笑い泣き
それを1年間ですよ波波波真顔波波波
 
 
5、6発叩いているとカサブタがサンドバッグについて剥がれるんですけど、そうすると痛みは余り感じなくなってきます。
 
 
拳の痛みもですけど、腰を落とした中段突きの態勢って、足がめちゃくちゃつらいんですえーん
 
僕は、拳の痛みと足の辛みを相殺するために思いっきり腰を落としてついてました。
 
あれって相殺されてたのかなはてなマーク笑い泣きあせるあせる
 
 
アップ
ヘタクソな僕の中段突きですが、全然腰が高いです。(右側です)
 
サンドバッグ突いてるときは、ほぼ床に膝が付いているように見えるくらい腰を落として突きまくりでしたグー泣くうさぎ
 
昼休み後の授業では、手が震えてノートに上手く字が書けないんですよね。ってことで僕は寝てました口笛
 
 
ちょっと長くなりそうなので、今回はこの辺で次回に続きます。
 
 
 
二人で励ましあいながら辛くて長い一年生を終えることととなるのは、まだまだ先の話です。
 
 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて

 

人生の想い出ー番外編『昭和の幸せな食事風景』

2023-07-08 19:19:51 | 人生の想い出
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人生の想い出ー番外編

『昭和の幸せな食事風景』 

 

 

昭和の食卓というか、実家での食卓かもしれませんけど、まぁ大体同じようなものだと思います。

 

家での食事の前に、学校給食についてなんですけど、これは当時の人たちからもあまり共感されたことがないんですけど、うちの小学校でも特殊な年代だったのかな?

 

杉並区にある“高井戸第三小学校”っていうところに通っていたんですけど、6年間に一度もご飯が出てきたことがありませんでした。

 

だから僕は、『学校給食ってご飯は出ないんだ』って思っていたんですが、他校の人とか、同じ小学校卒業の人とかと話すると、『回数は少なかったけど、ご飯の時もあったよ』というのです。

 

 

昭和時代人気の給食メニュー

 

『瓶牛乳1本、食パン2枚、マーガリン』これが基本で、他におかずが一品。たまに冷凍ミカンとかのデザートあり。

 

今の小学校ではどんな給食がでているのかは分かりませんが、当時僕が通っていた小学校で人気があったメニューは

 

・ミートソーススパゲティ(ソースと麺が混ぜられていて、麺は短いんですけどとても好きでした)

・クジラの竜田揚げ(僕はそれほどでもなかったです。パンのおかずとしては、、、)

・クリームシチュー

・ビーフシチュー(たぶんビーフではなかった)

・カレーシチュー

 

この辺は、たぶん人気があったと思います。

他にもまだまだ沢山あったと思うんですけど、思い出せません。(;'∀')・・・あせるあせる

 

他には

・うどん

・味噌ラーメン

・肉団子と春雨のスープ

 

あと何だっけな?

 

うどんや味噌ラーメンの時は、出ていなかったように思うのですが、それ以外は殆ど食パン二枚とマーガリン、たまに揚げパン、それと牛乳でした。

 

僕の中で一番のハズレメニューは、ヒジキでした。

 

ヒジキと豆を和えたおかずで、どうやって食パンを二枚も食べろというのか真顔かなり謎でした。

 

給食(のおかず)を食べきらないと、お昼休み遊びにいけませんでした。

 

たまにずっと座って食べさせられている子がいて、ちょっぴり同情しました。

 

 

 

 

よく『給食がまずい』といっている同級生がいましたが、僕と兄には謎でした滝汗WHY

 

美味しかったですよね♪まぁ、ひじきと食パン2枚はアレでしたけど・・真顔・・他は・・。

 

実家の母親が作る料理が薄味だったんです。

 

給食がまずいって言っている子は、たぶん味が薄く感じたからなんでしょうけど、僕と兄にはちょうど美味しい味付けだったわけです。

 

母親が作る料理は、塩味の味付けが多かったです。ラーメン、おでん、うどんとかは全部塩味でした。

 

今考えればありがたいことですけど、料理の品数が多かったガーンあせるあせる

 

ご飯、みそ汁、サラダ(量が多い)、それとおかずが2~3品ありました。

 

なかなか多かったですよ、僕はお菓子大魔王だったので、余計食べられないんですよ。全部は。

 

大人になってから母親は『たしかに少し量が多かったかも』っていっていました。

 

4歳年上の兄と、5歳年上の姉と同じ食事メニューでしたから。

 

子供の頃、夕食の時間がほんと嫌いでした(贅沢言ってんじゃねえよ!!ムキー

 

僕は子供の頃、夕暮れ時が嫌いでした。

 

なぜって、それは家に帰って食事が待っているから驚き

 

 

ペリカン

小さい頃は家で『ペリカン』て呼ばれてました。

 

食べ物を口の中いっぱいに頬張っている姿がペリカンぽかったらしいす。

 

とりあえず、目の前にある食事を入れ続けるんですね、口の中にあるご飯を飲み込まずに次から次へと口の中に放り込んでいるうちに、どんどん口が膨らんできて、余計に飲み込み辛くなるんです笑い泣き

 

大量の食事を目の前から減らす為に、どんどん口の中に放り込んでいたんだと思います。

 

でも詰め込み過ぎて、飲み込み辛くて、、、、そんな毎日でした。チーンなので夕暮れ時は嫌いでした。

 

口の中にご飯を入れたまま、中々の見込めずにいるうちに段々と眠くなってくるんですzzz

 

現実逃避からか、そのうち睡魔が襲ってくるんですよ(マヂで)ぐすんぐすんぐすんコックリコックリ

 

ちなみに、僕小学校の高学年くらいまで赤ちゃん用の、みんなより高くて狭い椅子に座らされていたんですね。

 

あっ!? だから幼児帰りしてたのか~もぐもぐ

 

 

で、そのうち母親が『そんなに眠いんだったら、ご飯やめてさっさと寝なさいびっくりマーク物申す

 

そう言われた途端に目が覚めるんですよ。人間て不思議ですね~口笛音譜

 

僕は、『は~い♪』と言って、サラダにラップをかけて冷蔵庫にしまってテレビをポチっとひらめき電球キラキラ

 

ご飯とみそ汁は残してはいけなくて、おかずに関しては覚えていませんが、サラダだけはラップして次の日に食べればよいので、時たまそうしていました。

 

※高井戸幼稚園の卒園式

 

僕が子供の頃の食卓は、あまり肉料理は出なかったですね。母親がお肉嫌いだったというのもあるでしょうね。

 

オムレツとかハンバーグは出ていたような気がしますが、焼き肉とかステーキは家ではもちろん、外でも食べた記憶がありません。

 

鶏肉はたまに出ていました、骨付きでクの字に曲がったやつが。

 

全体的に僕には量が多すぎたので、夕食は苦痛な時間でしかありませんでした。

 

ある日、外で兄と一緒に遊んでいたときに僕がポツリとつぶやいたことがあるそうです『イヤだなぁ・・・』と。

 

兄が理由を聞くと、『日が暮れたら家に帰ってご飯を食べなくちゃいけないから』と答えてたみたいです。

 

僕は忘れていましたが、兄が覚えていて、その話を教えてくれました。

 

そのときの僕は、めっちゃブルー入ってたみたいです。笑い泣き

 

食べられるだけでありがたいのに、と今なら思えますけどね。

 

とにかく、食事は『食べられない誰かの代わりに食べさせてもらっているのだから決して無駄にしてはならない』と徹底的に言われてきました。

 

 

幸せな食事風景

 

鮮明に覚えているのは、“甘シャケ”の登場です。

 

それまでは、塩鮭でしょっぱかったんですよ。とっても。

 

一切れでご飯何倍もいけるほど(そこまでしょっぱくありません。盛りました)

 

でも、かなりしょっぱかったんですけど、初めて甘シャケ食べた時は美味しかったなぁ・・・にやり音譜

 

僕が“美味しいなぁ”と思って食べていると母親が、『ばばちゃんは塩鮭の方が好きなんだよね』と言っていました。

 

食事の好みも、育った時代背景とか、環境が関わっているんですね。

 

僕は、母の料理より祖母のばばちゃんが作ってくれた料理の方が好きでした。

 

たまに小腹が空いた時に作ってくれた“すいとん”“焼きおにぎり”は絶品でしたキラキラキラキラ

 

学生のころ家に遊びにきた後輩が焼きおにぎりを食べて、『未だにあれより美味しい焼きおにぎりを食べたことがない』と言ってくれる程でした。

 

すいとんはしょうゆ味で、焼きおにぎりは味噌味でした。

 

 

実家を想い出すときに、家族揃っての食事をとても懐かしく感じられるのが、たまに家族6人で食べに行った『萬福飯店』でした。

 

上北沢の駅へ向かう途中にあったのですが、何を食べてもメチャメチャ美味しくて、家族全員笑顔での食事だったので、強烈に印象深く残っています。

 

今では、そのお店はもうありませんが、その店の料理人の兄弟子だという方の同名のお店は、まだ永福町の駅前にあるようです。

 

永福町のお店にも行きましたが、僕は上北沢のお店の方が美味しく感じましたが、水餃子は同じ系統の水餃子でした。

 

つるつるした薄い皮の水餃子で、ピリ辛ソースがかかっているんです。水餃子は萬福飯店のやつが一番好きです。

 

 

 

 

あの頃は、今よりも日本全体に勢いがあったので、値段も高めで良い食材を使えていたせいもあるかもしれません。

 

家族6人で行って、だいたい三万円くらいしていたと思います。

 

40年前の当時で、大皿料理が1200~2300円くらいしていたと思います。

 

大皿料理をたらふく(十数皿以上)頼んで、最後に一人一杯ずつシメでラーメンを食べていました。

 

帰り道は、全員お腹パンパンで歩くのもシンドいくらいでした。でも幸せでした。

 

高校に進学してから部活の関係で行くことができなくなっているうちに、お店は立ち退きでなくなっていました。

 

永福町のお店に行った時に、兄弟子だという人に聞いてみましたが、今は何処にいるのか分からないそうです。

 

 

僕の中では、今でも円卓を囲んで家族6人で笑いながらした食事が、昭和時代の一番幸せな食事風景です。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて

 

 

 

 

 

 

 

 


人生の想い出ーその12昭和の想い出・12『JACと真田広之と』

2023-07-05 18:44:37 | 人生の想い出
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昭和の想い出ーその12

『JACと真田広之と』

 

 

『龍の忍者』

 
前回の香港映画の話で、大事な作品を紹介するのを忘れていました。
 
その名も、龍の忍者です。
 
ジャッキーチェンをスーパースターに育てた、名プロデューサー呉思遠(ゴ・シエン)が、作った香港と日本の合作映画です。
 
当時のJAC(ジャパン・アクション・クラブ)に所属していた真田広之さん。
 
JACの棟梁だった、千葉真一さんの元へ呉思遠サイドから『真田広之で映画を撮らせて欲しい』という打診が何度となくあったそうです。
 
 
ジャッキーチェンをスーパースターに育てた呉思遠が『絶対に真田広之をスターにしてみせる』と言っていたみたいです。
 

呉思遠が余りにもしつこいので、千葉真一はやむなく承諾、日本と香港の合作映画として公開された映画でした。

 

当時、ジャッキーチェンの『蛇鶴八拳』との同時上映だったんですね。

 

 

僕はお金がなかったので、ロードショーが終わって暫くしてから観に行ったのを覚えています。

 

昔は、ロードショーが終わって暫くすると、2本とか3本とかまとめて安い値段で見せてくれる映画館が沢山あったんですよ。

 

たしか、3~400円とか、高くても5~600円くらいだったんじゃないですかね。

 

僕が龍の忍者を初めて見た時は、ジャッキーチェンのドラゴンロード(龍少爺)との2本立てでした。

 

あの時の衝撃は忘れませんね。

 

だってドラゴンロードよりも龍の忍者の方が面白かったんですもん♪

 

龍の忍者を見て、真田広之さんのアクションの美しさに感銘を受けました。

 

家族に、『中学を卒業したらアクション映画の本場、香港に行きたい!』なんて言っていましたが、真田広之さんの龍の忍者を観た時に、香港に行かなくてもこんなに素晴らしいアクションを出来る人がいるんだキラキラと思ったものです。

 

 

真田広之さんのアクションて、美しいんですよね。

 

きっとそれは日本舞踊が関係していると思います。『間違いないびっくりマーク物申す

 

日本舞踊の玉川流で、玉川大輔の名で名取になられているんですね。

 

 

 

 

龍の忍者は、主題歌もメチャかっこ良いです爆  笑

 

シャカニンジャ~♪

と言えば、映画見た人ならピンとくると思います。

 
 
ジャッキーチェンの酔拳のような大ヒットとまではいきませんでしたが、アクション映画としては、とてもクオリティーの高い映画でした。
 
真田広之さんが、本当に格好良いので、機会があったら是非!観ていただきたい作品です。
 
 
ストーリーは、アレですよ。当時の香港映画ですからね。
 
導入部から途中までは、ほんと良い映画です。
 
 
『昔、ひとりの青年忍者が海を渡った』
 
 
途中までは、このテロップ通りに物語は進んでいくんですよ、途中まではね。ニコニコ
 
兄貴が劇場で観ていた時に、隣の席から『ヤダ、広之悪役~悲しいて声が聞こえてきたらしいです。
 
途中まで一言も言葉を発しないんですよ。それも良かった音譜
 
 
 
昭和のCM『わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい』
 
で有名な、田中浩さんが良い役で出演されているところも見どころです。
 
 
アクションシーンはメチャ恰好良いんですけど、真田広之さんともう一人の主役の人もカッコ良かったですよ。
 
 
コナン・リーっていう人なんですけど、ジャッキーチェンに似てます笑い泣き誰が見ても似てますびっくりマークびっくりマーク
 
 
きっと、プロデューサーの呉思遠は、ジャッキーチェンに出て欲しかったんだろうな~。とか思います。
 
そしたら、もしかしたら真田広之さんもこの映画でスーパースターになっていたかもですね。
 
 
ハリウッドスターであり、世界的な俳優である、今の真田広之さんが一番ですけどねクラッカークラッカークラッカー



 
 
中一の時に、砂場で知らない同級生がバク宙しているのを見てショック受けて、泣きながら練習してバク宙できるようになったんですけど、その時のバク宙してた彼とは友達になって、今でもたまに連絡とったりしています。
 
ワビっていうあだ名で呼ばれていた彼と仲良くなってからは、よく一緒に児童館に行って一緒にバク転して遊んでいました。
 
昨年亡くなられた漫画家、水島 新司さんのマンガ『ドカベン』に出てくるワビ助に似ているからと、同級生に付けられたあだ名でした。
 
そのあだ名を付けた友達は二十歳くらいに交通事故で旅立ちました流れ星
 
 
 
ワビは、ブルースリーが好きで、僕はジャッキーチェンが好きで、みたいな感じで、ある日ワビから一緒に大久保のスポーツセンターに行こう!と誘われました。
 
当時JACの練習場だったんですね。それをワビが本読んで調べて
 
二人で自転車漕いで、JR大久保駅まで行ってスポーツセンターに何回か行っていました。
 
真田さんとかは、見かけたことなかったですけどね。ウインク
 
ある日ワビが言いました『一緒に東亜学園の体育科に進学できたら、一緒にJACに入ろう』
 
龍の忍者を観て、場所は関係ないのかも?そう思っていた僕はその言葉を受け入れて、二人で東亜学園を受験したんですが・・・。
 
 
ワビが、落ちちゃってたんです驚きあせるあせる
 
 
僕はもともと、ワビに言われなければ東亜学園に進学するつもりはなくて、都立高校に進学したかったんですけど、都立高校には落ちちゃっていて・・・波叫び波・・・。
 
 
そして、受験する高校をアレコレ考えている時に、兄から『目黒高校は空手が強いので有名だよ』と教えてもらったのでした。
 
 
目黒高校を受験した時の面接官が、空手部顧問だったせいもあって、中学を卒業した次の日から目黒高校の空手道部に通うこととなります。波滝汗波ゲロー波チーン波ポーン波ゲッソリ波波
 
 
そして、後悔づくしの目黒高校での3年間へと続きますセキセイインコ青
 
 
 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて